第1節(2/3)

 政綱が言うと、背後でばたばたと足音が響いた。真っ直ぐ背中に向かって来る足音がぶつかる寸前に、左足を引いて素早く体を開いた。視界の端に見えたのは、あの小憎らしい子どもだった。政綱はその襟首を掴むと、回転する勢いをそのままに放り投げた。

 甲高い悲鳴をあげた子どもは鞠のように宙を舞い、肩から地面に落ちた。鳳至山で天狗たちから鍛えられていた頃、政綱はこんな風によく放り投げられた。すぐに立ち上がって打ちかかり、また放り投げられたものだ。

 震え、這いつくばって道の端に逃げようとする子どもの姿を見て、政綱は硬い表情のまま鼻で嗤った。

「何をしてくれるのかと訊いている。耳が聞こえんのか?」

 言っている間にも、うしろから近づく――小刀を抜いた――気配には用心していた。酒の香りがする。相手が誰なのかは見ずともわかっていた。

「子どもに何をするんだい!」

 酒焼けしてどすの利いた声がうなじの辺りを打った直後、政綱はぐっと腰を落としながら右に避けた。目の端で見たのは、年増女の引き攣った横顔だった。つまずき、前のめりになった女は慌てて向きを変えようとしたが、政綱の平手打ちはそれよりも速かった。

 思いきり頬をぶたれた年増女は、棒切れのように倒されて家の壁に頭を叩きつけた。

「この野郎!」

 叫んだのが誰かなど、もう関係なかった。うしろを振り向いた政綱は、数打ち物の刀を抜いた雑多な男たちを、猛禽のような茶色い目玉で見据えた。

「言葉がわからんようだな、人の子。おまけに揃いも揃って目が悪いらしい。おれがなんなのか、見てもわからないんだろう」

 恰好ばかりの僧侶が、刀の切っ先を向けて怒鳴った。

「黙れ、人狗! 汚らわしい化け物め! なますにしてやる!」

「人狗という名は知っていても、その中身までは知らんか、腐れ坊主よ」

 男たちの持った刀が、陽を浴びてきらりと光った。抜き連ねられた白刃が押し寄せる。政綱は左腕を曲げて胸の前で構え、ひと呼吸置いて扇ぐようにさっと打ち振った。

 鈍痛を伴った耳鳴りが、一瞬の間だけ政綱を苦しめた。それと同時に巻き起こった突風が、襲いかかって来る男たちを容赦なく薙ぎ倒し、並んだ町屋の戸を、粗末な屋根板を、激しく打って吹き破った。

「――あまり騒がしくするなよ」

 姿を隠した野分丸が、政綱にだけそう言って寄越した。

 大昔に活躍した先達の人狗は、この〈風〉を戯れに〈毘藍婆風びらんばふう〉と呼んだ。大陸から伝わった浄教の言葉で、終末に吹き荒れる風の名だ。

 天狗を目の敵にしている――いまや日出国ひじこく独自のものとなった――浄教の言葉を自ら用いる諧謔かいぎゃく。絶対に天狗の〈風〉を超えられない人狗のそれを、終末の嵐に准える滑稽さ。大天狗の太郎坊は、そのひねくれた笑いをすっかり気に入ってしまい、鳳至山では〈毘藍婆風〉と呼ぶようになってしまった。

「化け物。人狗。おまえたちは、おれをそう呼んだな?」

 吹き飛ばされた連中は、気を失ったらしく起き上がろうとしない。死んではいないはずだ。政綱は、門前に立ちはだかったふたりに向き直った。

「大変けっこう。これからもそう呼べばいい。いまのでその呼び名の意味が――おまえたちが思っているよりも深刻な意味が――よくわかっただろう?」

 痩せた男は放心したように立ち尽くし、肥えた男は刀を握った手を震わせている。恐れにつけ込めば、容易く幻術にかけることができる。だが人狗の術は純粋に己の気力のみで操るため、多用すれば術者自身が危うい。

