第2話

 翌日俺は目が覚めると朝食と昼食用のカレーを作り置きする。圭に会うためだ。昨日喫茶店から帰ると俺は圭に連絡をした。スマートフォンの笙野圭という文字を見て躊躇したが、勇気を振り絞って連絡を取ると圭は明日なら空いていると返してきた。返事をするのにまた戸惑ったが、自分から話がしたいと切り出したのでもう後には引けない。

「秀、腹が空いたらカレー温めて食べな」

「わかった」

 きっと秀は食べないだろうと思ったが声はかけておいた。鍵は持ったか心配になってジャケットのポケットに手を当てたり、朝食のあと片付けは済んだか台所をうろうろしているうちに俺は逃げているなと感じたのでひとりでため息をついてアパートを出た。自分が情けない。

 昨日とは逆方面の電車に乗った。都心ではあるが都心から少し離れた住宅街に圭は済んでいる。電車が駅に着くたびに俺はそわそわしてスマートフォンを何度も見たり、あと何駅か数えたりしていた。目的の駅に着く頃にはすっかりくたびれていて、駅まで迎えに来た圭に笑われた。

「ひどい顔をしているね」

 圭は薄いピンクのシャツとチノパンを履いていて綺麗な格好をしていた。一重の目の奥には優しい雰囲気を感じ取れる。

 「ああ」とも「うん」ともつかない曖昧な返事をしていたら圭がコーヒーショップでコーヒーを買って公園で話そうと言ってきたので、ふたりでコーヒーショップに入り、深入りのグアテマラ産の豆を使ったコーヒーを片手に公園へ移動した。

「せっかく晴れたんだから外に出たほうが気持ちがいい」

 大きな公園で芝生と遊具の近くは親子連れでいっぱいだ。まだ緑の残る木々の間を俺と圭はゆっくり歩いた。公園の少し外れたベンチが空いていたのでそこに腰をかけた。向かい側のベンチには老夫婦が座っており、おじいさんが写生しているのをおばあさんがのんびり眺めている。

 なにか言わないと。なにかではなく話さなければいけないことを言わなければ。そう思えば思うほど俺は話を切り出せなくなる。「あっ」圭は小さく声を上げるとベンチから立ち上がった。木々の隙間を分け入り大きな枝に引っかかったフリスビーを手に取ると心配そうに見上げる男の子に手渡した。男の子は直角におじぎをして足元を飛び跳ねるコーギーを撫でまわした。

「よく気付いたな」

 戻ってきた圭に俺は言った。

「目はいいの。知ってるでしょ」

 そう言って微笑む圭を見て俺は焦ってなにかを言う必要はないと思い気が楽になった。ひとくちコーヒーを飲むとそのおいしさに思わず「うまい」と言葉がこぼれた。圭はそんな俺を見てまた微笑んだ。コーヒーの温かさのせいか緊張がほぐれたからなのか自然と俺も微笑み返す。俺たちは自然と目が合う。

「俺は圭と付き合っていたときの話をしたい。聞きたくなかったら──」

「聞きたくなかったらここにはいないよ」

 圭の声のトーンは落ち着いていてしっかりしていた。直截的に語れない自分の弱さを俺は恥ずかしく思った。

「そうか」

「そういう話をしたいから連絡したんだよね」

「勝手かな」

「勝手かもしれないけど秀には必要なことなんだと思う。だから聞く。きっと僕にも必要なことだとも思うし」

 風が吹く木々がざわめく。俺は間を置いて話しはじめる。

「圭と付き合っていたとき俺はずっと圭とは一緒に暮らすことになると思っていた。でもあのときの俺たちはめちゃくちゃだった」

「そうだね。昼はメールで夜は口でケンカし合っていた」

「でも……」

「ときどきすごくうまくいってたね……向かいのベンチに座っているおじいさんとおばあさんみたいに僕たちはすごく穏やかな時間を過ごしていた」

「一緒に暮らせばずっとそうなると思っていた。俺は距離が離れているからうまくいかないのだと思っていたけどそうじゃなかった。俺たちはただうまくいかなかっただけなんだ。それにはタイミングとか環境があったと思うけどとにかくだめだった」

