4.


 恋のはじまりが産声をあげたのは、葉桜に彩られた四月のこと。

 新しい景色、新しい匂い、新しい声たちに囲まれて僕は、杉並西高校の正門の前に立った。門の横には、仰々しい書体で文字がつづられた立て看板が立てかけられている。

『杉並西高校 祝 入学式』

 今日からまた、新しい僕の生活が始まる。


 新しい出会いを経た一年後の僕は、何を思っているのだろう。誰と何をしているのだろう。未来予想図の描き方は、幾千通りもある。でも拙いながらも十年以上は生きてきた人生経験から僕は知っていた。僕の都合で描かれた未来を、神様はきっと抽選しない。


 ふいに、一人の女生徒の姿が目に入った。パリッとしたブレザーを纏う彼女は、新緑を思わせるようにどこか初々しかった。なびく長髪が陽光に照らされて、煌めいていた。


 綺麗な子だな。僕はそういう第一印象を抱いた。


 彼女は正門をくぐった少し先で立ち止まり、きょろきょろと周囲に目をやっていた。僕は彼女に近づき、声をかける。


「何か、探してる?」


 声をかけられた彼女は振り向き、少し驚いた顔をしていた。やや恐々した声色で僕に返事を返す。


「はい。私、一年生で。教室の場所がわからなくなっちゃって」

「ああ、この学校、校舎がやたら多くてわかりにくいよね」


 僕が口元を綻ばせて笑うと少し警戒が解かれたのか、彼女もまた頬を崩した。屈託のないその表情だけで、目の前の彼女が素直でまっすぐな性格の持ち主だと想像できる。


「そうなんです。一緒に来た妹ともはぐれちゃって」

「妹?」

「双子の妹がいるんです。二人とも杉並西に入学して」

「えっ、双子?」


 僕は驚き、思わず声を詰まらせた。おそらく彼女にとっては、何度となく目の当たりにしたリアクションなのだろう。彼女は慣れた態度で苦笑し、言葉をつづける。


「珍しいですよね。わざわざ同じ高校に入るなんて。二人とも、家が近いからって理由で選んだんだけど」


 目の前の彼女がイタズラっぽい表情を見せた。僕は口を開けたまま幾ばくか黙っていたが、やがて、再び口元を綻ばせて、正面にそびえる五階建ての建物を指差して言った。


「あれが本校舎で、一年生の教室は三階だよ」


 彼女は僕の指さした方向に目をやり、すぐにまた僕の方を向き直った。ペコリと綺麗なお辞儀を披露する。


「そうなんですね。ありがとうございます。また今度会ったとき、お礼させてください」


 そう言うなり、踵を返した彼女の長髪がまたなびいた。僕はなぜだかボーッとしてしまい、しばらくその背中を目で追っていた。


 周囲の生徒たちが僕の横を抜け、それぞれの向かう先へと歩みを進めていく。

 僕だけがその場に立ち止まっていた。

 みんな、足を使ってまっすぐ歩いているのに、僕だけが動けずにいた。

 僕は、どうすればいいんだろう。いや、どうすればよかったんだろう。

 解のない問いが頭を支配しようとしたその時、僕は何者かに背中を強打された。


「いたっ!」


 思わず声をあげ後ろを振り返ると、犯人の顔がお目見えされる。



 その顔を僕はよく見知っていた。

 よく見知った彼女が、ニマニマとイタズラっぽく笑っていた。



「だーれだ?」

「……通り摩暴行犯」

「ぶぶーっ! 正解は新島桜ちゃんでしたー!」



 目の前の彼女がケラケラと子供のように表情を転がす。このやり取り、前にもしたことがあったような。僕は嘆息を漏らすばかりだ。

 不敵な笑みを隠しきれてない彼女が、口元を手の袖で覆いながら僕に近づく。

「葵くん。入学式早々、一年生ナンパしてんなよ。最高学年に上がったからって調子に乗ってんなよ」


 さっきのを見られていたのか。僕は後ろ髪をさわりながら明後日の方向に視線を逃がす。


「いや、そういうんじゃないし、調子に乗ってもいないし」


 だる絡みをつづけられるのを危惧した僕は、無理やり話題を変えようと試みた。


「桜、なんで学校来てるんだよ。在校生は今日まで春休みだろ」

「水泳部の勧誘だよ。三年で参加してるのは私と日向とお姉ちゃんくらいなもんだけどね」

「葉月も来てるのか。一緒じゃないの?」

「なんか、図書委員の仕事があるとか言って私より先に家を出たよ。ご苦労なこったよね。っていうか葵くんこそ、委員会も部活動も入ってないくせになんで入学式に学校来てんの?」


