第13話「硝子の靴」



 葵が取り乱したのも、ほんの一瞬の出来事。

 毎日鏡で己の顔を見ているのだ、冷静になれば目の前の人物が誰か判別できると言うものだ。

 何より、真衣がそういう事に長けているのは事前に承知しており。


「まったく驚いたぞ真衣……しかし、ふむ、奇妙な感覚だ。まるで本当にアタシがもう一人いるみたいなのに、よくよく見れば真衣でしかないとは……」


「いやー、驚かせちゃってすみません。てへへへ」


「それに対しての謝罪は不要だ、アタシが気になるのはだな――」


 葵はすっと目を細めた、そして真衣に顔を近づけると。

 首筋や胸などを、くんくんと匂いを嗅いだ。


「あ、あの、葵先輩? 香水かけ過ぎたっすか?」


「……いやすまない、その姿でセックスしていたらどうしようかと思ってな」


「あはは……あはははははーー、やだなぁ、まさかそんなコトぉ」


「うむ、まさか兄さんの恋人がなぁ。アタシのコスプレしてセックスしようだなんて、どっちが言い出したにしろ考えたくもないからな……!!」


 腕を組み、ギロと睨む葵の姿はなまじ美人なだけあって迫力があり。

 加えて、図星でしかない真衣としては思わず顔を背けてしまった。

 当然、それを葵が見逃す筈がなく。


「ほう? なぜ顔を見せてくれないのだ未来の義妹よ、姉として悲しいぞ?」


「葵義姉さんが美しすぎて直視できないだけっすよ~~」


「真衣も美しい顔だちではないか、アタシを写し取ったようにそっくりなメイク技術と、その使用用途まで教えて欲しいものだ」


「――残念ながら、メイク技術は言えないな“アタシ” でも……何故、という問いには答えよう」


 瞬間、真衣はその雰囲気をガラリと変えた。

 開き直ったとも言える。


(ここはもうっ、勢いで言いくるめて味方にするっすよ!!)


(うわ凄……、じゃないっ。これが真衣の本気か? 女優になれるんじゃないかコイツ? これでは幾ら親しくても間違えてしまうんじゃないか??)


 葵はごくりと唾を飲み込んだ、目の前にいるのは先程まで確かに真衣だった筈なのに。

 しかし、今は違う人物に錯覚した。

 自分という存在に会えるのならば、こんな感じだろうとすら思う。


「感謝して欲しいものだな“アタシ”、兄さんは優しいがストレスや恨み辛みを感じていない訳ではないのだぞ?」


「――ほう、耳が痛いな。だがそれとアタシや海恋のフリをする理由に、何の関係があるのだ」


「では言わせて貰おう……、大切な幼馴染を寝取ったレズと、寝取られた幼馴染、そんな二人が側にいて――復讐を企まない男が何処にいるっ!!」


「っ!? そ、それは……!!」


 当然だろうと出された言葉に、葵は口籠った。

 その可能性は葵だって考えたし、海恋に相談までした。

 だが最愛の彼女は否定し、また秋仁も同居早々に外泊するという配慮を見せてくれて。


(お、落ち着けアタシっ。惑わされるんじゃないっ。第一、アタシと兄さんは家族になる努力をするって、それに兄さんが義母さんを悲しませる事をする訳がない!!)


 だが、秋仁とて男なのだ。

 そう思ってしまえば、真衣の言葉は真実味を帯びてしまって。

 しかし、ここで納得する訳にはいかない。


「……悪いが信じられないな、兄さんはそんな下衆な男ではない」


「そう言い切れる根拠は何だ? 出逢ったばかりな上に、被害者と加害者だろう“アタシ”達は」


「そうだな、家族としても未熟で、信頼関係も積み上がっていない。でも……アタシは海恋を信じてるんだ、だから海恋の信じる兄さんを信じている」


「…………」


「今度はこちらから問う。――真衣がそうして兄さんに抱かれる本当の理由とは何だ?」


 射抜くような真っ直ぐな視線に、真衣は一度だけ目を伏せた。

 ここで嘘をつき誤魔化すのは容易い、けれどそれは自分自身に嘘をつく気がして。


(でも、全てを話すなんてしたくない。なら私が今、葵先輩に言えるコトは――)


