足元の穴/千矢 彩乃

R&W

第1話

 高いところが好きだ。バカと何とかは、と言うがその通りだと思う。遥か遠くに見える地上を見下ろすと足が竦む感じがたまらない。

 山の頂上や海を見下ろす断崖もなかなかに心を満たしてくれるが、外より室内が好きだ。だからタワーに登ったり、夜景の綺麗な展望レストランで定期的に食事をする習慣がある。恐ろしく危険な場所にいるというのに意にも介せず、のうのうと写真を撮ったり食事をするという平和ぼけした人々の行動に深い安堵感と、それを当然とするような野生をすっかり忘れてしまった文明の結果を堪能しているという贅沢を感じるのだ。高所好きがいつ始まったかは思い出せない。少なくとも大人になってからなのは確かだ。

 東京タワー、スカイツリーはもちろん、旅行や出張先では必ず塔に登る。五稜郭タワー、横浜のマリンタワー、名古屋テレビ塔、通天閣等、日本の主な展望台は登り尽くしたと思う。シカゴのウィリス・タワー、台湾の台北一○一は素晴らしかった。そしてこの間は、暫定世界一位の高さを誇るドバイのブルジュハリファに登ってきた。ドバイは華やかな印象の反面、上空から見るとまだまだ開発途中の土地ばかりで景色としてはあまり面白みも無かったが、高い場所で記念撮影をしたというその事実だけで満足だった。


 結婚をして五年。私はようやく予てからのささやかな夢、マンションの部屋を購入した。

 地上三十九階。最上階層のフロアはさすがに手が出なかったのだが、四十五階建の三十九階だ。充分に高いと言えるだろう。妻は、同じ金額ならば郊外に一戸建てを購入したい、その方が広くのびのびと暮らせると主張したが、私も譲れなかった。この景色を手に入れるために働いてきたようなものだ。ローンを組むのは私なのだから、決定権は私にあるのだ。そんな横暴な意見は表に出さず、マンションについているラウンジ、カフェ、スポーツジムにエステサロン。コンシェルジュのサービス。更に一階に入っているコンビニエンスストアに、敷地内公園。セキュリティの堅牢さなどを理由に説得を続け、妻を納得させた。住み始めて一、二ヶ月は地上に未練を残してきたかのようにブツブツと文句を言っていた妻も、マンション内に同じ位の年齢の子供を持つ知り合いが出来始め、またその付き合いの中で一番上の階に住んでいるといったことで優越感を覚えたのか、最近はとても機嫌が良い。人は何を言おうとも高さの中に住む限りは高さに逆らえない。高さは優越感を生むのだ。


 実家は一軒家だった。小高い丘の下に位置する我が家は、いつも丘の上の住宅街から見下ろされているような窮屈さを感じていた。ただ、だから高いところに行こう、とまではこの頃はまだ考えていなかった。

 大学に進学し、たまたま安かったアパートの二階を借りた。通りから逸れて細い階段を登った先にある、ボロボロの物件だった。しかし、周りより少し高い場所にあるその部屋から見る景色はとても気持ちよく、毎朝私をワクワクさせてくれた。

 ある夏のことだ。ゼミ室での飲み会帰り、限界まで酔っ払った深夜だった。等間隔でチカチカと光る電灯から電灯へと、覚束ない足元を引き摺り部屋へと戻ろうとする最中、急に目の前に暗闇が広がった。何事かと驚いたがなんてことは無い、私の目前に立つ電灯が切れたようだった。次の電灯までは数メートルの距離がある。光が届かない暗闇は黒く染まり、先の方にある光の中で飛んでいる虫たちがキラキラと光って見えた。その輝く空間に向けて一歩を踏み出そうとした次の瞬間、ふと下を見てギョッとして固まってしまった。

 足元にあるのは、真っ黒な穴だった。目の前の暗闇を凝縮して尚足りないような黒さが、まあるく道に広がっているのだった。そろりと足を戻し、じっと穴を見つめてみた。ぽっかりと空いたそれに奥行きは無く、穴と呼んでいいのかすらわからない。黒い色以外、何も見えなかった。

 直感的に感じた。この穴に吸い込まれたら最後、行く先はここではない世界だ。その世界は素晴らしいものなのか、恐ろしいものなのか、それはわからない。

 天国かもしれないし、煉獄かも、はたまた地獄かもしれない。少し前に比較神話論の授業で聞いた知識をてきとうに頭の中に並べてみたが、何となくしっくり来ない。一体この穴は何なのだろうか。

 じっと穴を見つめていると、ぬるい雨が降ってきた。周囲の電灯の光を僅かに反射しながら落下する雨粒は穴の闇に触れると、そのまま光ごとスッと吸い込まれるように消えていく。その様子を見ているうちに私は恐ろしくなり、その場を立ち去ろうとした。しかし、足が竦んでしまって動かない。穴の暗闇からは目が離せない。そうしているうちに、穴が視界いっぱいに拡がってきて目の前全てが真っ暗になった。声を出そうとしても喉が動かない、息も苦しい。うわんうわん、と耳鳴りが響き渡り平衡感覚が無くなり、頭上に感じていた雨粒の感覚が消えた。


 気がつくと私はアパートの部屋の真ん中に寝っ転がっていた。畳の上に置いた時計を見ると、午前五時を過ぎたところだ。雨は強くなっているようで、窓ガラスからはバラバラと米粒を叩きつけるような音が響いていた。あれはなんだったのだろう。ぼんやりと考えながらゴロゴロと過ごすうち、夜が明けてきた。