 政綱は、気力をすり減らすことなく使える呪術に――おそらく人間が最初に発見した呪術に頼った。

「もしわからないのならば、おれが刀を抜けばすぐにわかる」

 肥えた男の丸い顎から汗が滴った。痩せた男は薄い胸板を大きく上下させている。刀に左手を添えた政綱がゆっくり歩き出すと、武士風のふたりは後退った。言霊という古いまじないには、たしかに効き目があったようだ。

 ただ歩くだけの政綱がふたりを門の際まで押し込むと、奥のほうから、「早く通せ」という苛立った大声が聞こえた。

 ふたりはちらりと声のほうに目をやり、これ幸いとばかりに邸内へ逃げ込んだ。その後を追う形の政綱は刀の鯉口を切り、門の陰から身を晒した。

「よく来たな、鳳至山の政綱。いまは〈鳳至童子〉と呼んだほうがいいか?」

 声の主――〈小笹の蛟〉は、白と赤の片身変わりの派手な直垂を着て、縁側に胡坐をかいていた。四十絡みの眼光鋭い男で、バサラな身なりがそれなりに似合って見える。

「ほう、まだおれを憶えていたとはな。光栄なことだ」

 政綱は〈小笹の蛟〉のほうを向いたまま、ぼんやりと八方に気を配った。門扉の陰に待ち伏せはいない。庭にいるのは弓を携えた男が九人。縁に座った〈蛟〉の両脇に、袖をたくし上げた男が八人。それを数えながら庭の中央まで歩き、立ち止まった。

 〈蛟〉は、余裕を感じさせる表情で言った。

「おまえに斬られた五人のことは、七年経ったいまでも忘れたことがなかった。あの中にはな、政綱よ、おれの種違いの兄もいた。親父こそ違うが、悋気りんきの酷い母親のせいで、散々苦しめられた兄と弟だ。楽しくもない辛い過去をわかち合える、唯一の家族だった。どうしてそれを忘れられようか」

 不意に冷たい風が庭に吹き、植えられた桜の葉を揺らした。空には濃い灰色の雲が流れ込み始めている。政綱は顔色を変えることなく言った。

「気の毒なことだ」

「ああ。おまえとおれは、案外似ているのかもしれん。おまえが幼い日の傷を舐め合えるのは、山の兄弟だけだろう? しかもその誰ひとり血族ではないときている。おまえを見捨てた家族や親族は、まだどこかで生きているのか? いや、おまえの本当の齢を考えると、とっくに死に絶えただろうな。その連中のことは、恨んでいるだけではなかっただろう。おれにはわかる。まったく気の毒な男だ」

「気づかいには礼を言う。したが、そんな話をしに来たわけではない。もっと他に話し合うべきことがある」

 〈小笹の蛟〉は、政綱の目を睨みながら首を横に振った。政綱は片眉を上げて、その意味を問う代わりにした。

「政綱、似た者同士のおれたちだ、話し合うことなどないとわかっているだろう。そんな面倒は嫌いなはずだ」

「そうだな。面倒は避けよう――では答えをもらおうか」

「立ち去れ」

「それが答えか?」

「いかにも。あれを神に返す気はない」

 分厚く重々しい雲が、照っていた陽を覆い隠した。

〈蛟〉が薄暗い庭に向けて、手を軽く挙げてみせた。九人の男たちが一斉に弓を構え、政綱に狙いをつけた。

「失せろ、人狗。今度だけは見逃してやる」

国昌くにまさ――」

 政綱は、〈小笹の蛟〉の名を呼んだ。

「少しでもその気があるのなら、遠慮するな。おれは力ずくでも神宝を持って帰る」

「天狗に育てられると、そうまで慢心が酷くなるものか。自惚うぬぼれるのも大概にしろ。こうなっては、〈風〉も〈火〉も使えんだろう。その忌々しい左手を少しでも動かせば、おまえが死ぬことになるのは明白だ」

「ではやってみろ。死ぬのはおまえだ」

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