筆を折る日

「一人でも読んでくれる人がいればいい」なんて嘘だ。少なくとも僕にとって小説はコミュニケーションだった。だから、これは単に僕の声が届かなかったというそれだけの話。


 投稿サイトの退会はあっという間だった。手続きらしい手続きもなく僕のアカウントは消えた。もっとも、PV数もほとんど無かったのだから、初めからあってないようなものだった。それでも今の今まで退会できなかったのは、「ひょっとしたら」という未練の産物でしかない。いつか、誰かが気付いてくれる。通じ合える誰かと出会える。淡い期待を今日、捨てた。


 パソコンのデータを消去するのには勇気がいった。タイトルを見ると嫌でも執筆時のことを思い出した。あの書き出しは良かった、あの展開は良かったといちいち考えてしまう。僕は僕の小説が好きだった。僕が建前をかなぐり捨て、本音で語れる場所だった。しかし、反応がないということは誰かの心に響くこともなかったのだろう。つまらないから読まれない。当然反応のしようもない。僕は僕と僕の小説を過大評価していたのだ。だから、そんな独り善がりで傲慢な自分ごと捨ててしまおう。僕の言葉は届かなかった。それが事実だ。執筆に使っていたツールごと削除した。僕の声を、捨てた。


 小説を書き溜めた原稿用紙をゴミ袋に入れる。時に筆をおどらせて、時に苦心してようやく形にした作品の数々。読み返せば捨てられなくなる。ただ無心で作業に集中した。窓の外ではジワジワと蝉が鳴いている。たった七日間の叫びは誰かに届いているのだろうかとふと考える。原稿用紙を持った手が止まる。


 子供の頃を思い出した。皆で「花いちもんめ」をやっていた。僕は途中でトイレに行きたくなって、ほんの少しだけ抜けたんだ。帰ってきたら僕がいたことを誰も覚えていなかった。ずっと一緒に遊んでいたのに、誰も。僕がいないまま続く花いちもんめをただ黙って見ていた。あの時の胸に立ちこめた暗雲。忘れられる恐怖。まるで透明人間になった気分。見向きもされない小説はあれを思い出す。お前は存在しないと暗に言われている錯覚に陥る。かってうれしいはないちもんめ。一匁いちもんめにすらならない自分。それを振り切るように作業を再開する。膨らんだゴミ袋は明日捨てようと玄関に置いた。


 今まで作った本を捨てた。

 執筆に寄り添ってくれた万年筆を捨てた。


 メモも、ノートも、USBも、創作に関するあらゆるものを捨てた。狭い部屋の中に、空っぽになった僕だけが残った。


 夕方、冷蔵庫に入れておいた八朔を食べた。柑橘の、甘くてほろ苦い味を噛み締めて少しだけ泣いた。これで良かったのだと自分に言い聞かせ、アブサンの瓶を開けた。喪失の味は僕を慰めてくれやしなかったけれど。


 文月の終わり、僕は筆を折る。

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掌編の小箱 深川 夜 @yoru-f

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