5-1.


 高校生になってから二度目の夏が訪れた。

 ほぼ毎日、今年の最高気温を更新し続けている昨今だけど、二十一世紀の文明の利器の前ではさしたる問題にはならない。私はクーラーの効いた自分の部屋で机に向かっていた。頬杖をつきながら歴史の教科書を開いて、要所に蛍光ペンを走らせていた。


 ガチャンと、背後ろから扉の開く音がして、同時に気の抜けた声が耳に流れた。


「お風呂上がったよー。先がつかえてるからさっさと入れって、お母さんが」


 首だけ振り向かせると、濡れた長髪の上にバスタオルを被せた桜が、ほくほくと顔を紅潮させていた。


「はーい」


第三者の登場により集中力の糸が途切れた私は、グッと伸びをした。しばらく同じ姿勢をつづけていたせいか身体は凝り固まっていて、全身がゴムのように伸びる感覚があった。開いている歴史の教科書をそのままに私は立ち上がる。ベッドの上に寝そべり、スマホを眺めている桜が視界に映った。誰がどう見ても彼女はだらけている。


「桜、一応教えてあげるけど、来週から期末試験期間だよ」

「そういう説もあるらしいね」

「期末試験がない説を、私は聞いたことがないけど」

活計歓楽かっけいかんらく赤点上等あかてんじょうとう


 こちらにⅤサインを向けてにへら笑う葉月に対して、私は嘆息を返す。


「今年は補習の課題、手伝わないからね。来年は私たちも三年で受験なんだから、あんまり油断しない方がいいよ」

「へいへーい。お母さんみたいなこと言うじゃん」

「いいえ、私はお姉ちゃんよ」

「知ってるっつーの。いいよ、いざとなったら学年一位の成績を死守しつづけている葵くんに泣きつくから」


 口をとがらせる桜をとりあえずスルーした。

 衣装ケースから下着を取り出した私はお風呂場へ向かうべく部屋を出ようとして、「あっ、そうだお姉ちゃん。葵くんといえば」思い出したような桜の声に呼び止められた。振り返ると、ムクリと上体を起こした桜がニコニコと不自然な笑顔を浮かべていた。


「今度、葵くんと日向と四人で吉祥寺の八幡祭りに行くことになったから。新しい浴衣、一緒に買いに行こうね」

「えっ」


 全身が固まり、コンマ一秒間だけ思考回路が停止した。私は、脳天から顎先まで体温が抜け落ちていく感覚を覚えていた。


「そんな話。私聞いてないんだけど」

 我ながら、冷えた口調だったと思う。でも桜はニコニコと、不自然な笑顔を崩さない。


「じゃあ今言った。行こうよ」

「私は、いいよ」


 私は明確に桜から顔を背け、地面に視線を落とした。桜の声が耳に流れる。


「葵くんがいるから?」


 やけに輪郭を帯びた。張りのある口調だった。私は桜から視線を逸らしたまま返事をすぐに返事を返さず、頑なに口を閉ざしている。

 桜が言葉を重ねた。


「質問を変えようか。お姉ちゃんがまだ、葵くんのこと好きだから?」

「そうだよ」


 今度は、間髪入れずにそう返した。

 ベッドの軋む音が聞こえたので顔を上げると、桜がベッドから立ち上がって私を見ていた。先ほどまでの不自然な笑顔は浮かべていない。桜は、やけに神妙な顔をしていた。


「お姉ちゃんさ、二年生に上がって葵くんと別クラスになってから、一回も葵くんと話してないでしょ」


 少しだけ逡巡し、私は言葉を選ぶ。

「別に、話す用もないからね」


 今度は桜が私から目を逸らす。口元に手をあてがった彼女が、「これはほとんど独り言だから、聞き流してもらってもいいんだけど」妙な前置きから言葉をはじめる。


「お姉ちゃんはこの恋を終わらせたいって言ってたけど。今のやり方じゃだめだと思う。お姉ちゃん、葵くんのことを忘れようと意図的に避けてるでしょ。でもそれ、逆効果だよ」


 私は口を挟まず、彼女の声にただ耳を傾けていた。


「リアルの葵くんをいくら遠ざけたとしても、お姉ちゃんの中にだけ存在するフィクションの葵くんは、お姉ちゃんの頭の中に残りつづける。むしろどんどん存在が大きくなって、お姉ちゃんは葵くんのこと、忘れられなくなるよ」

