くちなしの姫君と銀白の龍その四


「まあ……大君様、そのような場所で一体何を……」


目を醒ました女房が、渡殿に立ち尽くす姿に驚いて姫君に声をかける。姫君はようやく我に返った。


「……何でもないわ……」


「ですけれど……とにかく中へ。お姿を家臣などに見られましたら……」


「ええ……」


女房に勧められるままに中に戻ろうとする。しかし、気のない声は心ここにあらずといった体(てい)だった。女房が訝しそうな顔をする。


「大君様、何かおありでしたか? 入内前の大事な御身でございますものを……」


「いいえ……ただ、おかしな夢を見ただけ……」


「それは……御物忌みを……」


「大事ないわ、不要よ」


そうだ、自分は一夜の夢を見ただけなのかもしれないと姫君は思った。強く願い憂うあまりに妖が見せた夢。


けれど、朱殷のぬくもりが今もけざやかに思い起こされる。磁器のようななめらかな肌と、口接けられたときの、しっとりとした感触。


姫君ははっとして左手首を見た。


そこには、桜色の小さな跡が消えずに残されていた。


朱殷は毎夜通うと言った。今宵も本当に訪れるのだろうか? 逢えるのだろうか? そのとき、自分は何を思うのか。あの美しい銀白の龍に、暁の眼差しに見いられて。想像しただけで体が熱を孕んだ。ほてった顔を、朝の静謐な風がなだめた。


* * *


その日は、花の便りにことづけて多くの文が姫君に寄せられた。可憐な花の枝に、細く折られた文が結びつけられている。姫君は煩わしさに、見向きもしようとしなかった。


「大君様はいつもお文には目もくれず……」


取り次ぎを頼まれた女房が溜め息をつく。姫君は構わず、絵物語をとってこさせて眺めた。妖が人に姿を変えて人と結ばれる物語はなかった。どれも男が女を見初めて愛を訴え、二人幸せになっておしまいだ。その果てはない。長恨歌のようなものは最初から好まない。


「大君様、大殿様のお渡りでございます」


姫君が絵に見入っていると、貫禄のある足音が近づいてきた。姫君は几帳の奥に身を隠す。扇子を広げて顔にかざした。


「大君はまた絵を見ていたのか? 式部卿の宮からも文があったと聞いたが……折節の挨拶くらいは返り言をしなさい。情緒が養われる」


姫君は息さえも聞かせないといわんばかりに沈黙を保った。いつものことだ。父は色々と話しかけ、姫君はやり過ごし、最後は父が根負けして立ち去る。


「……大君には、いつまでも幼くはいられまい。入内のことが済めば、主上ともお語らいがあるだろう」


姫君は耳を塞ぎたくなった。帝のことなど考えたくもない。慕わしいと思ったこともない男のもとへ父の権力を高めるためだけに送られる。しかもその男は女達を従えて、気の赴くままに夜の大殿に呼びつける。女に拒否する自由はない。身の毛がよだつようだった。


「……せめて父には返事をなさい。大切に育ててきた娘の成長を見たい親心を分かって頂きたいものだ」


大切に育ててきた? 帝にあてがうために教育を施してきただけだろう。


「……まあいい。お前達はつまらぬ手引きなどしないよう心掛けろ。うるさく文を送ってくるものもあるようだ」


左大臣が女房達に言い聞かせて立ってゆく。姫君はほっと息をついた。父の言葉が耳に残り、こだまして痛い。無意識に左手首を見おろした。朱殷の残した誓いの跡。右手の指先でなぞる。吸われたときの感覚がよみがえり、鼓動が跳ねた。


心変わりをすれば滅びると言っていた。そうなれば、この跡も付けた主がなくなるのだから消えるだろう。


姫君は夜を心待ちにした。朱殷はまだ分からないことが多すぎるけれど、主上よりは余程信じられる気がした。あの暁の瞳に自分だけを映せるのだとしたら、それはどれだけ姫君に悦びをもたらすだろう。


姫君はひたすら夜の訪れを待ち、そうして庭には松明が焚かれ、女房達が操られるように深い眠りについた。


庭の草木がざわめく。松明の火が、燃え尽きてもいないのに弱まってゆく。昨夜と同じだ。


姫君は渡殿に出て、「……朱殷……?」と呼んでいた。刹那、空気が変わり冷ややかな風が姫君を包む。


「……清……待ち焦がれたぞ。悠久の時を生きる我が身に、ただの一日がこれほど長いとは……」


姫君を包んだのは、人の姿に変化した朱殷の腕だった。


「朱殷……本当に来たの……?」


半信半疑で問いかけると、朱殷は不思議そうに問い返した。


「誓いを立てただろう。清は信じていなかったのか?」


朱殷の体が、次第に体温を伝えてくる。衣に隔てられていても、脈動が分かる。姫君は体の力を抜いた。身を預けると、朱殷がしっかりと抱きしめてくる。


「……信じていいか分からなかった……けれど……」


来てくれた。


姫君の心の燠火が強く燃えさかりはじめる。朱殷はその変わりゆくさまを俊敏に感じとり、姫君の髪を撫で、一房手にとり口接けた。その仕種は妖艶で、姫君は軽い目眩を覚える。足許が浮いているかのごとく、ふわふわとして身が軽い。


「さて……今宵は何をしようか」


姫君の態度に満足げな顔をしながら、朱殷がしばし考え込む。姫君の頭のなかは朱殷の再来で真っ白になっていた。


「夜は短く長い……惜しめば、まばたきの間ほどになるが……心から喜べば充たされた時がすごせる」


そう言うと、朱殷はおもむろに白煙を上げて龍の姿に戻った。姫君が目を見開く。


「朱殷……?」


「私の背に乗れ。空から見る京の都を教えてやろう」


「……でも……恐ろしいわ……落ちたら……」


姫君が尻込みしていると、朱殷がおかしそうに笑った。


「私が伴侶を落とすとでも? 何も恐れることはない。私に全てを任せろ」


朱殷は姫君が乗りやすいように、低く地に這った。姫君は戸惑った末に、朱殷の背に手をかける。首近くに座り、角を手綱のように握りしめた。


「それでいい……飛ぶぞ」


「あっ……」


姫君は浮遊感を覚えて朱殷の角にしがみついた。みるみるうちに、屋敷が小さく遠くなってゆく。


「……すごいわ……」


夜の京は整然としていて、ひっそりと建物が連なっていた。篝火が絶妙の配置で点在している。それ自体生あるものに見えて、姫君の興味をそそった。


「几帳の奥では知らなかった……京は何て広いの……」


「京の都だけではない。異国に行けばもっと広い世があるぞ」


「異国……」


「もっとも、今の状態では夜のうちしか時を共にできぬから異国にまでは行けないが……」


朱殷が残念だと呟く。姫君は笑みを返して天を仰いだ。


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