第3節(1/2)

 一刻近く山中を歩く間、田三郎は一度も迷うことはなかった。政綱はその痩せた背中を、感心して眺めていた。山には旅人や猟師、轆轤師ろくろしや炭焼きたちのつけた道があったが、田三郎はほとんどそれと交わらない隠れた道を、正確に辿って案内した。

「この辺りのはずです」

 田三郎が足を止めて言ったのは、山々がひっそりと作っていた盆地でのことだった。そこは森を抜けた先で、木はようやく疎らになっていた。目の前には、ひと筋の幅の広い川が流れている。物音に顔を上げた鹿の小さな群れが、茂みを踏み分けて逃げ去って行った。

 政綱は田三郎の少し前に出て、川面を睨みながら尋ねた。

「ここに来る間、おまえは妖が何かは知らないと言ったな? 年寄り連中もそうなのか?」

「よく知らないみたいでした。ただ、それは川神様の飼っているものだから、襲って来ることはないと言っていました」

「飼っている? なんにしても、絶対に穏やかだとは言いきれんぞ。さっき見た鹿も、虫の居所が悪ければ襲って来ることはある」

「鹿は畑を荒らすんだよ、知ってた? あと、兎とモグラも!」

 藤丸が、政綱の帯を引っ張りながらそう言った。

「イタチと猪も! でも食べるとおいしいよ。ねぇ、政綱殿、あの鹿を捕まえてよ!」

 と、弥竹丸。

一緒に歩く間、政綱は代わる代わる子どもたちを馬に乗せてやっていた。勿論、田三郎も鞍上の客になった。村には馬も牛もいないと聞いたからだった。柳丸は迷惑顔だったが、お蔭で子どもたちは政綱に懐いてくれた。

 田三郎が騒ぐふたりを、「静かにしろ」とたしなめてから言った。

「父は、こう言いました。〝詫び証文があるから、様子を見るだけなら何も起きない〟と。昔、神様と話しをつけて、受け取ったんだそうです」

 柳丸が足を踏み鳴らした。政綱が右手で握っていた差縄さしなわを手放すと、野分丸を鞍に乗せたまま、水を求めて川に向かって行った。

「詫び証文だと?」

「はい。なんでも、大昔に神様や王様たちが使っていた、とても奇妙な文字で書かれているそうです。奇妙と言っても、おれは読み書きができないから、いまの文字だって変なものにしか見えないけど」

「そうか――」

 振り向いた政綱は田三郎の背を撫で、雲景のほうを見て言った。

「よくわかった。おまえたちは、ここで雲景と待っていろ。おれが様子を探ってみよう」

 政綱が川に向かって歩き出すと、〈望月の君〉がそっと後からついて来た。柳丸が飽きもせず水を飲み、時々白い尻尾を振るのを見ながら、政綱は尋ねた。

「神代文字の詫び証文だとさ。御許おもとはどう思う?」

「かなり奇妙ね。第一、詫び証文なんて文書は、ほぼ例外なく人間の偽作よ。あなたも色々と見てきたでしょう? 神との約束をいつも一方的に反故にしてきた人が、その約束を文字に――しかも神の側に――書かせるなんて、滑稽もいいところじゃない」

「今度もそうだと思うか?」

 〈望月〉は小さく笑い、笑顔のまま冷たく言った。

「実物を見ないことには絶対とは言えないけれど、わたしは期待しないわ」

 政綱は小さく首を振った。大刀に触れ、柿色の柄巻についていた草の種を摘まんで捨てた。

紫緒しお――」

 それが〈望月の君〉の本当の名だ。政綱は、宝剣の入った赤地錦の包みを差し出した。

「そろそろ受け取ってくれないか? これでは刀が上手く使えない」

「そう? 片手の逆手持ちで、いとも容易く人の首を刎ねるあなたが?」

 棘のある言い方だった。むっとした政綱は、出した手を引っ込めようとした。

「冗談よ。でも、あなたの技を褒めたのは嘘じゃない。詫び言は、またの機会に聞かせてもらうわ」

 龍宮巫女は包みを受け取ろうとしたが、今度こそ人狗はそうさせなかった。

「いや、いま聞いてもらう。紫緒、御許は誤解している。あれは――」

「あなたがあの玉手箱を開けて以来、わたしを忘れていた六、七年の間に起きた、些細な出来事。あの土蜘蛛の歩き巫女は、あちこちにいるご友人のひとりなんでしょう? わかってるわ」