「どうしろっていうの」


 耐え切れず私がそう返すと、桜はさも当然といった口ぶりで、淡々と言った。


「現実を、見えないように遠ざけるんじゃなくて、受け入れて消化すればいいんだよ」


 簡単な算数の問題の解き方を教えるような、そんな口調だった。


「リアルの葵くんとの関係を修復することで、フィクションの葵くんはお姉ちゃんの頭の中からいなくなる。恋の呪いは段々と、初恋の思い出に変わってくれるよ」


 桜がゆっくりと私に近づく。

 私の顔をした桜が、私の領域に侵入する。


「だからさ、また昼休み、中庭でお昼ご飯食べようよ。いつもの四人で集まってさ。最初は気まずいかもしれないけど、葵くんああ見えて、空気は読めるからさ、すぐに元の鞘に収まるよ。くだらないことで笑って、バカみたいに落ち着く時間がすぐ戻ってくるよ。お姉ちゃんだって、このままじゃ寂しいでしょ?」


 急に、胸がしめつけられるように痛む。

 私だけがだだをこねて、周りに迷惑をかけているんじゃないかって、そんな罪悪感を覚えた。

 私は桜に背を向ける。今の自分の顔を見られたくなかった。


「寂しくない。と言えば嘘になるけど」


 少しだけ、声が震える。


「私の中で、私の恋はもうほとんど、過去の出来事になっているの。彼への想いを、ようやく忘れられそうになっているの。だから」

「嘘だね。過去の出来事になっているなら、葵くんと会っても平気なはずだよ。目を合わせてちゃんと言葉を交わすこと、できるはずだよ」


 桜の声は人口音声のように濁り気がなかった。桜らしく、善も悪も、情も忖度も存在せず、だから容赦がなかった。

 彼女の発した言葉の意味が頭の中で膨張する。耐えがたくなった私は、思わず弱音を吐き出した。


「私は桜みたいに、強くないから」

「でた。それお姉ちゃんたまに言うけど。なんなの? 私と比較することに、なんの意味があるの?」


 桜が珍しく、苛々しく声を荒げていた。嫌悪感が彼女の表面上に現れていた。私は桜に背を向けたまま、嵐が過ぎ去るのを待つように、心をぎゅっと縮こませている。


「だから、私は自分の気持ちについて、意味があるとかないとか、そういう風に割り切って考えられないって、そういうこと」

「そんなのは言い訳だよ。思考停止だよ」

「そうかもね。でもそれが私なの」


 私が吐き捨てるように言う。

 桜はそれ以上、言葉を重ねなかった。

 彼女はきっと、呆れたような、寂しいような、そんな表情を浮かべていると思う。

 再び沈黙が間を埋めた。二人とも押し黙っていた。このままじっとしていたところで状況は変わらない。それを知っていながらなお、どちらも声を発することはなかった。

 やがて諦めたように桜が「とにかくさ」、自身を落ち着けるように大きな息を吐く。


「八月二日は空けておいてよ。八幡祭り、行くかどうかはギリギリまで悩んでいいからさ」

「えっ?」


 思わず私は振り向いて桜を見た。


「八月二日?」


 私の急な所作に驚いたのか、彼女もまたにキョトンと目を丸くしている。


「うん。何か予定でもあるの? ってなんかこの質問、デジャブだな」

「八月二日は、葵くんの誕生日」


 呆けたように私が漏らすと、桜が不思議そうに首を傾げる。


「そうなんだ。あれ、でも葵くん、そんなこと言ってなかったけどな。そもそもお姉ちゃん、なんで葵くんの誕生日知ってるの?」


 私の頭の中がグルグルと回っている。幾千のクエスチョンがぶわっと広がって、私の脳はキャパシティオーバーを起こしていた。

 そして、論理的思考を手放す。私は本能のままに口を開き、はっきりと告げた。


「八幡祭り、私も行く」


 桜が再び、ギョッと驚いたような顔をした。私は彼女に顔を近づけ、後先を考えず口を動かした。


「ただ、桜にお願いがある。その日、私と入れ替わって欲しい」


 視界に映る葉月の表情が、銅像のように微動だにしない。


「私が桜の振りをして、あなたは葉月になりすます。一日だけ、二人の中身を交換するの」


 私が一気にまくし立てると、桜は面くらったように目を丸くしたままだった。でもすぐに目元をじとっと湿らせ、いつもの口調で淡々と返す。


「面白そうな提案だけど。イタズラが目的じゃあないよね。どうしてそんなことを?」


 私は目を瞑る。少しだけ平静が戻った。

 深呼吸を長く深くするように、私はゆったりと言葉を紡いだ。


「去年の夏に渡せなかった葵くんへの誕生日プレゼント。ずっと引き出しの奥にしまってある。葵くん、まだ桜のことが好きなんじゃないかって、私なんかが出しゃばらない方がいいんじゃないかって、消極的な考え方ばかりが頭の中に浮かんで、私は結局勇気が出なかった」