「そう、だめだった」

「俺は圭が疲れていると思っていたしそれは俺のやり方がうまくないからだと思っていた。俺は……そのときは圭より自分が理性的だと思っていたし、周りがよく見えていると思い込んでいた。でもたぶんそうじゃなかったんだ」

「実際僕よりは冷静だったと思うよ。あのときは病気もひどかったし君にひどいことをたくさん言った……秀は僕より僕たちの環境について理解があったと思う。僕は精神的にもろかったし君にささえられていたのは事実だよ」

「そんなことは──」

「暴力も振るった」

「いや、でも……でもそんなことを話したいのではなくって、俺は……あの状況や諍いがあったとしても精いっぱいやったと思っていたし、それでだめならしかたがないことだと思っていた」

「うん」

「なあ、圭」

「うん」

「俺は傷ついていたんじゃないか? 俺は君との関係で、それを取り巻く状況に、とても疲れていて自分では気がつかないほどに傷ついていた気がする」

「それは……」

「そして圭も」

「そうだね……そうか、きっと僕も僕のことで傷つくあなたを……耐えかねて……」

「聞いてくれてありがとう、圭。俺はそれを知る必要があったんだ……泣くなよ……いや、泣いていいのか」

「秀は泣かないね……やっぱり強いのかな」

「……いや、俺は俺の涙を取り返す必要があるんだ」


 うちに帰ってくるともう夕方だった。夕陽が赤々と町を照らし、影の部分はますます濃くなっていた。ドアを開けアパートの部屋に入る。暗い。秀は相変わらず電気もつけずにソファに座ってつけっぱなしだったテレビを見つめている。俺は電気をつけカレーの鍋を確認する。やはり食べてはいないようだ。

「秀、ごはんにしようか。カレーでいいよな」

 俺と秀は食卓を囲んでカレーとサラダを食べる。サラダは市販のものを買ってきた。静かな食事。会話はない。食べ終わっていつもだったらお茶を淹れているタイミングで俺は話を切り出した。

「なあ、秀、ちょっと話があるんだ」

 秀はちょうどソファに戻ろうとしていたところだった。律儀にこちらまで戻ってきて俺の目の前に立つ。秀の瞳とひたいの傷が俺を見上げる。

「秀、そのひたいの傷跡痛むか?」

「痛くない」

「その傷は俺のものなんだ。返してくれないか。俺が背負うべき傷跡なんだ」

「わかった……ちょっとしゃがんで」

 俺は不思議に思いつつしゃがむ。秀が近づいてくる。その歩みが力強いものだと感じる瞬間に、秀は俺のひたいに思いっきり頭突きをした。鈍い音がして俺は膝から崩れ落ちる。脳の奥まで届くくらいの痛みに耐えかねて俺は嗚咽する。ほんとうに痛い。これ以上ないほど痛い。痛くて俺は目を開けることができない。痛くて涙があり得ないくらい流れる。心臓が大きな音を立てている。痛みはとまらないし涙はとめどなく流れる。

「さようなら」

 秀の声が聞こえる。俺はなんとかして目を開ける。秀は玄関のドアノブを回して出ていこうとしていた。なにか言わなくてはと思うが頭突きの衝撃がまったく収まらなくて、俺は涙を拭きながらひたいを押さえて秀が出ていくことを見送ることしかできない。ドアが閉まる瞬間わずかの隙間に振り返る秀のひたいの傷が消えていることを俺は知る。ばかみたいに痛くて立ち上がるのもやっとだ。痛がって泣いてばかりはいられない。俺はこれからも一日一日をたたかっていかなければならないのだから。

 俺は秀が二度と戻ってこないように生きていく。

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day by day 波止場 悠希 @grabit

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