第3話 「お前は誰だ?」


 三上の言うとおり、一週間もすれば起きあがれるほど体調は順調に回復していく。医者はありえないと驚いていたが、昔から傷の治りは早かったので、特別不思議ではない。

 ――腹に穴を開けられた気がしたんだけどなあ。

 自分の腹をなでながら思う。

 致命的な傷だったはずだ。さすがにそれを治すほどの超人的な治癒能力などない。

 ぐっと延びをする。窓越しから見える空は、すがすがしいほど青い。

 今日は歩いてみるか。

 看護師から「許可があるまで安静に」と言われていたが、今こうしている間にも仕事はたまっていく一方だ。万年人手不足の職場である。動物や虫の死骸でできた穏形はまだいい。しかし、犬や猿など知能が高い動物の脳を得た穏形は少し厄介だ。賢いぶん、逃げ足が早い。処理するのに時間がかかる。そうしている間に、人の死体を得た穏形が現れたらたまったもんじゃない。

 ベッドから両足を床につく。ぐっと両足に力を入れ立ち上がった瞬間、重さに耐えきれなかった体が傾いた。慌ててベッドに手をつく。

 もう一度、両足に力を込めれば今度は立てた。だが、足は生まれたての子鹿のように震える。そんな状態で一歩、二歩とゆっくり足をするように歩く。病室の端まで行けた。

 思いの外、いけるな。

 掴まるものもない中、両腕でバランスをとりながら歩く姿は、綱渡りをしているように見えるだろう。この調子なら復帰もそう遠くないはずだ。

 安心したのか、膝から力が抜けた。とっさに掴んだのは洗面器だ。ほっとして白い陶器を見つめる。顔を上げれば鏡があった。久々に自分の顔を見て目をむいた。

 鏡には見知らぬ男が映っていた。

 黒い長髪を麻紐のようなもので結った、肌の白い男。目力が強い顔は、どことなく鷹を思わせる。端正な顔立ちだ。少なくとも自分の顔ではない。

『ようやく認識したか』

 呆れたような声は、目の前の鏡から聞こえてくる。

『まったく、今の術師はこの程度のことにも気づかないのか。貧弱すぎる。そんなんで鬼を退治できるのか』

「――どちら様ですか?」

 陽術師の術は、テレビや映画で見るようなものではない。紙の札に自身の血を混ぜた墨で文字を書き、穏形に貼る。それが基礎だ。仏閣にあるようなお札とたいした違いはない。

 だから、魔法使いのように物理や科学の法則をねじ曲げた術など使えない。

 たとえば、鏡越しで遠くの人間と話をする、とか。

 洋祐の問いかけに、相手の男は片手で目元を覆った。こんなこともわからないのかとその態度は雄弁に語る。

 けれどわからないものは、わからない。まだ若そうな青年の顔に見覚えなどなかった。

『のんきなものだ。自分の体が乗っ取られているというのに』

「乗っ取る!」

 ふいにあの雨の夜が脳裏をよぎる。そして気づいた。

 目の前にいる男の声。意識を失う前に聞いた声によく似ている気がする。

「お前はまさか、お――」

『鬼と言ったら体の内側をぐちゃぐちゃに引き裂いてやる』

 口をつぐむ。正確には体を得ようとするおんなのかと聞きたかったが、目の前の男にとっては同じ意味だろう。

 それにしても、鬼とは。一般人なのだろうか。――いや、術師の存在を知りその比較までしてきた。幽霊? だとしても、その存在は非科学的存在だ。穏形おんぎょうと対峙する陽術師ようじゅつしでも霊の存在を信じるものは少ない。管轄外だからだ。

 幻覚でもみているのか。

 たぶん、疲れているんだ。そう思って鏡から目をそらし、ベッドへ向かう。ゆっくり腰を下ろし、横になって目を閉じた。

 白昼夢でもみたんだ、きっと。

『話を聞け』

 声はついてきた。

『現実から目を背けるな。お前のことだろうが』

 腹がきりきりと痛む。幻聴と片づけるにはうるさすぎる。仕方なくベッドから起きあがると、片手で眉間を押さえた。

「――改めて聞くが、お前は誰だ。どうして僕の中にいる?」

『名を訊ねるなら、先にお前から名乗れ』

 傲慢だなと思いながらも、渋々言うとおりにする。

「僕は雨夜洋祐あめやようすけ

 沈黙。名乗らせておきながら、僕の中にいるのであろう青年からの反応はない。

「名乗ったんだから、お前も名を明かせ」

 臓器を傷つけられたらたまったものじゃない。腰を低くして訊ねる。

『名乗る名はない』

 なんじゃそりゃ。

 僕は苛立ちを飲み込む。

『だが、二つめの質問には答えてやる。お前に憑いたのは、ようやく人の体を得られると思ったからだ』

 だが、この状況をみるにそううまくはいかなかったようだ。

 体を得る――言葉だけを聞けば、やはり穏のような気もしなくはない。だったら、あの鏡に映った男は誰なのか。

『まったく、十年前だったらうまくいったのにな。好機に恵まれるまで時間がかかりすぎた』

 ぶつぶつと頭の中で声が響く。

『それに、お前。妙な気配を持ってるな』

「言わなくていい」

 青年の声を遮る。もう、耳にたこができるほど聞き飽きた。

 陽術師は大きく分けて二つの派閥がある。

 京を中心に栄え、陽術を確立させたといわれるトナン。トナンを中核に大小さまざまな派閥が生まれた。その中でも関東で陽術師の名を広めたバンカは、トナンに迫る勢いで力を伸ばした。

 だが、今から五百年ほど前。

 トナンの次期当主となる予定だった男が、禁忌に手を出し、それに気づいたバンカの者がその者を討伐した。

 それがきっかけでトナンは一気にその地位を落とし、他の陽術師から疎まれるようになった。結果、トナンは血を絶やさないため、そしてバンカは、その地位を維持するために、派閥から血縁のある一族へと姿を変え、今日にいたる。

「父がトナン、母がバンカの人間だからな、僕は」

 だから、村でもずいぶん肩身の狭い思いをした。すでに鬼籍に入った父と母との記憶はあまりない。育ての親は、バンカの者が住む里の中でも陽術を教える師であった。

『――まあいい』

 何か含みのある声だったが、体を乗っ取ろうとした奴だ。言葉を重ねる気にはならない。

『気づいていないようだから教えてやるが、バンカの術はもう使えないぞ』

 すっと眉間に皺を寄せた。

 頭に響く声の主は、わざとらしく大きなため息を吐いた。

『当然だろう、俺がいるんだ。それに死ぬ一歩前の奴を何の代償もなしに回復させることなどできるか』

「はい?」

 思わず起きあがった。そんな話、信じられるわけがない。

「お前の虚言には耳を貸さないぞ」

 そう言って、無理矢理目を閉じて、意識を遮断した。


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