第32話

 俯いて否定を口にするばかりで、詳しい話を一切しようとしない速水を、智輝は静かに見下ろした。

 不意に、隣に座っていた葵が手を伸ばす。その手が掴んだのは、テーブルに置かれていた紙ナプキンだった。


「なにを……?」

「これに付き合うのは時間の無駄みたいだからね」


 バッグから取り出したボールペンが、紙ナプキンの上を走った。瞬く間に複雑な文様と崩した文字のようなものが描かれる。


「お守りね。一週間くらいは効果が保つよ」

「え、紙ナプキンだぞ……?」


 葵がテーブルを滑らせたものを、智輝は困惑しながら見つめた。

 神社などで御札などのお守りはもらうことがあるが、紙ナプキンにボールペンでなにかを書いただけのものにどれほどの効果があるのか、非常に疑わしく思う。


「……これが?」


 視線を落とした速水も訝しげ呟いた。だが、その声には僅かに期待も籠められているように感じられる。

 藁にも縋るとは、こういうことなのかもしれない。


「肌身離さず持っていて。ただ、水場はやめた方がいい。紙だから。なるべく濡れないように」

「……わ、分かった」


 紙ナプキンに触れた瞬間、速水の目が大きく見開かれた。勢いよく周囲を見渡し、葵を凝視する。

 葵は変わらず冷たい眼差しだが、速水の表情の変化は劇的だった。血の気が引いていた頬に赤みが戻り、口には憎たらしい笑みが浮かぶ。


「ははっ、あんた、マジで霊能者なんだ? スゲーな。ついでに、一週間じゃなくて、問題解決までしろよ。まったく、なんで俺があいつを怖がらないといけねぇんだよ。あのクズ、死んでからも迷惑掛けやがって――」


