3-3.
両手が馳走で塞がっているにも関わらず、きょろきょろと次の獲物を狙っている日向を、桜が笑ってたしなめる。意外にも葉月は射的の腕が良く、どこぞのご当地キャラのフィギュアを見事撃ち抜いてガッツポーズを披露した。桜が金魚すくいのポイを早々にダメにしてしまい、不服そうに眉を曲げていたので、僕はコツを教えてあげた。金魚を追うんじゃなくて、来るのを待つといいよ。コクンと頷いた彼女が水面を見つめ、真剣な表情で最後の一すくいに懸ける。網の上に金魚を乗せることには成功したが、すんでのところで破けてしまった。あーあ、惜しかったな。せっかく葵くんがコツ教えてくれたのに。残念そうに笑う桜の横顔は、いつもよりなんだか大人びて見えた。
ありていうに言うと、僕は宴の喧騒を楽しんでいた。日向も桜も葉月も、たぶんみんなも夏夜の幻想に心が浮いている。僕たちを止める者はだれもいなかった。高校生という無敵の二つ名を有する今の僕たちに、敵う奴なんていない気がした。
気がしているだけの真実に、そっと目を背けて。
「あっ、かたぬき」
出し抜けに葉月がそうこぼした。
彼女の視線の先には背の低いテーブル台と、そこに並んで座る小学生のグループが真剣な顔で何かを削っている。四人は一度足を止め、日向がしみじみとした声を上げた。
「なっついなぁ。何だ葉月、かたぬき好きなの?」
「ううん。やったことないんだけど、だから一回やってみたくて」
葉月の言葉を受けて、日向がサムズアップをしながら白い歯を見せる。
「だったらやろうぜ。そろそろ財布が底をつきかけてたところだ。一攫千金狙って腹の足しにするか」
「まだ食うのかよ」
僕が呆れた声を差し込むも、日向は意に介する様子を見せない。
「葵と桜もどうだ? 人数多い方がチャンスあるし」
「私は遠慮しておこうかな。慣れない浴衣になんだか暑くなっちゃって、ちょっとどこかで休みたいかも」
にこっと口元に笑みを浮かべているものの、桜の顔は確かに少し疲れているようだった。元気印の彼女にしては珍しい。日向もまた心配そうな声を返す。
「おおそうか。無理すんなよ。ただ、周りに人がいるっつっても、さすがに一人にはさせらんねぇなぁ」
「葵くん。悪いけど桜に付き添ってくれない?」
葉月がそう言って、僕はうなづいた。
「うん。わかった。僕、そもそもかたぬき成功させたことないし、戦力にならないだろうから」
「ごめんね。ありがとう」
桜が申し訳なさそうに首を傾けた。
「じゃあなんかあったら、スマホで連絡くれよ。花火がはじまるころにまた集まろうぜ」
そう言うなり、日向は僕たちに背を向け、葉月も後ろにつづく。僕は隣の桜に顔を向けた。
「境内回って座れそうなところ探そうか」
桜はゆったりと頷き、「うん、ありがとう」僕の方を見ぬまま、しおらしい声を漏らした。
人込みの中を二人並んで歩き、僕はきょろきょろと周囲に目を配らせていた。休憩スペースらしき場所はいくつか見かけたが、この殺人的な込み具合ではやはりというか、どこも満席だった。気づけば最初に待ち合わせた入り口の鳥居の近くまで戻ってきてしまう。
「いっそのこと、一回境内から出ちゃおうか。確か同じ通り沿いに小さな公園があったはず。来るときに見かけたんだ」
「そうしよっか。ごめんね本当に」
桜は弱々しい声でそう言いながら、パタパタと顔を掌で仰いでいた。首筋にはうっすら汗が滲んでいる。
「僕も休みたかったところだし、気にしないで。かき氷でも買ってさ、静かなところで優雅に涼もう」
僕たちはすぐ近くにあったかき氷の屋台に向かう。
「すいません。ブルーハワイ一つ下さい。桜は何にする?」
「私は、いちご味を一つください」
「はいよ! 彼女、とびっきりかわいいねー。大切にしなよ!」
店主のおじさんがガハハと快活に笑った。節操も悪気もない囃し文句に、僕たちはとりあえず苦笑いを返した。
※
訪れた公園には誰もおらず、僕たちは木造ベンチに腰をかけて、静寂を享受した。かき氷の山にスプーンをさしこみ口に運ぶと、冷たい甘味が口いっぱいに広がり、五感が覚める。なんの気なしに周囲に目をやった。砂場、鉄棒、錆びついた滑り台と樹木がぽつぽつと。
二階建ての住宅やアパートに三面を囲われたその公園は決して広くなく、こじんまりとしていた。幼いころに訪れていたら違った景色が見えていたのだろうか。身長百七十センチの僕にとって、その小さな世界がやけに寂しく映った。
「ありがとう。大分楽になったよ」
