day by day

波止場 悠希

第1話

 仕事を終えアパートに帰ってくると秀が部屋のソファの隅っこで膝を抱えて座っていてテレビを見ている。俺は着替えてシャワーを浴びて夕飯の準備をする。その間も秀はずっと姿勢を崩さない。今日はミートスパゲティとサラダを作った。

「秀、うまいか?」

「ふつう」

 食事が終わるとお茶を淹れ、秀はまたテレビに戻って俺も一緒にぼーっと眺める。停滞した時間。なにもない時間。ふと秀の顔を見る。無気力で表情というものがまるでわからない。ただ顔があるだけでそこには意志や感情を読み取ることはできない。しかし、目も耳も鼻も口も俺とうりふたつで、俺は秀が俺であることを理解する。

 秀がやってきたのはひと月前のことで、仕事が終わりアパートに帰ると秀はいた。はじめは驚いて警察を呼ぶか迷ったが、顔を見て俺はすぐに気がついた。こいつはまだ十代になりかけだったころの俺だと。警察を呼んでもどうにもならないだろうし、まさか昔の自分だからと言って実家に帰すわけにもいかず、しかたないので俺は秀と暮らしている。秀とはもちろん俺の下の名前だ。古川秀。ほかに呼び名なんてない。秀は俺なのだから。

 秀がなぜ俺のもとに現れたかは俺にはわからない。一度実家に帰ってなにか手がかりがないか探すために秀を連れていこうと思ったが、混乱を呼ぶだけな気がしたし、秀も乗りきではなかったのでやめた。その後一緒に暮らしていくうちに秀は実家に帰るのが嫌なのではなく、すべてにたいして厭世的であることに気がついた。秀はテレビを見るか食事をするか寝るかしかしない。そして、そのすべてを俺が禁止したとしても秀はおそらくなんとも思わないだろう。I would prefer not to とでも言いそうな秀に俺は少々怯えている。少年時代の俺はこんなに無気力だっただろうか。

 洗面台の鏡の前で俺と秀は歯を磨く。秀の背丈は俺の半分くらいで、鏡には胸から上がぎりぎり見えるくらいでまだ子どもであることがよくわかる。規則的に歯ブラシを動かす秀はどこか人間味がない。鏡に映った秀のひたいを見る。そこには大きな傷跡がある。まるで大熊の爪に削り取られたような一本筋の傷跡は見るからに痛々しい。俺はそんな傷を負ったことは一度もない。秀に傷跡について聞いてみても、まるでそんなものはなかったかのように「わからない」としか言わない。

 電気を消して布団に入る。眠れない。暗い闇に慣れてきて目が冴える。壁にかけた木時計の音がやけに気になる。秀はもう寝たのだろうか。秀の呼吸は静かすぎて起きていても寝ていても区別がつかない。時計の針が前に進む音がうるさい。俺たちはこのままふたりで暮らしていくのだろうか。


 雨つづきで六月ほどではないがじめじめとしていた。もう十月も半ばを過ぎ俺はこの雨にうんざりしていた。今日は休日で仕事からは解放されているが、アパートに引きこもっているのも嫌になってきた。秀がやってきてから休日はいつもアパートに引きこもってテレビを流している。秀が暮らすのに必要なものを買いに行ったりはしていたが、休日らしい休日は送っていない。秀は俺がいようがいまいが関係なくソファに座ってただテレビを眺めている。そのテレビだって俺が朝起きてニュースを見るためにつけているのをそのまま流しているだけだ。このままではいけないと思う。

 朝食の準備をしながら俺は秀に話しかけた。

「秀、どこかへ遊びにいかないか? テレビばかりではつまらないだろう」

「わかった」

「どこかいきたい場所はないか?」

「わからない」

「それならなにか欲しいものは? ショッピングにいくのはどうだ」

「わからない」

 突き放されたような「わからない」に俺は戸惑いを感じる。気まずそうに俺は「映画でもいくか」とつぶやく。秀がそれに対して「わかった」と返事をするので俺は余計に気まずい気持ちになる。