 ガタガタと音を立てて速水が立ち上がる。その言葉を聞きたくなくて、智輝は引き留めずに離れていくのを見送った。


「――あの、コーヒー……」

「あ、俺が飲みます。こっちにください」


 遅れてやって来た戸惑い気味の店員からコーヒーを受け取る。コーヒー二杯ぐらい、この胸に残る苦々しさに比べれば、すぐにでも飲めるものだ。


「嫌な感じ……」

「葵さんに対処を押し付けたみたいになって悪かったな」


 コーヒーと一緒に来たクリームソーダにスプーンを突き刺しながら、葵が唇を尖らせる。それに謝りながら、智輝は席を移動しようとした。

 二人掛けのソファが向き合った席だったので、速水がいなくなるとバランスが悪いのだ。このままここで話すなら、隣り合って座ったままなのはどうにも落ち着かない。


「智輝、待って」

「なんだ? ……って、もしかしてこの席……」


 葵が智輝を追い越し、速水が座っていた席をお手拭きで拭う。ついでになにか呟いていたが、あまりに小さい声だったので聞き取れなかった。


「もういいよ。あれ、凄く思念をこびりつけていたから」

「……そういう感じだとは察してた」


 向かいに座り直した葵から、拭われた席に視線を落として、智輝は座るのを躊躇った。

 おそらく葵が思念とやらをきれいにしてくれたのだとは思うが、心理的な忌避感はいかんともしがたい。

 だが、葵の行動や立ち尽くす智輝に、店員から不審げな目が向けられているので、そろそろ諦めねばならないだろう。

 ため息をつきながら浅く腰掛ける。速水が座っていたところからずれて座ったのは仕方ない。


「これとかあれとか、名前も呼びたくないか?」

「呼びたくないね。僕、あれと縁を繋ぐ気はないから」


 一応咎めた智輝に、瞬時に返事が返ってくる。速水はいなくなったが、葵の機嫌は回復していないようで、冷たい口調だった。

 この機嫌をどう回復させようかと考えて苦笑する。警察官である智輝は、良識のない人種にある程度馴染みがあるから、葵ほど速水の態度や所業への不快感を引きずらない。


「……あ、ケーキあるぞ」

「……僕に甘い物与えればなんとでもなるとか思ってない?」

「まさか」

「嘘つき。……僕、子どもじゃないんだよ?」


 不服そうな顔をした葵が、それでも智輝が差し出したメニューに目を落とした。途端に目を輝かせるから、智輝は思わず吹き出してしまいそうになるのを、奥歯を噛んで堪えた。


「……見て! アップルパイ、アイス付き!」

「んん……ああ、そうだな、頼むか?」


 尋ねながら、智輝は店員を呼ぶために手を上げた。葵の表情で答えは言われずとも分かっていたからだ。

 近づいて来た店員にアップルパイを頼んで下がらせる。店員が十分離れたところで、ようやく本題に入った。


「――さっきのお守りって、なんなんだ?」

「気休め的な? あれは自分がいいように思い込むタイプだね。頭が悪いんだろう」

「随分直接的な悪口だ。気持ちは分からないでもない」


 多少機嫌が回復したように見える葵に同意すると、更に機嫌が良くなったようだ。葵はクリームをすくったスプーンを口に放り込み、再び紙ナプキンを手に取ってボールペンを走らせた。先ほどと同じ文様に見える。


「これは守護の文様。個人の感覚を制限し、霊や思念への感受性を下げるんだ。そうすると、霊は干渉するのが難しくなるからね」

「普通の人間も、霊や思念に感受性があるのか?」


 コーヒーを飲みながら、葵の解説に耳を傾けた。

 先程までの速水の悪意にまみれた声から解放されて、体からホッと力が抜ける。葵の声に空間自体が浄化されているような気がした。


「うん。普段霊を見ない人でも時に見ることがあるように、完全に霊感がゼロの人ってそういないんだよ。特定の場所がなんとなく嫌だなって感じたり、この人無理だなって感じたりすることあるでしょ? そういう判断に、無意識に霊感が使われていることは普通にある」

「へぇ……俺もあったかな」


 思い当たる節が全くない。

 首を傾げる智輝に、葵が目を細めた。手の甲で口元を覆っているので確認できないが、確実に笑っていると思う。


「そんなに面白いことを言ったか?」

「いや……自分で例を出してみたものの、智輝は霊感がゼロに近いから、経験なさそうだなって思って」

「……そうなのか。初めて知った」


 霊感がゼロ。そう言われたところでまるで実感はないが。なんとなくつまらない気がした。


「……霊への感受性が低くなると、干渉されにくくなるのか?」

「うん。霊や思念が生きている者に影響を与えるためには、その感受性を取っ掛かりにするからね」

「ふーん……」


 店員が近づいて来るのを見て会話を切った。

 テーブルに置かれたアップルパイから、シナモンとリンゴの甘い香りが漂う。

 つい数十分前にクレープを食べ、クリームソーダを飲みながらアップルパイを食べようとする葵は、甘党の極みだと思う。

 智輝が提案したことだが、匂いから逃れるようにコーヒーを口にした。ほどよい苦味と酸味が智輝にはあっている。


「――それで、速水のことだが、呪いは結局どうだった? いじめの被害者の霊が取り憑いていただけで、呪いは関係なしか?」

「うーん……どうやら呪いはあるみたいだね。そもそも、そのいじめの被害者の霊が憑いていることが、呪いの産物の可能性が高い」

「……ただ怨みの念で憑いているわけではない、と」


 思わず眉を顰めてしまった。

 いじめを苦にして亡くなっても、この世から解放されないというのは悲しい気がした。本人は復讐のためなら構わないと思っているのかもしれないが。

 その念を、怨む相手に害を為すためとはいえ、誰かに利用されているというのも気になる。


「普通の人では呪いが成り立たない可能性が高いんじゃなかったか?」

「うん……そうなんだけど……」


 葵が目を翳らせる。

 なにやら危惧を抱いているようだが、智輝には葵がなにを考えているか分からなかった。


「――とりあえず、智輝はいじめで亡くなった子のことを調べてみて。家族とか交友関係とかも含めて」

「ああ、それは構わないが……もしかして、その中に呪いの犯人がいると思っているのか?」


 これはただの勘だった。だが、葵が人間関係を強調したことを考えると、あながち間違っていないだろう。智輝も内心で同じことを考えていた。

 葵は目を瞑り、言葉に出さずに首肯する。どこか悲しげな仕草に見えた。

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