 彼女が首を斜めに傾ける。僕は後ろ髪をさわりながらぼそぼそと声をこぼした。


「僕、入学式で在校生代表の挨拶やる羽目になったんだよね」

「えっ、なんで葵くんが」


 ギョッと身を少し引いた桜が、でもすぐに、


「いやそうか。葵くんだからか」

「うん、僕だからね」


 彼女は一人勝手に納得した様子で掌を打っていた。

 そろそろ集合時間だ。話もそこそこにその場を離れようとした僕だったが、そういえば。

 先ほど僕が邂逅した世にも奇妙な偶然を、彼女に共有しない手はあるまい。


「桜、この学校って、双子が一緒に入学すると受験免除になる制度とか、あったりするの?」

「えっ。そんな裏技みたいなシステムあるわけないじゃん。私もお姉ちゃんも、ちゃんと試験をパスして入学したっつーの」


 我ながら唐突かつ、どうかと思う質問だ。やはりというか、桜は怪訝そうな顔で僕に湿った目を向けている。僕は頬を搔きながら、


「いやさ、さっき僕と話していた一年生が双子らしくて、姉妹そろってうちに入学したんだって」

「えっ、何それ。私とお姉ちゃんみたいじゃん」


 目の前の彼女が興奮したように声のトーンをあげた。


「うん。珍しいこともあるもんだなって」

「葵くん、双子を引き寄せる特殊能力でも持ってるんじゃないの」

「なんだよその、あっても困らないけどほとんど役に立たない能力」


 僕が乾いたように笑うと風が吹いて、葉桜が舞った。

 紙吹雪のような白に意識を奪われ、僕も彼女も思わず頭上を見上げた。ついこの前までは満開だったのに、ゆらゆらと揺れる木々の枝には緑が芽吹いていた。折しも僕はこの瞬間、世界に存在する時間という概念を再認識する。


「すっかり散っちゃったね」


 蛇口から垂れる水滴のような声を、彼女が。


「なんだか私が消えてしまうみたいで、この季節は寂しいよ」

「そんなトリッキーな感想を抱くのは、この国で桜だけだと思うよ」

「どれどれ。完全に散っちゃう前にこの目に焼き付けようかな」


 ごそごそとスクールバッグをまさぐった彼女が、眼鏡を取り出して装着した。

 得も言われぬ違和感と、不確定な記憶が僕の脳裏をよぎる。


「あれ、眼鏡なんてしてたっけ」

「ああ、最近視力落ちちゃって。ほら、今年は受験もあるし、私ですら一応、少しは勉強しようかなとかは思ってるわけよ」


 眼鏡を手にかけた彼女が、自嘲気味な苦笑を漏らす。


 その姿に僕は、見覚えがある気がする。


 彼女が眼鏡をかけはじめた理由は十二分に納得できるものだったし(本人が本当に勉強するのかは別として)、辻褄が合っていた。桜が眼鏡をかけている事実自体は、なんらおかしいことではない。でもなぜだか、僕が抱いた違和感は消えてくれなかった。あてはまらないパズルのピースを無理やりはめこんだみたいな違和感。


 胸に巣くった疑問符を、僕はそのまま、彼女にさしだす。


「桜、ちょっと変なこと聞くんだけど」

「何?」


 妙な前置きを不思議に思ったのか、彼女がやや怪訝そうなトーンで返す。

 僕は小さく息を吐きだし、一音一音、輪郭の伴った声を目の前の彼女に届けた。


「去年の夏、日向と葉月と四人で行った八幡祭り。もしかして桜と葉月、入れ替わってたりした?」


 僕たち二人の間を、無音が駆け抜けた。

 彼女の表情から、色が消えていた。

 僕は、見てはいけないものを見てしまった心地に襲われた。目の前の彼女が、灰色の眼光で僕の目を射抜いていた。


「なんでそんなこと、聞くのかな」

「なんでって」

 彼女の妙な迫力に気おされた僕は、視線を逸らしてしまう。

「理由は特に、ないけど」

「ふぅん」


 僕は再び顔を上げる。彼女は相変わらず、アンドロイドロボットのような無表情で僕を見つめていた。そのまま、抑揚のない、バカにはっきりとした口調で、


「シュレディンガーの新島姉妹」

「……はっ?」


 ようやく、彼女が表情を崩す。人の愚行を憐れむように目を細めていた。


「もしあの夏の八幡祭りで、私とお姉ちゃんが入れ替わっていたとして、それを確認する術はもう存在しない。私たちがイエスと言えば本当になるし、私たちがノーといえば嘘になる」