街灯が彼女の横顔を照らす。遠慮がちな彼女の笑みは、先ほどよりも確かに元気そうに見えた。胸をなでおろした僕は「よかった」と返し、そういえば日向たちに連絡してなかったなと思い出す。
平らげたかき氷の紙容器をベンチの脇に置いて、僕はズボンのポケットからスマホをとりだした。メッセージアプリのグループチャットを開くと、写真つきのメッセージが一件届いていた。
背の低いテーブルの前に座り、かたぬきの残骸を前に悔しそうな顔をする葉月と、それを隠し撮り撮影して自分も写り込んでいる日向のピースサイン。
なんとも平和なワンシーンだった。僕は思わずふっと笑みをこぼして、気づいた彼女が何事かと僕を見る。
「これ、見てよ」
僕がスマホ画面を彼女彼女に向けると、「あの二人、本当に仲良いね」彼女は娘を愛でる母親のような表情で顔をたゆませていた。
「葉月、こんな表情するんだね。なんか意外だな」
僕がそうこぼすと、彼女が、
「今日はいつもより、ちょっとテンション高いね。普段は家にいることが多いから、久々の外出に浮かれているのかも」
「そっか。そうだよね。いくら大人っぽいとはいっても、葉月だって僕たちと同い年の高校生だもんね」
「そうだよ。私たち、身体つきはもうほとんど成熟しているかもしれないけど。まだたった十六年しか生きていない子どもなんだよ」
彼女が遠くを見るように目を細めた。その台詞は、僕に言ったというより、自分自身に向けて発しているように聞こえた。僕は彼女の横顔を見ている。夜の暗さと街の明るさを半分ずつ与えられたその姿は、凹凸がはっきりしておらずどこか現実味がなかった。目の前の彼女が、新島桜ではない幻想体なのではないかと錯覚した。僕はハッとなり、何かをごまかすように会話を繋ぐ。
「今日はみんな楽しそうでよかったよ。最初はなんてバカな作戦を言い出すんだろうと思ったけど、日向には感謝だな」
「うん。夏休みとはいえ毎日部活で、なんだか同じ時間がただ流れていくだけの気がしていたから、こういうの、たまにはいいね」
彼女が僕に同調するように口元を緩め、更に言葉をつづけた。
「葵くんは? 葉月のこともあったし。今日、ちゃんと楽しめてる?」
少しだけ不安そうな表情を見せる彼女に、僕は少し声を大きくして返事をする。
「もちろん。めちゃくちゃ楽しんでるよ。僕なんかがこんなに幸せでいいのかなって感じ」
「何言ってるの。人が幸せになって、悪いことなんて一つもないよ」
「それは、そうなんだけど、なんかね」
何気なく言った自分の一言を、僕は不必要に反芻してしまう。
「僕、調子が良いと逆に怖くなるんだよね。なんか、このままうまくいくわけないよなぁって。心でどこかブレーキがかかっちゃうというか。急に悪いことが起こった時のために、一歩引いちゃうんだよ。根が暗いのかな」
僕はハハッと自嘲をこぼして見せたが、彼女は釣られて笑うことはしなかった。「葵くん……」と神妙な顔つきでこちらを見ていた。僕は慌てて、
「いや、深い意味はないんだ。ごめんね」
その場をとりなそうと早口でまくし立てた。彼女はなおもじっと僕の瞳を見つめていた。彼女は静かに唇をはがして、再び僕の名前を呼ぶ。
「葵くん。実はね、葵くんに渡したいものがあるの」
彼女はベンチの脇に置いていた巾着袋を手に取り、口の紐を解き始める。想像だにしない彼女の言葉に、僕は「えっ?」と間抜けな声をあげるばかりだ。
巾着袋の中から、彼女は紙で包まれた二つの箱を取り出した。どちらも両掌をいっぱいに広げたら収まるくらいの小箱だった。少し俯きながら彼女が、それを僕に差し出す。
「誕生日、おめでとう。これ、プレゼント」
僕はポカンとしていた。
間抜けな声を漏らす余裕すらなく、少しの間ボーッと呆けていた。
彼女は黙っている。黙ったまま、唇を嚙むような顔で視線を斜め下に落としている。
今まで、僕が見たことのない表情だった。
「知ってたんだ。僕の誕生日」
ようやく、辛うじて僕がそう発すると、「そりゃあ、ね」なおも俯いたまま、彼女が遠慮がちに首を縦に振る。
「ありがとう。家族以外に祝われたの、初めてかも」
僕は両手を伸ばして、小さな二つの小箱を受け取った。彼女は差し出していた両手を引き、自身の膝の上に置く。
「中、開けていい?」
「うん」
高揚と困惑の混ざった不可思議な感情を覚えたまま、僕は包み紙を開けた。サプライズのプレゼントが初体験だった僕は、どうリアクションをとるべきかを掴みあぐねていた。そして、
