第5話 梅雨空と図書館
若葉が濃い緑に染まる頃。鉛色の空が続く梅雨が始まった。
傘の上で雨粒が飛び跳ねる。コンクリートの道の端には小さな水たまりができていた。暗い空で時間の感覚が狂いそうだが、まだ午前中。人によってはちょうど出勤時間の者もそれなりにいるだろう。道行く人も傘を差す。傘を差させば、顔は見えない。職業柄か、首から下しか見えないと、本当に人間なのか疑いの目で見てしまう。
目的の場所につき、傘を折り畳んで滴を払っていたときだ。
《ハロー、ハロー、キャンディくん。君、なんでそんなところにいるの?》
片方の耳に装着された黒い端末から三上が問う。
「調べ物ですよ」
うんざりとしながら、答えれば《その近くで目撃情報があるから、あとで連絡するね》と返ってきた。
抜け目ない上司だ。仕事ということは、今職場のあるビルで報告書を作成している静がこちらに来るのだろう。
静には「ちょっと気になることがあるから出る」と伝えている。彼は基本的に詮索をしない。たぶん、気にはなっているが尋ねてくることはない。しかし、ここにいたらさすがに聞かれると思う。
ついっと顔をあげる。無数の本棚や椅子、窓辺に設置されたテーブル、天気が良ければ、下がっているロールカーテンがあがっていただろう大きな窓が、ずらっと壁際に並んでいる。
平日の昼下がりだ。窓際のテーブルで新聞を広げる老人や親子連れの姿があるだけで、目に映るのは人より本の方が多い。
当然といえば当然だろう。ここは図書館だ。
カウンターに向かい、民族学や民族童話の資料を探してもらう。
瀕死の重傷を受けてから今まで、あの鏡越しで見た青年の言うとおりバンカで得た陽術は使えない。集落にいる師に頼めば陽術に関する資料を貸してくれると思うが、なぜそんなものが必要なのか疑問に思われる。師を前に嘘はつけない。ついたとしても嘘を見抜かれるだろう。そうなればさらに厄介だ。
さすがにトナンの里の場所は知らない。
ならば、行き着く先はここしかなかった。
別に図書館に陽術に関する書物があるわけではない。だが、昔から伝わる民話や伝承は穏と陽術師に関していることがときどきある。
とはいっても、求めている答えに対し直球的な答えがあるわけではない。発掘された古文書の文字を分析し正しく解読できるかどうかは、神のみぞ知る世界だ。
時間の無駄と言われてしまえばそれまでだが、術が使えない以上、なんでもいいからとにかく藁に掴みたい。
数年間一度も開かれたことがなさそうな民族資料を広げる。ゴマのような小さな文字が大判の紙の上に整列する。広辞苑の半分くらいの厚さがある資料を隅から隅まで読む時間はない。目次があればそこから絞る。なんとなく、関係性がありそうなページまでめくる。
鬼の出てくる話は、全国各地にある。
鬼は、怒りや嫉妬に狂った女や海向こうからやってきた異人がモデルだという話もある。しかし、その中に紛れるように穏の話もあると思うのだ。
ぺらりと紙が空気を柔らかく裂く。切れたハムのように、紙はしなやかにうねった。視線を落とす。数ある民話に正式な題名はない。口伝で伝わってきた話が多いからだろう。
これも似たような話だ。
目を閉じ、目頭を押さえる。時間を無駄にしている気もしなくはない。ただ、陽術が使えなければ、この仕事をやめなければならない。それだけは嫌だ。
それはきっと、陽術師として育てられたから他の生き方を知らない、というのもある。同時に今更別の仕事をやろうとは思わないのだ。生まれた瞬間から羽を切られた鳥のように、陽術師の家庭に生まれたら陽術に関わるのが当然だ。もちろん、全員が親の言うとおりに育つわけではない。なかには、陽術師にならず外に出る者もいる。だが、そうなれば陽術についての修行を積むことはない。しかし、一度師の元で教えを受ければそこから抜け出すことは容易ではない。陽術は秘匿の技。もちろん、一朝一夕で身につくほど簡単なものではない。しかし、修得したあとに別の道を歩むことは、かけた労力にあわないのはもちろん、ただでさえ術師の数が減っている中、みすみす使わないという選択はない。
ふっと肺から息を吐き出す。
ただ、洋祐の場合はそれだけに留まらない。自分の意思に関係なく術が使えなくなったが、おそらく混血だからだとか、血が混ざれば術の使用ができなくなるとか、根も葉もない噂話が真実のように一人歩きする可能性が十分考えられる。
それは、望むところではない。
「どうしたものか」
頭を抱えながら視線を落とせば、ちょうど「鬼」という文字が目に入った。古都、京都周辺にある話だ。
昔、村に足の悪い青年がいた。青年は隣町の娘と恋に落ちたが、娘には婚約者がいた。婚約者は青年の存在を疎ましく思い、青年の足は鬼の足だとありもしない話をでっち上げた。青年は村を追い出され、恋は終わり、足の悪い青年は暗い山道で姿を消したとある。その日の月が赤く見えたことから、この話は紅月という名がついているらしかった。
途端、腹の底がかっと燃えるように熱くなった。沸騰した湯が食道を通る感覚に似ている。熱い。けれど取り出せない。静かに耐えていれば、次第に収まった。
《雨夜さん》
突然の呼びかけに、思わず耳に装着した端末に手を当てる。とんとんと二回叩けば、静は言葉を続けた。
《三上さんに言われて来たんですけど、どこにいますか》
「今行く」
そう短く言って、席を立った。胸の内側は、狂ったように不安が渦巻く。陽術が使えないということは、丸腰で戦場に赴くのと同義だ。トナンの陽術は成功するかどうか常にわからない、不安定さがある。
どうにかしなければと思うものの、どうにもできないこともわかっていた。
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