 その日の夕方、五階にある教室へと向かう途中に、ふと窓から外を見た。大学の敷地内の大通りを歩く学生たちが小さく見え、ここはそれなりに高い場所なのだと感じた。それと同時に、あの穴を見たときの不安になるような、ドキドキするような感覚が蘇った。それは改めて感じると、今まで体験したどんな感覚よりも刺激的で、脳みそに冷たい針を何本も刺されるかのような不安を伴っていた。不安という刺激は何よりも強い。もっとこの感覚を味わいたい。あの意味のわからない恐怖をまた体験したい。そんな欲求を自覚した私はそれからというもの、暇さえあれば高いビルに上って窓から外を見下ろすようになっていた。


 足元から天井まで、壁の代わりに一面を占める大きなガラス窓から景色を眺めているうちに、過去の出来事を思い出した。土曜日、子供を連れて出掛けた妻を見送った後に一人、自宅となったマンションのリビングをゆっくりと歩き回っていたときだった。

 そうだ、あのときから私は高い場所を求めるようになったのだった。正確には高い場所そのものが好きなのではなく、足元に広がる世界が広ければ広いほど、その恐ろしさを味わえる、あのときに似た感覚を欲していたのだ。高さに目が眩んで動機を忘れていた、そんな間抜けな自分に気がつき私は苦笑した。

 改めて地上三十九階から足元を見下ろす。人も、道も、車も建物もミニチュアのようだ。あの日見た穴に比べると恐ろしさは劣るが、縮尺が変わるほど地上からの距離がある場所に、ガラス一枚を隔てて私は立っている。その事実だけでも充分に恐怖は煽られ、私の欲求は満たされていくのだった。マンションのエントランスの前を見ると、そこに黒い点があるように見えた。マンホールだろうか。いや、大理石で出来た通路であるあの場所にそんなものは無かったはずだ。

 黒くて丸いそれをじっくりと目を凝らしてみると、あの夜に私が出会った穴によく似たものに見えた。そう思った瞬間、私は足元から頭の先までゾワゾワと静電気が走ったような感覚を覚え興奮に包まれた。

 またあれを見ることができた、またあの恐怖に出会うことができた。私は必死で窓を開けようとしたが、作りの関係なのだろうか、窓はどこからも開かないように出来ていたし、頑丈すぎて割れる気もしない。あれはいつまであるかわからない。私は窓ガラスに頭をガンガンとぶつけながら焦りを感じていた。そのまま玄関を飛び出し、丁度上の階に止まっていたエレベーターに乗り込み、エントランスを目指した。

 カウンター前をバタバタ通過していく私をコンシェルジュが訝しげな目で見ているが気にする余裕は無い。一刻も早く、あの穴を見なければ。次はいつ見れるのかわからないのだ。外に出ると私はすぐに先ほど見ていた場所へと駆け寄った。その場所には、手のひらほどの黒い穴があった。先ほどはもっと大きさがあったように見えたが、こうして徐々に閉じていくものなのだろうか。興奮のあまり上がってしまった息を整えるように、私はその穴の横にしゃがみ込み、真っ黒な部分を覗き込んだ。やはり何も見えない。

 意を決して、そっと指先で穴に触れてみた。指の背には風と日光が当たっているのに、指の腹に感じるのは熱くも冷たくも無い、何も無い感覚だ。そのままずぶ、と手を穴に差し入れる。自分の腕、手の重さを感じない。腕の途中から消えてしまったかのようだ。このまま体ごと穴に吸い込まれたいのだが、いかんせん穴はもう小さい。どうすればいいものかとそのままの姿勢で思案していると、穴が縮まってきたのか、私の腕より細くなってきた。そのまま私の腕を抱え込んだ穴は収縮を続け、そして腕ごと消えてしまった。

 私はぼんやりとその場に屈み、腕の先にあった空間を見つめていた。腕は肘の少し先、穴に入れた部分から消えていた。ふと、腕の断面を見てみると、真っ黒だった。あった、あの黒い穴は私の中にあったのだ。断面を眺めるうちに心が満たされてきたような気分になり、それと同時に視界に断面が広がり、目の前が真っ黒になった。あのときと同じ耳鳴りと共に私は意識を失った。


 気がつくと、私はマンションのリビングで倒れていた。窓に皮脂がべったりとついているのは、私がこすりつけるように頭をぶつけていたせいだろう。ゆっくりと床に手をついて立ち上がる。腕はついていた。少しの失望感と安堵感に包まれながら、私はフラフラと窓際へと向かい外を眺めた。相変わらず街はミニチュアだ。あの黒い穴はどこにも無い。つけっぱなしのテレビからは、完成したら世界一の高さの展望台になるという上海タワーの話題が流れてくる。オープンしたらすぐに行かなくては。

 あの穴はこの先、私の前に再び現れてくれるのだろうか。それまではまた高所で私の欲求を満たすより他は無い。どこまで上に行っても、私はあの穴に、暗闇に怯え続け、また怯えるその感覚を甘美なものと感じるのだろう。

 人生の楽しみを追い求めることができる。あの暗闇に飲み込まれる妄想でいつでも怯えることができる。

 そんな私の人生は、表向きはどうであれ、きっと世界一、幸せだ。

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