日出卜英斗は信じられない

 夢のような放課後が始まった。

 ハナ姉と並んで歩くと、見慣れ始めた学び舎まなびやが輝いてくる。なにもかもが華やいで見えて、十年間離れ離れだった隙間がマッハで埋め立てられていった。

 それに、改めてハナ姉を凄いと思う。

 すれ違う誰もが挨拶を投げかけて、会話を求めてくる。

 勉強や部活のことなど、助けをうてくる人もいた。

 その全てに、ハナ姉は笑顔で誠実に応えるのだ。


「でも、なあ……なんつーか」

「ほえ? ヒデちゃん、どしたのぉ?」

「いや……もうわかってる、納得してはいるんだけどさ」


 そして、俺を見るとみんな「ヒエッ!」とか「ヒイイ!」と小さく叫んで目を逸らす。

 ちょっと傷付くなあ。

 俺はただ、ハナ姉を尊敬する生徒たちに目を細めているだけなのに……それなのに、多分恐ろしい眼光ですがめるようなことになってしまってるらしい。

 そのことを察したハナ姉が、パッとポットから手を放した。


「むー、ヒデちゃん? ちょっと顔、怖いかも。スマイルだよっ、スマイル!」


 俺の前で振り返って、ハナ姉が背伸びした。

 そのままぐぐいと身を寄せてくる。

 たわわな膨らみが俺の腹のあたりに軟着陸。そして、伸ばされた両手がほおを包んだ。

 もにもにと俺のほっぺを揉みながら、ハナ姉がふわりと微笑ほほえんだ。


「ヒデちゃん、目元に力が入り過ぎてるんだよ?」

「いや、これは生まれつきっていうか」

「せっかくかわいい顔してるんだもの、もっと笑顔でいなきゃねっ」

「笑顔か、笑顔ね」


 俺は顔の表情筋を弛緩しかんさせ、できるだけ笑顔を念じてみる。

 丁度その時、通りかかった先生がビクリ! と身を震わせた。若い男性教諭で、そのまま先生は伏せ目がちに早々と去っていった。

 どうも、俺には笑顔とやらが上手くできない。

 目つきが悪いだの不良顔だの言われてるうちに、それがデフォルトになってしまったんだな。


「こ、こうかな……ハハハ、ハ、ハ」


 駄目だ、乾いた笑いしかできない。

 自分でもはっきりわかるくらい、顔が引きつっていた。

 でも、そんな俺を見上げてハナ姉はムフフと眼鏡めがねを上下させる。


「よろしい! 笑顔、笑顔っ!」

「あ、ああ」


 ぎこちなくも、静かでゆっくりと時間がたゆたう。

 そんな、本当になんでもない放課後が突き破られた。

 突如、背後を複数の生徒たちが走り抜ける。慌ただしい一段の声がはずんで、その中に俺は聞き慣れた名前を拾った。


「おいっ、第二体育館でバスケ部にトラブルだってよ!」

「急げ急げっ! また狭宮はざみやの奴がやらかしてるみたいだ」

「一年にからまれてるんだって? なにやってんだか、あいつ」


 狭宮……沙恋されん先輩が?

 それにバスケ部って、まことがいるじゃないか!

 俺は思わず、ポットを持ったままでオロオロしてしまった。

 そんな俺の手を、今度は直接ハナ姉が握ってくる。


「行こう、ヒデちゃん! 多分、沙恋ちゃんとまことちゃんだよっ!」

「つーか、あの二人しかないよなあ……なにやってんだ、まことの奴。よよよ、よ、よしっ。行きましょうか! これは大変なことですね!」


 思わずキャラがぶれて、敬語になってしまった。

 だって、ハナ姉の手……小さくて柔らかくて、温かくて。しかも、一生懸命に俺の手を握ってくる。そのぬくもりを握り返したら、潰れてしまいそうで怖いくらいだ。

 それでも俺は、ハナ姉に引っ張られて走り出す。

 見れば、周囲には同じように第二体育館を目指す人が増えてゆく。

 お気楽な連中だ、お祭り大好き学園かよってね。

 それにしても、妙な胸騒ぎがして落ち着かない。

 第二体育館に飛び込んだ時にはもう、熱気がざわめきの中でうずを巻いていた。


「ヒデちゃん、見てっ! あそこに沙恋ちゃんとまことちゃんが!」

「なにやってんだよ、まことっ!」


 すでにもう、人だかりができていた。

 その誰もが、コートに熱い視線を注いでいる。

 そして、大小二つの体操着姿が睨み合っていた。沙恋先輩とまことだ。沙恋先輩だって女子としては背が高いのに、まことと並ぶとまるで子供みたいだった。

 いや、仮に女子だったとしたらの話ね。

 沙恋先輩は、いつもの飄々とした涼し気な笑みを浮かべている。

 まこともいつも通り、ぼんやり眠そうなジト目だった。

 でも、二人の間に圧縮されてゆく空気の緊張感は普通じゃない。

 そして、衝撃の一言が耳に飛び込んでくる。


「狭宮沙恋。あたしと勝負しろ。あたしが勝ったら、金輪際こんりんざい英斗ひでととハナ姉に近付くな」


 まことの声は、いつも通り平坦で抑揚よくように欠くものだった。

 でも、俺はハッキリとその中に闘志を感じ取る。

 奴は本気だ……そこにはもう、いじめられて泣いていた小さな女の子の姿はない。みるみる背が伸びて、たぐいまれなる身体能力を開花させた期待のルーキー。バスケ部の特待生……藍野あいのまことにはオーラがあった。

