3-1.
このところ一週間はほぼ毎日、本年の最高気温を樹立しつづけている。陽光が世界の表面をギラギラと照らして、想像を絶する熱量が屋内まで侵食する。都立高校のオンボロな空調施設で涼しさをまかなうのはいささか厳しかった。ゴールデンウイークを明けたころからずっとつづいている中庭でのランチタイムも、気温的にそろそろ厳しくなってくるだろう。
「暑い、溶ける。早く泳ぎたい」
「それな」
「アイス食べたい、かき氷食べたい、焼き肉食べたい」
「それな」
「焼肉はただ食べたいだけでしょ。暑さで脳やられてんね、君ら」
授業間の休み時間の一幕。同じ言葉を繰り返すアンドロイドロボットに成り下がった日向は口を半開きにしながら呆けている。隣の席の桜は陸に打ち上げられたマグロさながら、机に突っ伏したまま動かない。僕はというと、ワイシャツを第二ボタンまで開けて、節操なく胸元をうちわ代わりに扇いでいた。
虚ろな表情を晒している日向がふいに首を動かし、教室の入り口に目を向ける。
「あれ? 葉月じゃねーの」
日向の発言を受けて、桜がのそのそと身体の上半身を動かし顔をあげた。日向と同じく教室の入り口へと視線をやる。
「本当だね。どうしたんだろ」
僕もまた彼らの視線に習った。二人の言う通り、教室の入り口には何やら逡巡した様子の葉月がこちらを見ていた。少しだけ、自分の顔が強張るのを感じる。
僕たちの視線に葉月も気づいたのか、彼女は遠慮がちに教室の中に入り、手を振りながら僕らに近づく。桜の席の前で立ち止まった葉月が、左手を眼鏡にかけながら口を開いた。
「桜、スマホ見てないでしょ。何度か連絡しても反応ないから、直接来たよ」
少し不満げな顔つきの葉月が、右手に持った何かを桜に向かって突き出す。
「はい、コレお弁当」
きょとんとした様子の桜が起き上がり、目をパチクリさせている。
「あれっ? なんで私のお弁当がそこに?」
「あなた。また家にお弁当忘れたでしょ。朝練遅刻しそうだって飛び出して」
「あっ」
思い出したように掌をぽんっと叩いた桜が、すぐにへらりと苦笑いを浮かべ、ペコペコとわざとらしいお辞儀を披露した。
「いやぁ。いつもいつもすいません。
「猛省は絶対にしてないでしょ。桜は何回私に感謝すれば気が済むの」
首を曲げながら口を尖らせる葉月だったが、綻んでいる口元から、言葉ほど怒ってはないようだ。
僕は何気なく地面に視線を落とし、葉月から目を逸らした。
「葉月、今日は一緒に昼飯食べねーか? 四人でさ」
「ああ、えっと」
日向が快活な声で葉月を誘うが、葉月はどこか戸惑ったような声を返していた。
「今日は、クラスの子と一緒に食べるって約束してて」
「そっか。じゃあ仕方ねーな。でもまぁ前みたいに、たまには一緒に食べようぜ」
「うん。ゴメンね」
少ししゅんとした口調の日向に対して、葉月の声のトーンもまた申し訳なさそうだった。僕の視界の端に映る葉月が再び手を振り、「じゃあ、私はこれで」僕らに背を向け教室を後にする。いつの間にか僕は身体を強張らせていたらしい。息を吐き出すと、肩からゆっくりと力が抜けていった。
再び訪れた三人の空間に沈黙が流れる。
ふいに日向が僕の顔に視線を移し、じっと僕を見ながら押し黙っている。耐え切れず僕は声をあげた。
「何?」
「いや。っていうか今更だけど、やっぱそうだよな」
頭をぽりぽりと掻きながら、一人勝手に納得したように日向がこぼし、つづける。
「葵と葉月。何かあっただろ。喧嘩でもした?」
「えっ」
動揺した僕は、拍子の抜けた声を漏らしてしまう。
「お前ら二人が話しているとこ、そういえば最近見かけないからよ」
「いやまぁ、四人の中で葉月だけクラスが別だし」
僕の下手な弁明を、やはり日向は逃がしてくれない。
「それはそうだけどよ。そもそも葉月、いつからか昼休みに中庭、来なくなったしな。でもなんかやっぱおかしいよお前ら。今だって葉月、一回も葵の方見なかっただろ。葵も黙って俯いてたし」
「別に喧嘩したってわけじゃ、ないんだけど」
とりあえず返事をしたものの、僕は言葉の先をつづけることができなかった。二の句を継げない僕に代わって桜が返事を返す。
「実はねぇ。葵くんがドジで、眼鏡を踏んづけちゃったの」
桜がやけに神妙なトーンでそう言い、僕は彼女に目を向けた。桜はやれやれと、大袈裟に肩をすくめている。僕もまたはぁっと嘆息し、すぐに嘆くような声を落とした。
