第3話 憤怒っていうか天災(2)

 あれはそう、二カ月も前のこと。



◆◇◆



 異世界に迷い込んだ。


 はは、ウケる。なにそれ。


 なんで異世界なんて非現実的な認定をしたかと言うと、空がフラミンゴみたいな色だったのと、何よりも月らしき物体がそのピンク色の空に二つ浮かんでいたから。

 赤っぽいのと、青っぽいのと二つ。

 まん丸で、落ちてくるのではと不安を煽る程に大きな月が、二つ。


 ……いや、待って。それって本当に、月?


 ともかく、そんなファンタジックな光景、地球上で見れなくない?

 海外だったらあり? どっかの秘境とか。


 夢だと思うにはあまりにも意識も感覚も明瞭で、それでも夢の可能性を完全に捨て去るにはなんか色々引っかかる。

 とりあえず、夢なら早く覚めてほしい。

 それとも自分でも気付かないうちにヤバい薬でもキメちゃった?

 それともそれともこれって、実はあの世……とかだったら嫌だなあ……。


 そんなことを考えながら、迷い込んだ直後から体感で約一時間。腕時計の申告によれば約七分。

 なんか怖いことが起きそうな雰囲気しかない、おどろおどろしい森を出たさに当てもないままうろうろとさ迷い歩き、息苦しさに朦朧として、私は地面に倒れこんだ。


 細い木の根、細かい石が混じる土。

 倒れ込んだ地面は以外にも柔らかく、顔の横には白い斑点のある紫芋みたいな色の茸が生えていた。

 食べたらなんか良くないことが起こりそうな感じのやつ。


 っていうか、なんかこれ、なに? 粉舞ってない?

 なにこれ、胞子? 胞子ってこんな甘ったるい匂いするっけ?

 これ吸っていいやつ? 大丈夫なやつ? 駄目っぽくない?


 妙に重く感じる頭を「ううううううう」と唸りながら僅かに浮かせ、とりあえず左から右に顔の向きを変えた。なんかヤバそうな茸から、ほんの僅かに距離をとっただけ。

 そしてそこで私は、自分が力尽きたことを知った。


 はは、ウケる。なにこれ。


 人間ヤバくなって一周回ると笑えて来るらしい。あくまで心の中で。

 力尽きた私はちょっと笑うのに口角をほんのり上げることしかできない。あとは目を開けてるだけで精一杯。本当に真面目に指一本動かすことすら出来ない。


 何これ。何があったの? 私、どうしちゃったの? ここ、どこ?


 そして、唐突に地面が揺れた。轟音。そして土埃。

 地面の揺れに呼応して、内臓までもが揺さぶられるような不快感。そして、驚きすぎて心臓が跳ね上がった。

 まるで空から巨大な何かが降って来たみたいな、そんな感覚。


 巻き上がった小石と砂が痛いし、なんか目に入った。

 瞬きを繰り返し、涙で滲んだ視界の先、辺りが急に何かの陰に入ったかのように薄暗い。

 よくわからない匂いがする。

 生温かい風が、剥き出しの首筋を撫でた。

 目の前に、さっきまではなかったはずの岩みたいな壁がある。


 え、何? 今度は何?


 それの表面が動いてるみたいに見えるとか、爬虫類の表皮みたいに見えるとか、そういうのは気のせいだと思う。思いたい。暗いからよく見えないだけだと思いたい。


「ぐるるるる……」


 喉を鳴らすような唸り声のような轟音、頭上から降ってきたそれも気のせいだと思いたい。荒い呼吸のような音と共に、生温かい風がぶわりと起こる。まるで巨大な生物に迫られているような、圧倒的なプレッシャー。


 立ち上がって、走って、この場から逃げたい。それなのに、私の身体は全身麻痺したように動かない。


 まるで獲物の匂いを確かめるように、鼻を鳴らす音が聴こえる。そして一息ごとに、砂埃と細かい石が舞い上がる。大型犬とか、そういうサイズ感じゃない。もっと巨大な何か。


「ナンダキサマダレノユルシヲエテワガリョウドヘトアシヲフミイレタサンビョウイナイニイネサモナクバシヲモッテツグナブベドゥアアアアアアアアアアアアアアアア」


 ぶべどぅあああああ?


