第5話 矢

「ベイル……」


 四魔天、氷結のベイルの妻であるエイラは渦巻く不安を心に押さえ込み、走っていた。

 アムネを抱っこしつつ、暗闇を一心不乱に進み続ける。


 光球がうっすらと空中にあるのが見えるが、遠くであることに加えて木々の葉が光を遮り、依然あたりは暗いままだ。


 先程、何度目かの巨大な魔力反応を感知した。氷系統の魔法——ベイルのものだ。

 定期的にエイラの元に飛来する膨大な魔法の余波。それはベイルがまだ命を賭して自分達のために戦っていることを示している。


 エイラが、アムネが持つ両耳の少し上から可愛らしく生えた、小さな黒いツノを優しく撫でた。そうすれば、アムネが気持ちよさそうに顔を緩める。

 これだけでエイラの心は軽くなり、活力が湧き上がってくる。


 人族の包囲網は、ベイルがエイラたちと逆方向に走ってくれたおかげで抜けられた。

 だが、常に行使し続けている探知魔法は三人の人族の位置を教えてくれていた。


 ——本命はベイルだろう。


 そのために多くの人族の兵を割いているはずだ。三人の人族は監視役か、それとも殺す機会を伺っているのか。

 どちらにしてもエイラとアムネはついで、念のために殺しておきたい程度。


 何としてでも逃げ切ってやる。エイラは覚悟の炎を燃やし、胸に抱きついているアムネを強く抱きしめる。


 再度人族の居場所を探知する。心臓が鼓動を激しく打ち、額からは汗が噴き出てくる。


 失敗は許されない。


 気づかれてはならない。隠密に、されど精巧に、寸分の狂いもないよう魔法を構築する。


 悲鳴がアムネに届かぬように、アムネの両耳を塞いだ。


 足と地面の接地面から土へと魔力を流し込み、あらかじめ組み立てていた魔法を発動する。


 正確に把握していた人族の位置、その潜伏者の足元の土へと干渉し鋭利な土槍を突出させる。


「——二人だけか」


 冷淡な声で語られる数字。

 三人のうち二人は、身体に土槍が貫通した感触が伝わってきた。しかし一人逃した。反応されたのだろう。剣か何かで弾かれた。


 だが何処かをえぐった。致命傷とまではいかずとも、もうエイラたちを追跡することは不可能なはずだ。


 何としてでもアムネだけは逃す。目的地は、四魔天の一人が辺境の魔族たちを連れて避難した場所だ。


 四魔天、隔絶のシェルミ・オルス。彼女のとこまで連れて行けばひとまず安心はできる。


 それにアムネには才能がある。四魔天の一人であるベイルの血を濃く受け継いだのだろう。


 魔族は元々魔法が得意な種族だが、アムネは年齢に対して大人のも劣らない魔力量を持ち、魔法に対しても興味津々だった。

 べイルを継ぎ、四魔天になるのではとまで言われていたのだ。


 大きくなれば魔族を率いるものの一人となる筈だ。魔族の存続のためにも、アムネだけは守り——


「ッ!?……ふぅーーー」


 ——左太ももに強い衝撃と共に焼けるような痛みが走る。アムネを抱えて走りながら左太ももを見ると、そこにはドス黒く、禍々しい一本の矢が肉を抉り、刺さっていた。



 ◆



「おかあ……さん?」


 おかあさんが急に体をビクッとさせた。何かあったのかな。わたしは不安になっておかあさんを呼んだ。


「だいじょうぶ、だいじょうぶよ、アムネ」


 おかあさんのいつもと同じ優しい声だ。頭をなでてくれる。顔は暗くて見えないけどきっとニッコリと笑っているはずだ。


 ——なんだか、走るスピードが遅くなった気がする。おかあさんが周りをキョロキョロと見ていた。


 やっぱり何か変で、おかしい、嫌な感じがする、怖い。おかあさん……きっと、大丈夫だよね……?



