最終話 夜明け

 なんだ、と言いたげに赤いブックカバーのタブレットを胸に抱えてこちらを見る青年の頬に、傷跡はもう無かった。


「大丈夫に決まっているだろう。俺を誰だと思っているんだ、少しくらいの傷は塞げる。ま、お前に殴られた頬は痛いがな?」


 最後だけ嫌味に言われたものの余裕のある表情に毒気を抜かれ、「なら良かった」とヘラリと笑って返していた。


「…………お前は大丈夫か」

「へ」

「大丈夫か、って聞いているんだよ!」


 一瞬何を聞かれたか分からなかった。

 一拍後、それがこの皇子に心配されているのだと気付き――最終的には目尻を緩めた。なんだか高校生の妹と話しているみたいだ。


「大丈夫だ。痣くらいはあったと思うけど、さっきキリエで戻ったし治ってるだろ。心配してくれて有り難うな」

「誰も心配していない、聞いただけだ」


 だからか、つんと返された言葉にも笑ってしまった。肩を揺らしながら「そっか」と言ったら、シオンが嫌そうに眉を寄せた。

 シオンは一度深く深く溜め息をつき、腹筋を使って起き上がる。膝上にタブレットを置き直し、何回か躊躇した後にこちらに向き直る。少しだけ唇が尖っていた。

 なんだ、と少し身構えると、不服そうな青年の唇がゆっくりと、観念したように開かれた。


「…………あの時は助けてくれて有り難うな。幾ら俺でも、あれはキツかった」


 ぽつ、と小さく紡がれた意外な言葉。

 思わず目を見開いてしまった。


「お前の言う通り、俺は抱え込みすぎてた、んだと思う。俺は、他の奴らよりもキリエに恵まれた皇子だ。本国を守りたい、本国に安寧を、と誰よりも思っている。他の奴らだって結局はルシフモートの民、シルフェみたいに強化した奴相手にあいつらを危険に晒すのも避けたくて、その為にも俺1人が頑張れば良い、と……思ってたんだ」


 辿々しく言われた内容に瞬きを忘れていた。

 単独行動したかったのは理由があったのか。

 シオンは本当に馬鹿だ。こいつはたった1人で、何もかも守れると思っていたのだから。


「……でもお前に助けられて、殴られて、気が付いたんだ。本国を守るなら、人と、仲間と手を組んだ方が良いって……事を」


 こちらが何も言わないからか、ぽつりぽつりと語る言葉が止まる事は無かった。

 一度言葉を区切ったシオンは心を決めるように深く息を吸い、シルフェと対峙していた時よりもずっと真剣な眼差しをこちらに向けて来た。


「夏樹、一度しか言わないから良く聞け。俺に力を貸してくれないか。お前が子供になって密航者の囮になってくれたら、俺達はもっと動きやすくなる。それにハッキリ言うお前と一緒なら、俺はルシフモートを守り抜ける、そんな気がするんだ。お前が危険な目に遭ったら俺が助けるから、だから。……今まで、殺すとか言って悪かったな」


 暖房の音しかしない部屋、シオンの声は良く通った。目を見張ってその言葉の意味をゆっくりと咀嚼する。

 自分1人で大丈夫。

 そう言っていた皇子の心の色に変化があった。信念を曲げる程の、けれど暖かい色になった。

 今きっと、僕はとても間抜けな表情だろう。意外すぎたし、少し目が潤んでたと思うし、半分口も開いていたと思う。


「……シオン」


 少しして言葉が出たものの、それはただ名前を呼んだだけの物。

 それにシオンは返事をするでもなく、ふいと僕から視線を外す。何か言わなければと気付き、目が合わなくなった横顔を見る。

 シオンが言う通り確かにとても危険だと思う。下手をすれば殺されるし、今回みたいに痛い事も普通な筈。

 でも。

 あの女の子みたいに誰かが被害に遭うだろう機会は減る。下手すれば妹だって被害に遭うこの抗争。ルシフモートの人達だって怯えながら「お早う」と口にするのだ。

 何よりシオンが――馬鹿が無理をする。それを止められるのは、きっと僕だけだ。


「仕方無いなあ、そんなに言うなら手伝ってやるよ。で、ルシフモートに平和を呼んでやる」


 気付けば口が動いていた。我ながら偉そうな物言いだと思ったが構わないだろう。

 僕が頷いたのを映した黒色の瞳が、安心したように柔らかくなった。こいつの柔らかな表情、初めて見る……何だか凄く恥ずかしくなって、耐え切れず声を張っていた。


「そ、その代わりお前はこの体治せよ!? シオン様なら当然出来るよな!? 治さないと困るのはお前らだからな!」


 突然僕の声が大きくなったからか、一瞬だけシオンの肩がビクついた。人間臭い驚き方が似合わなくてぷふと笑うと、分かりやすくシオンが肩を怒らせる。


「黙れ、分かってるっての! いずれな、いずれ!」


 リビングいっぱいにシオンの怒号が響いた――その時。

 ガチャリ、と音を立ててリビングの扉が開いた。


「……何やってるんだい?」


 開いた扉から顔を出したのはチェスターコートを着たスーツ姿のイケメン、辻太一だった。


「少し廊下で聞いていたよ。皇子にあそこまで言わせるとは流石だなあ」


 おかしそうに笑った太一さんはテーブルに近付いて僕に向き直る。シオンはその言葉に不機嫌そうに鼻を鳴らしていた。


「やあ、また会えて嬉しいよ。昨日は君が居てくれて本当に良かった、有り難う」


 僕を見ながらニコニコと笑顔で言ってくる。邪気のないその笑顔にこちらまで嬉しくなった。


「じゃあ早速今晩回らない寿司を奢って下さい」


 空けたばかりの皿を前に笑って返すと、一瞬太一さんがぎょっとした表情になった。「若いなあ」とこの部屋で一番若い人が笑い「いいよ」と続けた。


「俺も行く。わさびは地上の毒だがウニは美味い」

「わさびが食べられないなんてお子様だな、僕はいけるぞ?」

「黙れ! それはお前が地上人だからだっ!」


 乗り気になってにいっと笑うシオンの言葉を冷やかすと、拗ねきった表情で返事が戻って来た。


「じゃ、今夜は夏樹君の歓迎会を兼ねて外食にしようか。その前に餌あげてくるかな……」


 太一さんのその呟きに「止めろ」とシオンが嫌そうに顔を歪め「こっそり応援呼びやがって」と地味に一方的な喧嘩に発展させる横、テーブルの隅に置かれていた緑色のスマホを手に取る。

 2日近く触れていなかったスマホ。

 最後に触ったのが公園でのシオンだったせいか何故かカレンダーの記入画面が開かれている。それに、何件もの通知――特に家族からのメッセージ――が届いてた。

 それは『何時帰って来るんだ』『今晩はどうするんだ』と言った内容。

 慌てて短い返事を送った。これだけで通じる筈だから。


『今晩は友達と食べてくるから要らない』


 そう書いたメッセージを。

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ルシフモートに安寧を 上津英 @kodukodu

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