19 松さんと馨さん

オフモードの課長の飲みっぷりに少しばかり唖然としてから、はっとして私もグラスに口を付けた。


その後、次々と出てくる料理の美味しさを味わいながらカウンター内の二人を紹介してもらう。


店主が松さん。その奥さんが馨さん。二人きりで営んでいるこの居酒屋で近所の人を相手に細々と自由に商売をしているらしい。


課長は入社してすぐの時期にこの店を見つけ、それから忙しい仕事の合間を縫って通っているとか。


二人の気さくさと、いつの間にかお客の増えた店内の陽気な雰囲気によって、課長と2人で飲んでいるという緊張は薄れて自然とその場の空気を楽しむ余裕が生まれる。


会社から駅とは逆方向にあるこの店は我が社の社員が来ることもなく、(二面性のある)課長にとっては一人で気軽に飲める隠れ家的スポットなのだそうだ。


そんな店を私なんかに紹介もよかったのだろうか、と思いはした。


けれど私はすっかり店の雰囲気に染まって、いつの間にか松さんと馨さんに「陸ちゃん」などと呼ばれるようになり、かなり陽気になっていた。


おしゃべりの話題は尽きることなく、調子に乗って普段の課長の様子を話すと松さんも馨さんもとても興味深げにしたので、さらに口が滑べる。


「課長ったら仕事中は全然笑わないんですよ。いつも眉間に皺寄せて、皆にすごく恐れられてます」


「はー、恭介が厳しいのはなんとなくわかってたが、なんだか陸ちゃんの言ってる感じのイメージはなかったな」


「しょうがないじゃないっすか、俺はまだ31歳っすよ。平社員にはじめは馬鹿なやり取りだってしてた同期だっているんだ。どうにか威厳を出さなきゃって俺がどれだけ苦労してきたことか」


「確かに恭ちゃんの年齢で課長さんなんて大きな会社じゃ滅多にいないものね。年上の部下なんて沢山いるでしょ?」


「確かに…年上の部下もいっぱい居ますね。大変そう」


「お前、今更それに気が付くのか。気が付いたならもっと俺を敬え」


「何言ってるんですか。仕事中にこれでもかっていうくらい敬ってるじゃないですか。というか、仕事中に課長に逆らうなんて恐いこと誰もできません」


「あら、陸ちゃんみたいな女の子にも厳しいの?」


「厳しいなんてもんじゃないですよ。というか男女差別はうちの課には良い意味でも悪い意味でも無いんで」


「まあ、川瀬しか女はいないからな。女として気を使わなきゃいけないようなやつは一課にはいらない」


「恭介の職場には女は陸ちゃんしかいねえのか?」


「はい。他の課には沢山いるんですけど」


「うちじゃ普通の女は仕事はできないからな」


「まるで私が普通の女ではないとおっしゃているように聞こえますが?」


テンポの良い会話はとても心地が良かった。しかし、聞き捨てならない言葉には敏感に反応してここぞとばかりに掘り下げる。これもお酒の力があってのことだ。


女の身方は女ということで馨さんも私に同調して課長の言葉を非難する。


「恭ちゃんったら女の子にそういう言い方はダメよ。陸ちゃんみたいな美人で頑張り屋な女の子だからやっていけるんだって素直に言わなくちゃ」


「いや、そこまで言って欲しいわけでは。美人じゃないですし」


馨さんはその仕事柄やたらめったら私のことを褒めてくれる。社交辞令だとは分かっているし、嬉しいといえば嬉しいのだけれど、見た目のこととなるとこそばゆい。


さり気なく褒め攻撃にストップをかけようとしたのだけれど、馨さんは止まらなかった。


「あらやだ陸ちゃん、折角美人さんなんだから営業のお仕事なのに自分の容姿をわかっていないのはダメよ。恭ちゃんなんて自分のイケメンっぷりを利用して、お仕事相手が女性だったらとことんメロメロにさせてきたんだから」


「とことんメロメロ…」


「ちょっと馨さん、なんちゅーことを言うんですか」


慌てた課長をだったが、他の客の料理を準備しながら松さんがぼそりと呟いた言葉に追い打ちを掛けられる。


「確かに昔の恭介は女が相手だったらどんな仕事も取ってこれる、なんて言ってたなぁ」


「うわ、課長ってナルシストだったんですね」


「松さん、変なことを思い出さないでくださいよ。あんなの冗談で言ってたに決まってるじゃないっすか。それに、それを言うなら川瀬だって大したもんだぜ。無自覚だけど」


「あら、やっぱり」


馨さんが嬉しそうに両手を胸の前で合わせる。


一方私は急に引き合いに出され訝し気に課長を見やる。


「何のことですか? 私はナルシストじゃないですよ」


課長はふんと鼻を鳴らした。


「俺だってナルシストなんかじゃねーよ。そうじゃなくて、お前取引先の男にしょっちゅう飲みに誘われてるらしいじゃん」


「……誰から聞いたんですか、そんなこと」


確かに取引先の担当者に食事やら飲みやら誘われることはあるといえばある。


けれどもそれこそ社交辞令。私じゃなくても仕事相手として気に入って貰えればよくある話のはず。


そう口にすると「ほらやっぱり無自覚」と人を小馬鹿にするように唇の端を上げた。


イラッとしたので何か言い返してやろうとしたが、その前に課長が笑みをより深くした。


「それになんてったって、内の課で一番いい男に言い寄られているんだからな」


私ははっとして課長を見る。


課長は頬杖をついてニヤリとこちらを眺めるようにしている。


何が『一番いい男』だ。


「またそういう冗談言って…」


冷たい視線を送ると「冗談じゃないけどな」と余裕の表情だ。


何を言っているんだか。


そもそも私は誰にも言い寄られてなんていない。


タチの悪い上司にからかわれているんだ。


そうに決まってる。


これ以上ナルシストに付き合っている暇はない。


話を掘り下げてきそうなカウンター越しの二人の意識を他に持って行くため、不自然なほど思いっきり話題を変えた。

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