「つまり、どういうこと」

「つまり、私たちがイエスともノーとも言わなかった場合、その仮定は嘘と本当が半々に混ざった、不安定な状態になるってこと」

「わかるようでわからないな」

「わかるように言ってないからね」


 それ以上彼女は何も言わなかったし、僕も何も返せなかった。真理から迂回するような言い方をあえて、彼女は選んでいるんだと思う。彼女はたぶん、僕の質問を真正面から答える気を持ってない。

 でも僕は、彼女の反応で確信していた。

 はぐらかすような言い方をするということは、はぐらかす対象となる真実が存在するということだ。

 彼女が何故そうするのか、意図はわからない。これ以上の追及は無駄だろうし、僕がこの話を深堀りする必要性もない。うやむやにしてこの場を去ったとしても、僕の日常になんら支障はきたさない。だけど、

 僕はその場を動こうとはしなかった。思考が空間にへばりついて、僕の五体を逃がさなかった。

 僕はおそらく、自らが感じた違和感を、今この場で、自らの力で解消する必要がある。

 そうしないと、僕は一生、立ち止まったままな気がした。

 僕は口元に手をあてがい、目に見える景色をすべて捨て去った。記憶の糸をたぐりよせるのに、集中する。


 八月二日。僕の誕生日でもあり、僕らが訪れた八幡祭りの当日。

 あの日、待ち合わせの場所に二人は少し遅れてやってきた。桜が前を歩き、葉月が後ろにつづく。いつもの構図だ。葉月は眼鏡をかけていた。というか、眼鏡をかけていたから、僕は彼女を葉月だと認識した。

 僕は日向に促されて二人の浴衣姿を褒めた。桜は少し照れたような態度をとっていて、葉月はつつましい笑顔でお礼を言った。その後は四人で境内を回った。途中、桜が暑さを訴えたので二手に分かれ、僕と彼女は休めるところを探した。なかなか見つからなかったので、結局境内を出ることにした。鳥居のすぐ近くにあったかき氷の屋台で、二つのかき氷を買って――


「あれ?」


 あの時、確か、彼女は、


「……葵くん。どうしたの? 難しい顔で固まっちゃって」


 僕は手を降ろし、ゆらりと首を動かした。ぼうっと、魂の抜けたような表情を晒して、彼女に顔を向けた。

 一呼吸を挟んだ僕は、静かに唇をはがす。


「変な質問を、もう一つだけ」


 僕は恐る恐る手をあげ、自らの顔の前で人差し指をピンと張った。その所作をじぃっと眺めていた彼女が、コクンと首を縦に振る。


「桜って、かき氷、何味が好き?」


 一瞬だけ目を丸くした彼女が、乾いた息をこぼした。


「本当に変な質問だね。ブルーハワイだよ」

「食べただけでハワイに行った気分になれるっていう、バカみたいな理由?」

「バカみたいとは失礼だな。想像力豊かと評してよ。っていうか、あれ」


 何かに気づいたように彼女が、斜め上空を見上げながら、そのまま静かに僕に視線を戻す。


「そんな話、葵くんにしたことあったっけ。この前の八幡祭りでも私ら、かき氷は食べなかったよね」


 僕の全身を、閃光が巡った。

 衝動がせり上がり、今にも駆け出しそうになる衝動を必死に抑える。目の前の景色はしっかりと水晶体の上に映っている。でもどこか、モニター画面のビデオ映像を見ているようでもあった。思考がひどくゆっくりと、一手遅れてやってくる。僕を支配していたのは、あらゆる論理的根拠を排除し、あらゆる理由付けが意味を為さない、圧倒的な真実であり、直感であった。