 俺はネットで近くの映画館でなにがやっているかを探す。映画を見ることになったが、どんな映画を見にいけばいいのかさっぱりわからない。秀は「なんでもいい」と言うがなんでもよくはないだろう。俺は子どもの頃なにが好きだったのか、アニメ映画は幼すぎるだろうか、しかし、今のアニメは大人も見ると聞くのでちょうどいいのかもしれない。しかし、大人に配慮されて見るアニメほどつまらないものはないだろう。アクション映画は無難だが、俺はアクション映画を特別好きになったことはない。ヒューマンドラマは好きかもしれないが、ヒューマンドラマを大々的にうたっているものはあまり好きではなかった記憶がある。映画ひとつ選ぶのも大変だ。俺はどうしたいのだろう。

結局俺はサスペンスとアクション要素がある海外の大作映画にした。無難な選択ではあるが、評判はよく監督も信頼できるベテランだったので悪くないと思う。

 外は小雨で明日にはやむらしい。明日にしてもよかったと思うが、もうチケットの予約も取ってしまった。服を着替えジャケットを羽織る。秀にも着替えてもらいキャップを被るように言うか少し迷い、本人が気にしていないのならいいのかもしれないと思ったので言わずにおいた。電車を乗り継ぎ都心へ向かう。人混みの電車のなかで俺は秀の手を握ろうか迷うが、秀は両手をパーカーのポケットのなかに突っ込んだまま器用に電車に揺れているので、俺の手は宙で浮かんだまま所在ない。電車から降り地上に上がると、やっと解放された気持ちになる。

 映画館に着くと家族連れがかなりいた。俺が普段いく映画館はミニシアターが多いので、客層の違いに驚いた。走り回る子ども、その手を引っぱる母親、ポップコーンをこぼさないように運ぶ父親……様々だった。俺は秀にオレンジジュースと自分用に炭酸水を買い、ポップコーンを買うか迷って秀に聞くと「どっちでもいい」というので小さいサイズをひとつ買った。時間になったのでチケットを見せ暗室へと向かう。暗くなり映画がはじまる。俺はこの瞬間が一番好きだ。秀はどうだろうかふと顔を見ようとするが暗闇に覆われてしまいわからなかった。


 店員がコーヒーとココアを運んでくる。客はそれなりにいるが騒がしくはなく居心地は悪くない。ビロード張りの椅子も座りやすい。やわらかで心地よいクラシックが流れていて、なにが流れているのかすぐに忘れてしまうが会話をするのには支障がなさそうだ。いつもひとりでいっている喫茶店はもっとしっかり音楽を聴かせてくれるが最小限の会話しか許されない。しかし、俺と秀のあいだには最小限の会話もない。

「あまり好みじゃなかったか」

「ふつう」

 映画の感想を聞いても暖簾に腕押しでまったく手ごたえがない。つまらなかったかと聞くとわからないと言われ、俺が映画を褒めても貶しても秀の口も瞳も動く気配がない。このあとどこかへいこうか、朝が遅かったから昼食はもう少しあとがいいか、そういった問いは意味をなさなかった。疲れてふと外を眺めると日が差してきて通行人が傘をたたんで歩いている。午後ははじまったばかりだというのに俺たちはあの日差しの下を歩ける気がしない。アパートに引きこもっているのとなにも変わらないことに俺はうんざりする。

「もう少し協力的になってもいいんじゃないか? これからふたりでやっていくしかないのだから、あまりに非協力的だと困る」

 つい口に出した言葉だったが、なるべく棘にならないように俺は言った。ひと月の鬱屈とした生活に耐えかねて出た言葉だった。

 秀はまじまじと俺を見つめこう言った。

「それが家族なの?」

 俺はその言葉を聞いた瞬間血の気が引いた。心臓が動く音が聞こえまわりの音が小さくなっていく。返事をしようと思うがなんといっていいのか言葉が出ない。窓から光が差し込み秀のひたいが照らされる。傷跡。それは過去の出来事の刻印で今俺の目の前に現れている。俺はゆっくりとなにかを理解する。

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