「これって……」
プレゼントの中身を確認した僕は、感謝や歓喜よりも先に、違和感を吐露してしまう。
彼女は、僕の反応を事前に察知していたようだ。そのうえでこのプレゼントを選んだんだろう。いたく静かな口調で、でも彼女の声は凛と張っていた。
「葵くんが使っていたメーカーの新作……を選んだつもりなんだけど、合ってたかな?」
彼女がくれたのはスイミングキャップとゴーグルだった。
僕は戸惑うように視線を移ろわせ、彼女を見る。彼女も顔を上げて僕の表情を窺っていた。
「ありがとう。合ってるよ。でも僕は、もう」
「使うかどうかは、葵くんの自由」
綻ぶような微笑とともに、彼女が僕の発言を封じる。
「どちらかというと、これは私のエゴ。私はやっぱり、葵くんの泳いでいる姿、好きだから」
彼女が表情を崩して笑った。
ロールアップした髪型に薄化粧を施している今日の彼女は、いつもの天真爛漫な彼女とは違い、どこか大人の女性を感じさせていた。だけど今、目の前にいる彼女の表情は、まぎれもなく僕と同い年、平凡な女子高生のあか抜けない純真な笑顔だった。
平凡な女子高生のあか抜けない笑顔が僕の視界いっぱいに広がり、僕の自意識を余すことなくさらっていく。僕は視界に映るその光景を、特別視してしまっている。
世界が止まり、一枚のスナップ写真の中に閉じ込められた気がした。僕は何も言えなかった。何も言えず、ただ彼女を見ることしかできなかった。自分は今どんな顔をしているんだろう。心が体の外側にある感覚を覚えた。スローモーションで時間が進行する中、僕はとある事実に気づいた。
僕はたぶん、目の前にいる一人の女の子の姿に恋をしている。
その事実に僕は、戸惑っている。
僕はどうすればいいんだろう。
解のない問いが、脳内の迷路をぐるぐると回っていた。
やがて彼女が、慌てたように胸の前で両掌を振り始めた。
「あっ、好きってそういう意味じゃないから。安心して」
我に返るように、僕もまた声を裏返らせた。
「あ、いや、僕の方もなんか、変に黙っちゃって、ごめん」
僕はポリポリと頬をかき、明後日の方向に視線を逃がした。
「やっぱり。迷惑、だったかな」
少し消沈した彼女の声。僕はすぐに彼女に顔を向けた。
「そんなことない。そんなことないよ。誕生日を知っててくれたってことも含めて、すごく嬉しい」
「そう、なら、良かった」
憑き物がとれたように、彼女が再び表情を崩した。まるで重要な儀式を一つ終えたあとのように、彼女の笑みは安寧に満ちていた。僕は彼女の所作、頬の動き一つ一つに目を奪われ、その姿が僕の脳内にインポートされていく。
「本当に、良かった」
泣き出しそうな声を漏らす彼女は、どこか脆く、少し押したら崩れ落ちてしまいそうな気配さえあった。僕は彼女を抱きしめたい衝動に駆られ、一握りの理性が五体に静止を命じる。
しばらく、二人は沈黙を享受していた。
どちらとも口を開かず、彼女はただ目の前を見つめている。たゆたう時間に全身を漬からせているようだった。どこかで鳴っている虫の音と、時折流れる環境音だけがリアルを僕たちに知らしめる。僕はこの時間の壊し方がわからなかった。第三者の介入がなければ一生このままだったかもしれない。
「あっ」
ポツポツと。肌に冷たい何かがしたる。状況を理解した僕は、同時に声をあげた
「雨」
したる雨脚が徐々に強くなってくる。「ホントだ。大変」と言いながら彼女は立ち上がり、僕も習う。
「打ち上げ花火、中止かなぁ」
「かもね。とにかく雨宿りできるところまで移動しよう」
言うなり、ごく自然に僕は彼女の前に手を差し伸べた。彼女は幼子のようにじぃっと、まん丸い目で僕の掌を見つめりばかりだった。僕は慌てて手を引っ込める。
「ああ、ごめん。癖というか」
「い、いや、私の方こそ」
ハッとなった彼女が気まずそうに顔を伏せる。僕もまた彼女から目を逸らし、慌てて公園の外に目をやった。
「神社までの道に途中、コンビニあったよね。とりあえずそこまで移動しようか」
僕は早足で公園の外に出た。振り返りすぐ後ろにつく彼女の存在を確認する。彼女はニコリと僕に微笑みを返した。僕はポリポリと頭をかきながら、再び前を向いた。
解のない問いが、脳内の迷路をぐるぐると回っている。
僕は、どうしたらいいんだろう。
というか、どうしたいんだろう。
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