「うん。実はそうなんだ。僕、葉月の眼鏡を壊しちゃって」
一人ポカンとしている日向が眉を曲げる。
「いや葉月、眼鏡いつもかけてるじゃん。っていうか今もかけてたじゃん」
「その日の内に新しいの買い換えたんだよ。フレームの色とか微妙に違うんだから」
「マジか。全然気づかなかった」
納得したのかしていないのか、微妙な表情を浮かべていた日向が、「えっ、ってことはさ」驚いたように目を見開く。
「その程度のことで葉月はへそ曲げて、葵とずっと気まずくなってんのかよ?」
「その程度のことって」
わかってないなぁと言わんばかり。桜が再び肩をすくめた。
「眼鏡女子にとってね。眼鏡は命の次に大事なんだよ。それを他人に壊されるっていうのはね、私たちには計り知れないショックがあるんだよ。知らんけど」
「いや知らんのかい」
間髪入れず突っ込んだ日向がやがて、「そっか、ふーん」納得したのかしていないのか、微妙な顔を継続させたまま頬杖をつきはじめた。
「だったらさ。今度、吉祥寺でやる八幡神社の夏祭り、四人で一緒に行こうぜ!」
サムズアップを披露しながら白い歯をニカリと見せる日向に対して、まず僕はシンプルな疑問を口にした。
「えっと、今の流れでなんで『だったら』になるんだよ」
「まぁよく聞けよ」
したり顔の日向がふふんと鼻を鳴らす。
「葉月には夏祭りに浴衣を着てきてもらう。統計学的に言っても、浴衣姿を褒められて喜ばない女はいない。だから葵は、葉月の浴衣姿を超誉めるんだよ。したら葉月の機嫌は戻って、眼鏡壊されたことなんてどうでもよくなって、二人は仲直りできてめでたしめでたし万々歳。なっ? 完璧な作戦だろ?」
こいつ何言ってるんだ。
突っ込みどころが多すぎて僕は言葉を失ってしまう。しかしその一瞬の隙が仇となった。
「いいね! その作戦カンペキ! 乗ったよ!」
ゾンビ同然だった先ほどとは打って変わり、ガタンと椅子を引いた桜が顔面を輝かせながら身を乗り出す。
マジで?
「だろ? さっすが桜、わかってんなぁ」
日向がへへんと、得意げ気に鼻をこすっていた。
いや、ちょっと待って。
口を挟もうと手を伸ばしたが一手遅かった。ぐりんと首を旋回した桜が僕を見て言う。
「葵くんもいいでしょ? 八幡祭り」
「ええと、僕は」
「いいでしょ?」
「いや、あの」
「いいでしょ?」
「……はい」
キラキラと顔面を輝かせている桜だったが、目元は殺し屋の如く冷え切っていた。有無を言わさぬ彼女の気迫に僕は思わず了解してしまう。
「よし決まり! 葉月には桜から伝えておいてくれ」
「
あれよあれよと話が進んだ。
背筋をピンと伸ばした桜が、右掌を斜め水平にしておでこにあてがう。僕は伸ばしかけた右手をひっこめ、嘆息と共に肩を落とした。
まぁいいか。
葉月との関係、このままではいけないと僕も思っていた。何かきっかけでもないと、引っ込み思案の二人が互いに歩み寄ることはないだろう。少し荒療治っぽいが、いい機会なのかもしれない。
僕の胸中を知る由もない日向がスマホをポケットからとりだした。
「日程は――八月二日だな。夏休みに入ってすぐくらいか」
「えっ? 八月二日?」
僕は思わず日向の言葉を繰り返してしまい、二人の視線が一斉に僕に集まった。
「なんだよ。葵、その日は別の用事でもあるのかよ」
ハッとなった僕は、何かをごまかすように苦笑いを浮かべる。
「あ、いや。予定があったと思ったけど勘違いだった。大丈夫だよ」
「良かった。じゃあ集合場所とか時間とか、詳しいことは日が近づいてきたらまた連絡するからよ」
日向がパンと掌を鳴らす。呼応するように桜が高揚した声をあげて、僕に顔を近づける。
「お祭りなんて久しぶり! 小学生の時以来かも。葵くんは?」
ふいな彼女の接近に動揺した僕は、思わず視線を明後日の方向に泳がせた。
「ええと、僕も中学の時にクラスの友達と行ったきりかな。……あっ、当日の天気ってどうなんだろう」
「まだ二週間以上先だからなぁ。まぁなんとかなるんじゃねーの」
「そっか。そうだよね」
何気なく、窓の外の景色に目を向けた。
「晴れるといいね」
今日の空は、一切の濁り気のない青が広がっている。
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