いつかのひまわり、昼日中

クニシマ

「夏です」

 冷たい麦茶を注ぐと、すぐさまコップの表面にいくつもの水滴が現れた。男はそれを部屋の中央にあるテーブルへ置く。テーブルにはひとりの少年が向かっていて、男のほうを見ることもなく「ありがとう」と言った。

 窓から差し込む陽光が室内の空気を熱していく中にあって、フローリングの床ばかりが低温を保っている。男は、伸びるままにしている髪、その一部にそろそろ白髪も混じるようになってきた頭をちょっと掻いて、少年の隣に座った。

 少年はいつからかこの部屋にいる。そしてずっと少年であり続けている。男がそれを特段不思議と思ったことはない。朝、共に目を覚まし、簡単な食事をして、それから部屋の中で気の向くままに過ごす。日が暮れるとまた食事をとり、やがて眠りにつく。彼らはそうやって生きていた。

 少年は、テーブルの上にやった手で、一匹のくわがたむしを弄んでいる。脚や翅の動くさまをしげしげと眺め、ひっくり返して腹を触り、丹念に顎の輪郭をなぞる。そして、ふいにその脚を一本ちぎり取った。それを見ているうちに、男は自らの体をそう探られているような、くすぐったいような心持ちがして、口元をゆがめて笑った。少年は男の顔に視線を移し、わずかに口を開いて、しかし黙っている。遠い昔、男にとってまだ十回目にも満たないほどの夏の頃、彼はその表情を見たことがあった。同級生だった男の子——男はその子と友達であったわけではなかった、しかしなぜだかよく彼に気を取られていた。一度だけ、男は彼と遊んだことがある。いや、遊んだとはいえないのかもしれない。彼がひとりで公園にいたところへ、男が偶然訪れただけだったから。ブランコに並んで座ったり、くもの巣にかかったせみを放してみたり、それくらいのことをふたりでやった。あまり言葉は交わさなかったが、せみを掴んだ彼が男のいるほうを振り向いたとき、そう、そのときだ。そのとき、彼は何かを喋りだそうとしていたのか、それとも口をつぐもうとしていたのだったか。かすかに開いたくちびると、せみの肢体を支える指の白さだけ覚えていて、他は判然としない。

 男の目の前では、すっかりくわがたむしの脚をちぎることに飽きた少年が、からになった飼育瓶の中を柄の長いスプーンでかき回している。少年が遠い夏の日の彼であることを、男はわかっていた。ぼくは彼を美しいと思っていたのだろう、と男は考える。それだから今、彼はここにいるのだろう、と。

 少年が、ふと、外へ出たがった。瓶もスプーンも放り、テーブルを離れる。それは珍しいことだった。きみは外なんて嫌いなんだとばかり思っていた、と男が言うと、少年は歯を見せて笑った。肯定をしているのか、そうでないのかはわからない。彼のつくる表情はたいていの場合において明白な意味をもたないから、男は何も気にしなかった。

 彼らは適当な靴を履き、連れ立って家を出る。玄関先で男が少年へ手を差し出すと、少年はすなおに応じた。そのまま彼らは清廉な父と息子のように手を繋ぎ、ひどい熱気の立ち込めるアスファルトを歩いていった。

 空には大きな入道雲が湧いている。その横を飛行機が通り過ぎていく。立ち止まって眺めていると、伸びた白線の尾は次第に薄れて拡がり、しまいには空の色に溶けた。彼らはまた歩き出す。道の端に背の低いひまわりがいくらか並んでいる。このあたりに住む誰かが育てているらしい。あさがおの鉢植えを玄関先に置いてある家もあった。子供がいるのだろう。

 あてもなくぶらついているうち、横断歩道にぶつかった。はじめ、ボタンを押さなければならない信号機であると気づかず、彼らは五分ほどそこに立っていた。あとからやってきた自転車の青年が怪訝そうな顔でボタンを押し、それからすぐに車たちが止まったことで、ようやくすべてを理解した男は、少年に向かって軽く肩をすくめてみせた。少年はふくれつらをした。

 横断歩道を渡ると、そこには小さなアパートと、その傍に狭い駐車場がある。アパートの入口にはブリキのバケツがひとつ置かれている。その中を覗くと、たっぷりの水道水に線香花火の跡が浮かべてあった。花火をやりたいかと男が尋ねてみると、少年は知らない言葉を聞いているときのようにまったく気のない顔をした。強い日差しが彼らを照らしている。少年がまぶしがるのを見て、帽子をかぶってきたらよかった、と男は言った。

 南風が吹き、並んだ街路樹がざわめく。どこかの家の軒先から風鈴の音がした。男は少年の手を引いて道なりに進んでいく。アスファルトの舗装が途切れた先に、町境の川が流れていた。濁って青黒い水面のところどころに発生源のわからない泡の塊がある。ときおりうごめく影は魚だろうか。少年が河原へ降りようとするので、男は土に足を取られそうになりながらついていく。後ろ髪に覆われたその首筋を汗がつたう。

 水辺にしゃがみ込んだ少年は、手近にあった草を引き抜いて水中に差し入れ、魚を呼ぼうとしている。少年に右手を握られたままで腰をかがめる姿勢になった男は「釣れないよ、そんなんじゃあ」と苦笑した。そんな彼らを尻目に、向こう岸では黒ずんだ魚が低く跳ねる。うろこが陽光を受けて輝き回った。それを見た少年は立ち上がって草を捨て、帰る、と言った。そしてさっさと歩き始める。男は半ば引きずられるようにしてついていった。

 帰り道、縁石を見つけた少年はその上を選んで歩きたがったので、やってきたときよりも遠回りをすることになった。ふらふらと不安定に歩む少年を、男は落ちないように支える。ゆっくり進んでいく彼らを追い越し、軽トラックが走り去っていく。幌をかぶった荷台がごとごと音を立てて遠ざかる。

 そうして彼らが家の前まで戻ってきたところに、買い物袋を提げた隣家の主婦が通りかかった。男は顔見知りの彼女に挨拶をして、それから自分の手を握っている少年について説明する言葉を探した。彼女をはじめとする近隣の人々は、男とはそれなりに近所づきあいがあるものの、めったに外へ出てこない少年のことはまったく知らない。しかし、だからといって妙な勘ぐりをされてはたまらない。

「ああ……ほら、夏休みですから……。」

 父親らしいことを、してやらなくちゃならないんです。口から出まかせに男はそう言った。主婦はにっこりと微笑み、ええほんとうに、と応える。この隣人は優しいから、男が手で示した少年のほうを見てくれようとするのだった。だから、たとえ彼女の視線があらぬ空中を向いていたとしても、そんなことは些事だった。はす向かいの庭先にも小さなひまわりが咲いているのを見つけながら、男は彼女と世間話を交わす。少年は退屈そうに何度か男の手を引っ張った。

 しばらくして主婦と別れ、彼らは部屋へ帰った。傾きかけた太陽はいっそう光を増し、部屋じゅうを揺らがせている。テーブルの上のコップは周囲に小規模な水たまりをこしらえて、くわがたむしの脚を二、三本ほど浸している。コップを取り上げてひとくち飲んだ少年は眉をひそめ、残りを男に押しつけた。男はため息をつきつつも受け取り、ぬるまった麦茶を飲み干す。舌の上にその味が残る。

 少年が窓辺へ寄っていき、外を眺めて「来年は、かぶとむしがいい」とつぶやいた。窓ガラスの向こうでは、雲の切れ間に白い月がぽつりと浮いている。少年の背の細さを見るにつけ、ぼくは夏をけっこう好きなのかもしれない、と男は思った。

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