 瞼を明けた。

 私の顔をした桜の顔が、少しだけぼやけて見える。


「次はちゃんと渡さなきゃって、ずっと思ってた。お互い、誕生日をお祝いしよう。葵くんとそう約束していたから。葵くんは私の誕生日をちゃんと覚えていて、プレゼントをくれた。葵くんは約束を守ってくれた。今度は私の番。でも、新島葉月じゃだめなの。葵くんに未だ想いを寄せている新島葉月がそれをしたら、葵くんはきっと困惑する。私はもう、彼にあんな顔させたくないし、私も見たくない。だから新島桜の姿を借りたいの。桜も葵くんから誕生日プレゼントをもらっている。恋人関係から友達に戻ることができた桜なら、そのお返しをすることに不自然はないから」

「えっ、私、葵くんから誕生日プレゼントなんか貰ってな――」


 途中まで言いかけた桜が、ハッと何かに気づくような表情を見せた。


「ああ、あの時の。そういうことだったのか」


 腑に落ちた表情を見せた桜が、ポリポリと頭を掻きながら、やさぐれた声をこぼす。


「でもさ、葵くんと約束をしたのは新島桜じゃなくて新島葉月だよ。お姉ちゃんが私の姿を借りて誕生日プレゼントを渡したとしても、約束を守ったことにはならないんじゃないかな」


 私はかぶりを振り、再び桜の目を見た。


「これは私の問題なの。本当は、私の恋は去年の秋に終わっているはずだった。ずるずると引きずってしまっているのは、彼との約束が心残りだったから。誰の姿だってかまわない。葵くんが認識しなくても構わない。私が自分の手で彼に誕生日プレゼントを渡して、私の口からおめでとうと言うことで、私は今度こそ、この恋を終わらせることができる」

「それは、そうかもしれないけど。そうだとしてもやっぱり、自分で直接渡した方がいいんじゃ」

「お願い」


 私は一切の猶予を消し去る。


「お願いだよ。私が桜にする、最初で最後のお願い」


 一切の根拠を捨て置いて、他の選択肢を全て無視して、私は桜に強く要求していた。

 やがて桜が私から視線を逸らし、ふぅと小さく息を吐いた。ぼそぼそと、いつもの単調な口調で返す。


「正直、私は乗り気じゃない。お姉ちゃんの考え方に納得もいってない。いってないけど」


 へらり。

 諦めたような、でも少しだけ嬉しそうな、いたく緩慢した表情で桜が笑った。


「わかったよ。お姉ちゃんにそんな顔されたら、断れない」


 胸の奥から衝動が込み上がる。私は本能のままに桜の身体を引き寄せ、抱きしめていた。


「ありがとう」


 触れ合う体温がグラデーションを彩るように、私の全身をほだしていった。桜がポンポンと私の背中をたたき、ゆりかごに揺られるようなテンポで私の心拍数が穏やかになっていく。


「私はお姉ちゃんの振り、自信あるけど、お姉ちゃんは大丈夫かなぁ。オリジナルの四字熟語、いくつか教えておいてあげるよ」

「即席で考えてるんじゃなかったの、あれ」


 桜が私から身体を離し、私を見た。


「そうだお姉ちゃん、実は今回の八幡祭り企画、葵くんとお姉ちゃんが気まずいのをなんとかしたい日向が、葵くんがお姉ちゃんの浴衣を誉めまくることで仲直りさせようっていう、裏の作戦があるんだよね。お姉ちゃんは新島桜としてうまく乗っかってね」

「何その、バカみたいな作戦」

「あ、あと。葵くんとお姉ちゃんが気まずい感じになってるのは、葵くんがお姉ちゃんの眼鏡を踏んづけて壊したからってことになってるから。そこんとこもよろしくね」

「何その、バカみたいな理由」

「いい言い訳がとっさに出なくってさ。私、アドリブには弱いんだよ。ごめんって」


 桜がキシシとイタズラっぽく歯を見せて、私の全身がふっと軽くなる。


「妙なこと頼んじゃって、ごめんね」

「ほんとだよ。代わりに今年も補習の課題、手伝ってね」

「試験をがんばろうという選択肢は、最初からないんだね」


 ほぼ同時、同じタイミングで二人は笑った。

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