 けど、沙恋先輩には気圧された様子が全くない。

 そして、フフンと鼻を鳴らしての言葉も実にすずやかだった。


「ボクと勝負かい? 構わないけど、ボクはバスケ部を手伝いに来たんだよ?」

「そう、だから手伝ってもらう。あたしには恰好の練習相手という訳だ」

「そういうことなら、お相手するよ? フフ……これが売られた喧嘩ってやつかな。この感覚、久しぶりだね」


 いやいや待って、ちょっと待って。

 沙恋先輩、物騒な言葉使わないで。

 でも、誰かがコートにボールを投げ込んだ。それはダンダンと弾んで沙恋先輩の足元へ転がってゆく。それを拾い上げると、先輩はそのままコートの中央へ。

 勿論もちろん、まことも全く引かない構えだ。


「ハナ姉っ、二人を止めないと! ……ハナ姉?」


 俺は気付けば、ポットを抱き締めオロオロしていた。

 そんな俺の横で、ハナ姉は熱視線を二人に注いでいる。けど、俺の声に気付くと、いつになく神妙な面持おももちで小さくつぶやいた。


「ヒデちゃん、ちょっと様子見よっか。ほら、スポーツで芽生える友情とか」

「……マジで?」

「それに、ちょっともうわたしでも止められないかなあ。この学校、お祭り騒ぎには目がないから」


 ハナ姉の言う通りだった。

 周囲は止めるどころか、むしろ盛り上がり始めている。

 無責任な歓声が連鎖し、誰もが期待を込めて目を輝かせていた。

 能天気にも程があるが、これが校風、この学園の気風なのだろう。

 でも、ちょっと待ってくれ。

 バスケでまことに勝てる人間なんて、同世代じゃそういない。恐らく1on1タイマンでの戦いになるんだろうけど、今じゃ俺だってまことには全く敵わないのだ。

 そう、まことはパワーとテクニックを併せ持つフィジカルモンスター。恵まれた体格もあって、中学じゃ敵なしだった。

 けど、沙恋先輩は全く臆した様子を見せなかった。


「じゃあ、まことクン。1対1で5点先取、いいかな?」

「構わない。さっさと始めよう」

「まあ、そう慌てないで。フフ、いいね……真剣なキミの表情、素敵だよ」

「茶化すな、そっちからこないなら……こっちから行くぞっ!」


 初手から全力全開で、まことが牙をいた。

 半歩下がった沙恋先輩も、やれやれと苦笑しつつドリブルにボールを踊らせる。

 集まった生徒たちが、まるで津波のようにワッ! と沸き立った。

 なし崩し的なプレイボールで、二人はキュッキュとセンターラインを歌わせた。

 こうして見ると、両手を上げてプレッシャーをかけるまことは、壁だ。腰を落とした沙恋先輩に、絶壁のように立ちはだかる。

 けど、妙な余裕を漂わせて沙恋先輩は笑っていた。


「ふむふむ、キミが勝ったら……なんだっけかな?」

「あたしが勝ったら、もう二度と英斗とハナ姉に近付くな。二人は恋人同士、ラブラブなんだぞ」

「キミはそれで、いいのかい?」

「どうしてあたしの話になる」

「おや、密かな恋心とかを抱いたりしてないのかい?」


 いやいや、沙恋先輩……そいつに言葉で動揺を誘っても無駄ですよ。

 それに、俺もどうかと常に思っているが、まことの奴は少し距離感がバグってる。小さい頃からずっと一緒に育ったせいか、全く俺のことを異性として見ていない。

 一緒に風呂に入って、一緒に昼寝した十年前のままのまことなんだな。

 それがまた困るが、不思議と落ち着く。

 なんだろう、俺も親友としか見れていない。

 そして、友のために今、まことは戦ってくれてるのだ。


「さあ来い、狭宮沙恋、先輩っ! お邪魔虫はやっつけちゃうんだぞ!」

「いやあ、嫌われたものだねえ。さて、それで一つ確認なのだけど」


 まことの手が輪郭をにじませひるがえる。

 電光石火のスティールが決まった。

 かに、見えた。

 かき乱された空気が、周囲をどよめかせる。

 沙恋先輩は、軽くふわりと背後に跳んでいた。その両手が、ボールをゆっくりと放る。

 当たり前だが、パスを受け取る人間なんて存在しない。

 そして、それはパスではなかった。


「まことクン。ボクが勝ったら……なにかもらえるのかな? キミとのデートとか」

「なっ……真面目にやれっ! あたしは本気なんだぞ!」

「いやだから、ボクは大真面目さ。キミの勝利にだけご褒美があるのは、不公平だろう?」


 信じられないことが起こった。

 まことは、背後でゴールのリングが小さく鳴る音に振り向く。

 誰もが唖然あぜんとして静まり返る中で、沙恋先輩の3ポイントシュートが決まった瞬間だった。

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