 確かに聴こえた人の声。ぶつぶつと呟くようでありながらしっかり聴こえてくるその言葉の意味を理解する暇もないまま、こだまのような叫び声を残し遠ざかっていった。多分、巨大な生物も一緒に。え?


 ほんとに、何。なんなの。


「ぼくの通り道を塞ぐなサタン。散歩の邪魔だ」


 また、人の声。艶のある、男性の声だ。

 消えた爬虫類の表皮的壁に代わり、人の脚的なものが固定された視界の中、地面を踏みつけて現れた。

 脚のラインに沿った真っ白なタイツ。ヒールのあるベルベット生地のエメラルドグリーンの靴。靴紐に代り、幅広のリボンがその甲の上で結ばれている。


「うん?」


 いやに時代がかった足元だな、と思った。まるで中世ヨーロッパの貴族みたいな感じ。でも人間っぽい。爬虫類じゃない。それだけでもう、涙が出るほど安心する。


 助けて、と声にならない声で、私はその人に助けを求めた。実際には、口をぱくぱくさせただけだけど。


 そのベルベット生地に包まれたつま先が、私の方に向けられる。

 地面と胸元の間に差し込まれたその足が、私の身体を持ち上げ、ころりと、無造作に転がした。足が。

 足で、転がされた。


 仰向けにされた私の視界。鬱蒼と茂る木々の枝、その隙間から見えるフラミンゴ色の空。その空をバックに、私を見下ろす、男の人。

 とんでもない美人な、男の人だ。イケメン、なんて俗な言葉は似合わない、現実離れした美貌。美の粋を極めた芸術品みたいなひとが、私を見下ろしている。


「人間」


 無表情で、無感動に呟かれたその言葉は、多分独り言だろう。


 病的なまでに白い肌、銀の髪に赤い瞳。日本人には馴染みのないその配色が、不自然な程自然にそのどこか退廃的な美貌に馴染んでいる。そして、その側頭部で緩い円を描く羊の様な立派な二本の角。


 角……?


 随分、気合の入ったコスプレだな。似合ってるし、まるで本物みたいにすごく自然だけど。

 服装は、その足元と同じく、中世のフランス貴族の青年みたいな感じ。金色の刺繍が入ったエメラルドグリーンの三つ揃えに、半端丈ズボンから覗く白タイツ。首元のひらひらスカーフみたいなやつも物凄く似合ってる。ヴェルサイユ宮殿にいそう。映画の撮影?


「甘い匂いがする」


 形の良い鼻をすんと鳴らし、その赤い目が、私を見る。正確には、わき腹辺りを。


 一瞬、何が起こったのか分からなかった。


 そのひとの指先がジャケットの布地を引き裂いたのだと理解したのは、その手の中に、ジャケットのポケットに入れていた生キャラメルの包みを認めてから。


「これ、なに?」


 そのひとが首を傾げるのを、私はただ茫然と見上げた。一ミリも動かせない身体。知らない場所。見ず知らずの男の人に足で転がされて、いきなりジャケットをものすごく無造作に裂かれた。


 なに、ってなに?


 ちょっと、わけがわからない。なに? なんなの?


 その時、初めてそのひとが、ゆったりと微笑んだ。

 ジャケットを引き裂いて取り出した生キャラメル一粒を片手に、実に蠱惑的で、かつ残忍さの滲む笑み。


「……っ?!」


 声にならない悲鳴が喉の奥から漏れた。

 やすやすと私の首を片手で掴み、身体ごと持ち上げたそのひとは、自分の頭より高い位置に、私を掲げた。宙吊りの状態にされて、もう動かないと思ってた指が意識とは別に動き、首に回された手を引き離そうと藻掻く。


「これ、なに?」


 遠のく意識は、ぎりぎりで踏み止まり、涙で滲む視界にもう片方の手が差し出された。

 同じ質問が繰り返される。

 両端が捩じってある、白い紙で包んだ生キャラメル。それを真っ黒な長い爪の生えた人差し指と親指で挟み、私に見せてくる。 


「……! ……!」


 応えようにもこんな状態で喋れるか馬鹿!!!!