 ただ一つ、真衣の中で嘘偽りなど一欠片もない真実。

 葵は恋敵ではない、そして海恋さえもそうだ。

 ――そもそも、戦わなかった真衣にとって。


「ありがとうございます、葵先輩……。私はとっても感謝してるんです」


「………は? か、感謝??」


「はい、私にとって葵先輩は恩人なんです」


「ま、まさかそれは――」


 葵はよろめきそうになった、彼女の穏やかな笑顔が酷く異質な何かに見える。

 確かに心から微笑んでいる、そう思えるが。


「……説明してくれ、お前の感謝は不可解すぎる。まさか、海恋を寝取ってくれて嬉しいとでも言うのか?」


「はい」


「何故だっ!! 確かにお前は海恋と兄さんが別れたから今ここに居る、それはお前にとって喜ぶべき事だろう、だが……アタシが言える事じゃないが、兄さんは傷ついたんだぞ? お前なら同時に怒るべき所じゃないのか?」


 真衣がどのような人物か、葵は海恋に聞いていた。

 彼女が秋仁のストーカーである事を、しかし、仲に割って入ろうとしなかった奇妙な人物だと。

 そして、家出した兄が彼女の事で悩んでいる事も知っている。


「何で……そんな顔で感謝するっ!!」


「確かに、葵先輩には感謝と同時に恨むべきかもしれません。――ええ、ふふっ、嗚呼……でも何故、恨むことが出来るんでしょうか」


「真衣……?」


 笑顔が変わった、葵が理解したくない感情を携えたそれに。

 後ろ暗い快楽を持ち合わせた様に、醜く口元は歪み、瞳は怪しげに輝いて。


「嗚呼、ありがとう……ありがとうございます葵先輩、貴方が海恋先輩を寝取ってくれたお陰で、ただの失恋より酷いコトをしてくれたお陰で――私は、秋仁の心に入り込めるんですっ、傷ついた心を渡ってという新しい傷で上書きしてっ、一生消える事のない想い出をっ、嗚呼、私は秋仁に身も心も尊厳すら捧げる事ができるっ!!」


「バカなっ、狂ってる……!」


「ありがとう、ありがとう、ありがとうっ。秋仁に傷を作った貴方が妹で、だからもっと傷が増えた私が秋仁に貪られる数が増えるんです!!」


「お前は――っ」


 海恋が危険だと言っていた意味が理解できた、兄が思い悩む理由を知った。

 絡め取られているのだ、この危険な女郎蜘蛛に。

 

(ど、どうすれば、だが――)


 ごくりと葵の喉が動いた、真衣は危険な女だ、兄が幸せになれるとは到底思えない。

 だが、兄は負い目がある、身勝手だが幸せになって欲しい。

 それに……。


(なんで、なんで泣きそうになってるんだ)


 狂愛に突き動かされている真衣は、しかして触れれば壊れてしまうような脆い硝子細工のようで。


(何か見落としてる、いや違う……知らないんだ)


 彼女の存在は、一方的にだが前から知っていた。

 同学年の男子が、可愛い新入生がいると騒いでいた事を覚えている。

 講義で一緒になる事も多かった、今思えばそれも当たり前であったが。


(氷姫、そんな渾名すらあった。どうして忘れてたんだ)


 いつも無表情で、声をかける男共を冷たく追い払い。

 誰も寄せ付けぬ孤高の美少女、笑顔を見た者など噂にすら登らず。

 だがこの家で見る彼女は、ころころと表情を変え、人懐っこい笑顔を浮かべる人物で。


(――それが何を意味してる? まさか演じているのか? 兄さんの好みの性格を? いったい何時から、海恋は知っていたのかこの事を!?)


 狂愛などと呼んでいいのか、狂気そのものではないのか。

 どこまでも秋仁の為に在ろうとする執着が、葵にはとても恐ろしくて。

 同時に。


「不器用だな、お前は。……いや、アタシもか」


「葵、先輩?」


 真衣は葵に抱き締められた、それはとても優しく。

 けれど不可解なのは、哀れみが感じられて。


「アタシの所為……は自惚れすぎだな。でも――」


「せ、先輩? ちっと苦しいっすよ?」


「ああ、すまない。うむ、アタシはお前の恋を協力する。兄さんを幸せに……違うな、兄さんと一緒に幸せになってくれ」


「っ!? そ、それって……」


「うむ、バックアップは任せろ。――ふむ、そういえば何故にその格好で部屋から出てきたんだ? 兄さんに追い出されでもしたか?」


「あ、いやそれは」


「そうだ! よし、一緒に行って驚かせようではないか。どっちが本物かと問いかけるのも面白そうだ。では行くぞっ!」


「ふぇっ!? ちょ、ちょっと葵先輩――!? 待ってそれなら作戦があるっす~~!!」


 そうして十分後、真衣は再び秋仁の部屋に戻る事になったのだった。


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