 ふたりが出会ったのは、七年ほど前。政綱は、死霊の群れを追って偶然見つけてしまった遠い世界――常世とこよの入口で、同じように迷い込んでいた〈望月の君〉に出会った。

 誰の邪魔も受けず、ふたりは神々の原郷で暮らし、そして別れた。それから数年の間、一度も関わることなく生きてきた。再会したのは、ほんの少し前のことだ。

「おれが悪いのか? おれたちが知った秘密を隠しておくために、あの神はおれの記憶を封じたんだ。常世からこの世に戻るには、箱を開けると約束するしかなかった。神との約束だぞ。人狗のおれが、それを破れると思うのか?」

「もっと賢い約束の仕方があったはずよ。違う? 現にあなたは、記憶を取り戻せるように条件をつけていたじゃない。なんでもっと賢く立ち回れなかったの? わたしたちは、それで何年も不意にしたのよ?」

 青い目を怒らせた〈望月〉の向こう側で、子どもたちが呆然と見つめ、雲景が頭を抱えているのが見える。飽くまで見えただけで、眼中にあるとは言えなかった。

「約束の相手は大洲主おおしまぬしだぞ。国津神々の大王だった神だ。おれや御許の師が、王と認めて敬服していた唯一の神だ。それを相手にして、一体おれに何ができたと言うんだ?」

「それは……それはわかってる。わかってはいるけれど、あなたのあれこれには腹が立つのよ! 仕方がないでしょう!」

 こんな理不尽な言い草があるだろうか。そう思った政綱は、何故か笑えてくるのを抑えきれなかった。

「だったら何故おれを探さなかった? おれに記憶はなくとも、御許にはあった。何年も待ったと言うのなら――」

「あの時、〝必ずまた会いに行く〟と言ったのは誰? あなたでしょう?」

「まあまあ、もうその辺にしておかないか」

 雲景が、ふたりの間に立って――うんざりした様子で――言った。

「子どもたちの前だぞ……。ええと、思うに、六年? 七年か? それというのは、異界育ちのふたりにとっても短くはないだろう。だが過ぎてしまった時間だ。過去に置いてきたものは、もう拾いには行けない。前を見て、これから進む先に落ちているものを拾う。そうやって生きるしかないんだ。若造が何をと思うかもしれないが、これでもわたしは没落官人だ。家職も所領も、一度は世間の信用までも失った――まぁ、それは未だにそうだが。そんな者の言葉であれば、それなりに聴く価値があると思うがね。どうだ?」

 雲景は胸の前で腕を組み、政綱と〈望月〉を交互に見た。

 〈望月〉は返事の代わりに、宝剣をひったくるように取った。政綱も今度はされるがままにしていた。

「……ここで待ってるわ」

 空いた左手をもてあまし、腰に手を当てた政綱は、ため息をつこうとしてやめた。下手なことをすれば、どんな意味に取られるかわからない。何故こんな気の遣い方をしなければならないのか。疑問はあるが、とにかくそうしたほうがいい。

 政綱は雲景をちらりと見て、黙って歩き出した。右手奥の川岸に生えた松が、三本もへし折れているのに目をつけていた。数歩そちらに進んだ政綱は、背中で〈望月〉の声を聞いた。

「気をつけて」

 足を止めた政綱は、振り向いて応えた。

「ああ。――紫緒」

「どうしたの?」

「悪かった」

 〈望月の君〉はわずかに口許を綻ばせ、首を横に振った。その笑顔が本心からのものだとは思えないが、政綱には何よりいい薬になった。

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