くちなしの姫君と銀白の龍その三


「……伴侶……?」


姫君には全く意味が分からなかった。龍という人とは次元の違う生き物の伴侶? しかも一方的に決められて更に戸惑う。


「そうだ。お前ならいい。名は何という?」


「か……勝手に決めないで! 大体、人と龍なんて……」


姫君が龍から身を離して反駁する。龍は気にもとめていない口調で「問題ない。……ほら」と言って白煙をあげた。龍の全身が煙に包まれる。


「きゃあっ……」


姫君は思わず後ずさり、両手で顔をおおった。けれど、煙には臭いがなく、ただ少しひんやりする。


その冷たさが失せて、姫君は恐る恐る手を下ろした。そこに見えたものに目を見張った。


「この姿なら大丈夫だろう?」


「あなた……本当に?」


そこにいたのは、銀白の長い髪と純白の衣、そして赤い瞳の人だった。銀白の髪は月光にきらめき、衣は絹よりも艶やかで柔らかそうだ。顔はすっきりと整い、年齢は青年としか感じさせない。


「私の名は朱殷(しゅいん)という……真の名を呼ぶのが許されるのは人には伴侶しかいない。お前の名は?」


「朱殷……本気なの?」


「酔狂で名を教えるなどしない。伴侶以外のものが名を呼ぶと骨まで焼かれて灰になってしまう。今、お前は私の名を呼んだ……焼かれていないだろう?」


「あ……私……」


──このものは本気なのだ。私が左大臣家の大君であることも関係なく、私を伴侶に望んでいる。


「さあ、お前の名を」


朱殷が静かに促す。そこには有無を言わせない熱がある。姫君はその熱に浮かされるように名乗った。


「清子(せいし)……清(さや)……」


「……良い名だ……清」


朱殷が手を伸ばし、姫君の頬に触れる。その手は、龍の姿のときと同じぬくもりがあった。


「先程、清は私にこうして触れてくれた……これは、その礼だ」


朱殷の顔が近づく。姫君はそれに対し、瞬きもせず見いった。中性的ともいえる顔立ちは、少し切れ長の目と、高い鼻梁、薄い唇は酷薄そうでいて、けれど眼差しだけが優しさを宿している。


互いの頬が触れあう。どちらも、きめが細やかで吸いつくかと思う。一度触れてしまえば、もう離れがたいというかのように。


「なるほど……心地よいな。人に触れるのは初めてだが……」


朱殷の声が間近で聞こえ、耳をくすぐる。低めた声は甘く、何でも睦言になる。


姫君は振りほどけない自分が分からなかった。朱殷の頬の感触を悦んでいる心に気づき、驚きながらも夢見心地で受け入れている。


「清……何故泣いていた? 私の頭を撫でたとき」


「……あ……」


朱殷が姫君の髪を撫でる。思わず、仔猫のような声が出た。


──こんな声は知らない。これが自分の声?


「……どうした? まだ私が恐ろしいわけではあるまい」


「……私、は……あなたの伴侶にはなれないわ」


かろうじて拒み、朱殷から身を離そうとする。名残惜しいということを胸の苦しさで知る。出逢ったばかりのはずなのに、ぬくもりが懐かしい。


「何故だ? 私が愛するのは清だけになるというのに」


「それは……私が……」


「清が言ったことだろう? 一人だけを互いに想いあえるのなら、と。私にはそれができる」


姫君は独り言を聞かれていた恥ずかしさに頬を染めた。けれど、朱殷の言葉に惹かれてゆくのが止められない。蝶がより甘美な蜜を知ってしまうように、朱殷からもたらされるものに浸されてしまう。


互いに、一人だけを。姫君にとって切実な願いだった。後宮に入内して女御更衣達と帝の寵愛を奪いあわなくてはならなくなる自分にとっては叶わない願い。


それを叶えると、朱殷はたやすく口にする。姫君だけを愛すると。


「私は……主上のもとに貢がれる身なの……」


「主上?」


「ええ……この国で唯一の方……」


朱殷が姫君の肩に手を添えて意識を自分だけに向けさせる。強引ではない、生身の温かさで。


「主上は私以上に清を愛するのか?」


「……分からない……」


姫君は弱りきって首を振った。


左大臣家の大君だ。中宮になるために育てられてきた。帝はその権力を拒めまいが、それが愛するということかと問えば否だ。帝は姫君をお気に召して寵愛するかもしれないが、姫君一人だけを寵愛するのではないだろう。月の障りや物忌みのときには他の誰かが召し寄せられる。


「清、私を見ろ。私に偽りはないと、目を見れば分かる。目には正体があらわれる」


「……朱殷……」


朱殷の手に、僅かに力が籠もった。姫君の肩が跳ねる。ためらいながら朱殷を見上げると、暁の瞳が姫君だけを映していた。


「私は清を気に入った……清だけを愛するものになろう。そう誓う」


「……朱殷……私は……」


姫君が反す言葉を探す。朱殷は真剣なのだと眼差しで感じとり、胸に熱い何かが込み上げた。


そのとき、夜の終わりを告げる鳥が鳴いた。


「もう刻限か……」


朱殷が空を見やって姫君から手を離す。姫君はその動作に喪失感を覚えた。肩から、ぬくもりが消えていってしまう。


「私は夜の内しか下界に降りられぬ……しかし、明日の夜も必ず来よう。これから毎夜、必ず」


朱殷の顔が再び寄せられる。朱殷は姫君の額に口接け、それから姫君の左手をとって手首の内側を吸った。


そこに、桜が咲いたような仄かな跡が残る。


「朱殷……これは……」


「誓いの証しだ。この跡は決して消えぬ。もし心変わりがあれば、私は滅びる」


「……朱殷……」


朱殷は身を賭して誓ってくれたのだ。


「──では、また夜に逢おう」


「朱殷、まっ……」


待って、という一言は朱殷の白煙にかき消された。暁闇のなか、自ら光を発する白銀の龍に姿を変える。


姫君は、光の化身が天に昇ってゆくのを呆然と見つめていた。やがて空が白み、家臣や女房達が起き出すまで、ずっと動けずにいた。

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