  ◆



 アムネを不安にさせるわけにはいかなかった。高密度の魔力は重さのない鎧となる。狙撃手は魔力防御が薄く、さらに逃走に支障が出る足へと正確に攻撃してきた。


 ——四人目、完全に予想外だ。探知魔法は魔力により居場所を探知する。狙撃者の卓越した魔力操作により、無意識に体外に放出しているはずの魔力を限界まで抑えたのだろう。


 そんな芸当できるのは魔族でも数少ない。魔力量が多くなればなるほど難易度が上がるため熟達した魔法士ほど出来ないなんてこともあるのだ。


 正確な居場所を把握できない。矢が飛んできた位置から予測するしかない。


 焼けるような痛みを堪えて走り続けることにより、相手は追いつくだけで精一杯のはず。

 まさか足を矢で射られても足を止めないとは思わなかっただろう。こちらはアムネの命を背負っているのだ。この程度で止まるわけにはいかない。


 狙撃から時間もそれほど経っていない。狙撃手の位置もおおよそ予測可能だ。


 ——なら防御はできる。


 三人の人族を撃退した時のように足と地面の接地面から魔力を流し込む。地面が大きく揺れ、隆起する。それは土の壁だ。エイラの走りについてくるように地面から土壁が生成されていく。


 進行方向以外の左右と背後に出現させたエイラの背を大きく上回る壁だ。矢を通さないように分厚い壁は狙撃手からの射線を切っている筈である。


 次に、エイラの前に進行方向以外の土壁をそこら中に出現させた。まるで迷路のようだが、狙撃手から見れば土壁でエイラの姿は視認できず、どの方向に逃げたのか分からない。探知魔法も壁により遮られる。


「はぁ、はぁ、はぁ……」


 魔力の消費量が半端ではない。左足の感覚は既にない。狙撃手から逃げ切る頃には魔力切れと怪我で身動きが取れなくなるだろう。


 だが、それでいいのだ。それしか道はないのだ。矢が左太ももに突き刺さったとき、エイラは瞬時に矢——いや、矢尻に塗られてあるだろう毒について解析した。


 結果は、不明。


 身体に有害であることはわかる。おそらく致死性の毒だろう。


 だが未知だった。恐らくこの毒に効く解毒魔法をエイラは知らない。そして瞬時に解毒魔法を開発するなどということは、エイラの知識と才能ではとても出来ない。


 矢で射られた時、瞬時に左太ももから矢を抜いておけばこんなことにはならなかったのかもしれない。

 だが、あの場面で減速し、矢を抜く余裕などなかった。アムネが射抜かれたらと思うと走り続けることしかできなかった。


 エイラに待ち受けているのは、死だ。


 目的地の場所はまだ先。人族の兵を避けなければならない都合上、どうしても遠回りの複雑な道筋を辿らなければならない。まだ十歳のアムネ一人ではとても行けないだろう。


 猶予はどれくらいあるのだろうか。ベイルはまだ生きているのだろうか。アムネはこれからどうなるのか。自分は本当に死ぬのだろうか。


 疑問が頭を埋め尽くす。アムネは幸せになるために生まれてきたはずなのに。全ての根本的原因は人族だ。人族さえいなければ幸せな日常が瓦解することなんてなかったのだ。


「アムネ……。お母さん、どうすればいいのかな……?」


「おかあさん?」


 アムネは、きょとんとした可愛らしい顔をこちらに向ける。思わず弱音を吐いてしまった。ダメだ。最後までしっかりしなければ。少しでも人族と距離を離すのだ。


「ッ!?」


 矢を射られても動かし続けた足を止め、抱っこしていたアムネを優しく、しかし急いで地面に下ろす。


「オェッ……ゴブゥバァ。——はぁ……はぁ……」


 四つん這いになりながら吐瀉物を地面に撒き散らす。


 気合いだけで動かしてきた左足がプツンと糸が切れたように動かない。体全体がだるく、目眩がひどい。吐き気が襲いかかり、油断すればまた胃の中身をぶち撒けてしまいそうだ。


 頭がぼーっとする。エイラは地面にぐったりと倒れた。左太ももからの鮮血が血溜まりを作っている。暖かい。


 意識が切り離されていく。眠い。寝てしまいたい。もう終わりにしたい。だが、アムネがいる。アムネ——最愛の一人娘を一人にさせまいという確固たる意志だけが、エイラをこの世に繋ぎ止めていた。








 

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