 あの時二人は、やはり入れ替わっていた。つまり、

 僕が恋をしたのは彼女ではなく、彼女だったんだ。

 だったらもう、何も迷うことなんかない。

 僕は答えを見つけた。


「桜」

 僕は、目の前の彼女の名前を呼ぶ。

「三年前に君が僕に言った言葉の意味、ようやくわかった」


 桜は微動だにせず、ただ僕の声に耳を傾けている。


「僕たちは当時、恋人関係をうまくやれていたと思う。ケンカもなかったし、一緒にいて楽しかった。でもそれだけ。君は、僕のことを男として好きになることはない。そう言ったよね? 僕もそうだったんだ。僕は本当の意味で、君を好きになることができなかった。でも僕は、そのことに気づかず、君のことが好きなんだと思い込んでいた。そのことを、桜だけが気づいていた。人を好きになるっていう気持ちに、理屈はつかない。ああこの人だなって、すとんと腑に落ちたような、そういう瞬間を迎えた時に、気づくものなんだ。それを僕は最近、ようやく知った」


 喉に熱を帯びていた。口が止まらなかった。ありていに言うと、僕は高揚している。自我が暴走している感覚もあり、歯止めが効かなかった。


 入学式早々、正門の前で立ち止まっている僕ら二人のことを、周りは怪訝に思っているかもしれない。でも僕は周囲が目に入っていなかった。それくらい、僕はこの瞬間に集中していた。


「だから、今度こそ本当に僕が好き人なった人――新島葉月に、今から気持ちを伝えにいく」


 僕は一つ一つの声をすべて、目の前の彼女に届けるよう努めた。そしてそれを実行したつもりだ。目の前の桜は身じろぎもせず、でもやがてふぅっと、全身から脱力するような息を漏らした。そのままじとっと目を湿らせて、ちょいちょいと胸の前で手招きをする。

 何事か。僕はいざなわれるままに彼女に近づき、


「あいたっ」

 本日二度目。目の前の彼女から暴行を受ける。


 すばやく僕の眼前に腕を伸ばした彼女は、僕のおでこにでこぴんをかました。僕が自身の額を抑えながら涙目で彼女を見ると、彼女は呆れた表情で鼻を鳴らしていた。


「いや、葵くん。いろいろ遅すぎだから。これはペナルティだよ」


 やれやれと、彼女は露骨に肩をすくめる。


「お姉ちゃんの中で、葵くんとの恋物語はもう完結している。今から無理やりつづきを書きたそうってのは、野暮だよ。葵くんがお姉ちゃんに気持ちを伝えたとしても、今更受け入れてくれるかは私にもわからない。でも、まぁ」


 呆れた表情を継続させている桜が、でも少しだけ口元を綻ばせて、


「もしお姉ちゃんが、今でも葵くんを好きって気持ち、ほんの少しでも残っていたとしたら」


 重たい荷物を降ろすように、その言葉を僕に預けた。


「次は絶対、お姉ちゃんを離さないで。お姉ちゃんのこと、ちゃんと見てあげてね」


 その場所から、一切の音が除外されていた。目の前の彼女の声だけが、耳に響いた。

 クリアな視界の中に彼女の表情が映る。少しだけ寂しそうに見えたのは、僕のエゴだろうか。


「ありがとう」


 僕は彼女に背を向けた。

 彼女の元に向かうべく助走を開始し、ぐんとスピードを上げる。グラウンドを駆け抜け、校舎に入ると革靴を脱ぎ捨て、そのまま駆けつづけた。階段を段飛ばしで上がる。廊下を奔走する。ギョッとした顔で僕を見る何人かの生徒の顔が視界の端に映り、すぐにフェードアウトしていった。

 別棟の最上階。図書室の前にたどり着いた僕は息吐くこともせず引き扉を開けた。受付カウンターの前に座る一人の女生徒の姿が目に入る。


 彼女だ。彼女はこちらに目を向け、まるで宇宙人でも見るような顔で、目をまん丸く見開いていた。


 僕はここにきてようやく、一呼吸を挟んだ。すぅっと息を息を吸い込み、一つのセリフが頭の中を反響していた。謝罪とか、言い訳とか、理由とか、そういう過程をすべて吹っ飛ばして、僕はその言葉をとにかく届けたかった。

 僕が好きなのは、君だ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る