 陸に打ち上げられた魚みたいに口をはくはくさせる私に気付いてか、死ぬんじゃないかという数歩手前で、首が解放された。

 地面に崩れ落ちる私に、無慈悲に告げられた声が追い打ちをかけてくる。


「三秒以内に答えないと殺す」


「生キャラめりゅ!!!!」


 とにかくやけくそで叩きつけるように答えを叫び、そのまま咳込んで、ついでに嘔吐した。

 私が地面にげろげろと吐いている傍らで、かさりと音がする。白い紙がひらりと落ちて来た。生キャラメルの包み紙だ。


 昨晩作って、仕事の合間おやつに食べようと思って、でも食べ損ねてジャケットのポケットに突っ込んでうっかり忘れてそのままにしていた手作りの生キャラメル。小さく切って、一粒ずつ紙で包んだそれは、売り物と遜色ない出来だと、自画自賛したものだ。ちなみに要冷蔵。


 吐いて咳込んで再びぐったりとした私の首根っこが引っ張られる。

 再び吊り下げられた態勢で、私は私を摘まみ上げ顔を覗き込んでくるその人をぼんやりと見た。

 首を直接絞められたさっきよりはマシな体勢だけど、ブラウスの首元が圧迫してくる。普通にそこそこ苦しい。

 やばい。ほんとに意識が混濁してきた。


 赤い舌が唇を割り、舌舐めずりをする。なんて、官能的な絵面だろうか。


「もっと食べたい」


 もうありません。

 ぼんやりとした意識で、がんばって頭を左右に振った。無視しない方が良い気がしたからがんばった。

 ちょっとだけ、動かせた頭の動きで、意図は伝わっただろう。


 男は、一拍置いて再度口を開いた。


「ここは魔界だ。人間にここの空気は毒だから、放っておけばお前は直に死ぬ。いや、待てよ。そこに生えてた茸の胞子を吸っただろうから、喉の奥で発芽した茸で窒息するのが先かもしれないな。それでも寄生した茸が永遠にお前を苗床として生かしてくれる。良かったな。不死になれる。人間はよく不老不死を望むだろう? ああ、それとも、さっきみたいにドラゴンに襲われる可能性も捨てきれないか。あいつらは人間の腸を好んで喰らう。生きたまま腹を食い破られるのかかわいそうに。いやいやそれとも、地中から匂いにつられて蟲が這い出して来るのが先かな。穴という穴から体内に入り込まれて生きながら内から食い尽くされるのか。見ものだな。ぜひ見学したい。せいぜい叫んでのたうち回れよ。苦しみ抜いて死んでくれ。騒いでくれた方が見応えがある」


 内容に反して、その口調は実に楽しげである。

 魔界、ってなにとか、不死とか、ドラゴンとか、虫とか、全然意味が分からない。分かんない。全然理解できない。

 でも、怖い。怖い。すごく怖い。わけ分かんないのに、怖い。襲われるのも、苦しいのも、痛いのも、死なないのも、死ぬのはもっと怖い。


 ただ意味不明な恐怖に震え、目の前の脅威には目を瞑り、私は目の前のその人に縋るような目を向けた。


「でも、今の甘いやつをもっと作ると言うのなら、保護してやる」


 まるで、神の啓示のような、天の助けのような、そんな風に感じた。


「お菓子を作れるなら、飼ってやってもいい」


 それはまさしく、悪魔の囁きだった。

 甘い誘惑のように囁かれたそれに、私は全力で首を縦に振った。



◆◇◆



 避けようのなかった魔界への迷い込み。

 迷い込んでからの行動。私は、何か間違っただろうか。それとも迷い込みと同じぐらい、どうすることも出来なかっただろうか。

 何度思い返して考ても、最善が分からない。ただ死にたくない一心だった。聞かされた惨たらしく恐ろしい死から逃れたかった。


 悪魔が囁いたその果てのこの現状は、果たして堕落と呼ぶべきものだろうか。

 

 なんて、そんな殊勝なことを考えるのは三日で飽きた。

 今はもう、ただ無になって、お菓子を作り続けてるばーかばーか。

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バタフライ・グリモワール ヨシコ @yoshiko-s

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