第4話 深夜と現実
世知辛い世の中だなとつくづく思う。
恨み、憎しみ、怒り、嫉妬――
さらに言ってしまえば、生きづらい世の中であればあるほど、穏形は活気づく。
コンクリートの道を蹴りながら、僕は右耳に装着した端末に手を当てた。
「
了解、と短く返答がくる。
時刻は午前二時。都心から離れた住宅街を点々と立つ街灯が照らす。虫の声もなく、しんと静まりかえった住宅街にその足音は大きく響いて聞こえた。
人の気配がないとはいえ、できることなら人目のつかない場所で処理したいのが本音だ。今までひとりで行動していたため、そんなところまで気を回す余裕などなく、幾度となく目撃されたり写真をとられたりした。そのたびに
河川敷の公園に控えている静の元へ急ぐ。階段を駆け下りるのも億劫で、何度か
夜の川は黒い。まるで闇そのものが流れているように見える。
サッカーやゲートボールなどができる広いグランドに、人影がひとつ立つ。
そこに突っ込むように小さな影が駆けていく。
一見、猫のように見えるが、右わき腹から羽のようなものが生え、本来あるはずの尾は、魚の形をしている。それに、顔は猫ではなく犬だ。大型犬の頭を持った穏形は、頭の割に体が小さい。そのくせ、動きは俊敏であった。
川の流れる音がすべてをかき消すほど大きく聞こえる。ここならば、多少大きな音を立てても問題はないはずだ。
静の手には、竹刀が握られている。その刀身には無数の
空気を切るように、静が竹刀を振り下ろす。向かってきた穏形はそれを後方に跳ねるようにして避けた。睨み合う両者を視界の端に捉え、腰に下げたガンホルダーから拳銃型のエアガンを取り出す。そのグリップ部分には、静の持つ竹刀と同じように札が貼られている。弾は入っていない。しかし、穏形を相手にするのなら、これで十分だ。
復帰後の初任務。それは、初めて行う二人組としての仕事でもあった。
まったく知らない人間だったら、こんなにうまく事は運べない。つき合いがあった関係だからこそできる技だ。
だからといって、いいことばかりではない。
彼を幼い頃から知っているからこそ、やはり危険な目にあってほしくない。いつか
矛盾した思いを抱えているという自覚はある。それでも、今まで一人でやってきたという自負から、二人になっても彼を危険な目に合わせないよう、上手くやっていける自信がないわけではない。
弾のないエアガンは、当然人に当たることはない。しかし、穏形には効果がある。
後方に飛び退いた穏形は、一瞬動きが止まる。その隙をつき、発砲した。
当たった。
そう、思った。
しかし、当たれば穏形の体は霧散するはずだが、変化はない。もう一度、打つ。しかし、やはり変わらない。
当たっているはずだ。長年愛用している武器とその感覚がわからないはずがない。
おかしい――。
さっと血の気が引く。ふいに、病室で聞いた青年の言葉がよみがえる。あれ以来、姿を現すことがなかったこともあり、やはり幻聴だったのだと思っていたのだが。
――バンカの術は使えない。治癒の代償として消えた。
バンカの陽術は、穏を消す札を武器に貼り、直接討伐する方法だ。陽術の祖である、トナン以外はその方法で穏形を滅する。
一方、トナンは穏を排除する力の強い者が作り上げたこともあり、
バンカの術が使えないということは、つまり、道具を使い滅することができないということだ。
穏形が振り向いた。洋祐の存在に気づいたのだ。
まずい。
このままでは逃げられてしまう。そうなれば、ここまで追いつめるのにかかった労力が水の泡になる。だが、術が使えない以上、どうしようもない。
そのときだ。
穏形は再び静の方へ向くと、どういうわけか牙をむいた。
大型犬の頭を持つ穏形だ。その顎の力は強く、肉を裂き骨を砕くこともできるだろう。くわえて、猫の体。俊敏かつ柔軟な四肢を駆使し、迫られれば、経験の浅い静にとって脅威になる。
「くそっ!」
ここからではどんなに走っても、穏形の牙の方が早いだろう。静も陽術師のひとりだ。簡単にやられるような柔な修行は積んでいない。しかし、実戦経験がものを言う世界だ。殺意をむき出しにした穏形に牙をむかれ、怯み、怪我を負う可能性は高い。
一瞬の判断が命取りになる。
術は使えない。走っても追いつかない。
使える手は、あとひとつ。
わずかに唇を開くと、舌の上で言葉を転がす。しびれる感覚のあと、ひゅっと空気が隙間から流れた。途端、穏形が動きを止める。
「静!」
そう叫んだ瞬間、硬直していた静は時が流れたかのように動き、高くあげた竹刀を穏形に向かって振り下ろした。途端、獣の体は二つに割れ、砂塵のようになって消えた。
ほっと息をつく。
バンカの術は使えなくても、トナンの術は使えるらしい。
秘密裏に特訓していてよかったと思う。洋祐の半分はトナンの血だ。しかし、その術をものにできるかどうかは一種の賭けだ。今まで実践で試しても、成功したことはなかった。正直、今の結果に自分でも驚いている。
「怪我はないか?」
駆け寄ると消える穏形の様を眺めていた彼が、ついっと顔をあげた。
「大丈夫です」
まっすぐと向けられる視線に嘘は見えない。しかし、彼の握る竹刀は小刻みに震えていた。当然の反応だと思う。
大抵の穏形は、陽術師が現れると姿を隠そうとする。しかし、術師を食らえば力を得られることを知った穏形は、術師を襲う。だが、滅多にあることではない。
穏形は人を惑わし、負の感情を生ませる。そうして穏を増やし、己の糧にするのだ。そのため、人の機微には聡い。もしかしたら、陽術師として初めての任務だと気づかれたのかもしれない。
追い込まれれば、鼠も猫を噛む。さきほどの穏形も同じようなものだろう。
「ひとまず、ご苦労さん。これで一仕事終わったな」
三上さんは、遅いと怒るかもしれないが、初めて二人で仕事をしたのだ。最初から完璧にこなせるとは彼女もわかっているだろう。
「帰ろう」
そう言った瞬間、まるで修行に明け暮れた日々に戻ったような気がした。もちろん、時などさかのぼれない。しかし、風、光、気温、匂いがほんの少しだけ過去へと思いを飛ばす。
同時に、あの声の言っていたことは本当かもしれないと思った。
そうなると、静に知られるわけにはいかない。
三上さんのことだ。バンカの術ではなく、トナンの術が使える限り陽術師を辞めろとは言わないだろう。しかし、静には言えない。弟弟子だからというだけではない。
静の両親は、彼が幼いときに事故で亡くなった。だが、実際は事故ではなく、事故に見せかけた事件であり、その犯人はバンカに恨みを持ったトナンの人間だった。
そのせいか、彼はトナンの人間を憎んでいる。
さて、これからどうしたものか。
このままでは、仕事に支障が出る。もう一度、あの青年と話ができればと思うものの、鏡を見ても彼は一向に現れる気配がなかった。
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