第24話 彼女のこの先
犯人は三日後に逮捕された。
犯行の目撃証言はあるにしても、確たる証拠を掴めなければ、逮捕状は請求できない。三日というのは、早いものだっただろう。
なにせ、紗世の証言と智輝の写真が示されるまで、犯人は容疑者の一人にも上がっていなかった人物なのだから。
「――まさか、高校時代の恨みからの犯行だとはなぁ。付き合っていた彼女をとられたからって、十年近く経ってから復讐するなよ。しかも、その彼女と被害者は既に別れていた上に、被疑者も彼女と連絡とってなかったらしいぞ? 意味が分からん。そこまで執着するなら、普通彼女と復縁しようとするだろ。どうせ、自分の自尊心が傷つけられた恨みなんだよ……」
智輝はぐったりとソファに身を預けながら天井を見上げた。その鼻先を芳香が擽る。
視線を移すと、コーヒーカップをローテーブルに載せた葵が苦笑を浮かべていた。
「警察が全くマークしてなかったのも納得だね。あまりに殺意の沸点が低すぎる。まあ、本人は、一生消せない汚点のように感じていたのかもしれないけどね」
「……そうだな。俺には、さっぱり理解できないが」
「智輝、彼女をとられた経験なさそうだものね」
「……葵さんだって、ないだろ」
「そうだね。幸いなことに」
葵は見るからにモテただろうし、女性に困ったことはなさそうだ。智輝も人並みに恋愛はしてきたが、それで大きなトラブルというのは味わったことがない。
「三日間の警護、お疲れさま」
乾杯するようにコーヒーカップを掲げて労う葵に、智輝は苦笑して身を起こした。
「……ああ、疲れた。でも、捜査一課よりは楽だったんだろうな」
葵宅に報告に来る前に立ち寄った警視庁で見た、刑事たちの悲惨な様子を思い出し、智輝は遠くに視線をやる。
犯人を捕まえるため、一刻も早く紗世たちの安全を確保するため、彼らは東奔西走して証拠集めを頑張っていたのだろう。
本村家で警護という名目の歓待を受けていた智輝は、静かに目を逸らしてそそくさと逃げてきた。
歓待といっても、公務員として適切な範囲しか受け取らないよう苦慮していたので、責めないでほしい。
「そうなんだ? 僕も智輝に付き合えたらよかったんだけど、編集くんがうるさくてね……」
「そこはちゃんと仕事しろ。編集くんが泣くぞ」
不満げに呟く葵を冷たく見ながら、智輝はコーヒーカップを手に取った。
警護初日は本村家に滞在した葵だが、編集からの執拗な電話に根負けし、二日目以降は顔を見せなかった。電話は何度もかかってきたが。
智輝はそれで当然だと思う。葵はあくまで協力者であり本業は小説家。警察官ではないのだ。万が一、犯人が襲撃してくることがあっても、市民の犠牲者が一人増えるだけである。
紗世は葵がいなくて寂しそうにしていたが、ぬいぐるみがあるからか落ち着いていて、問題はなかった。
「そういえば、今回の功績で、昇任におまけがつくかもしれないんだって?」
「……木宮課長に聞いたのか? おまけって言っても、試験の合格点がとれたら、ほぼ確実に昇任できるって程度だぞ。そもそも試験勉強しないと意味がない。……それに、俺の功績じゃない」
「犯人に目を付けて、写真に収めたのは智輝で間違いないでしょ」
葵が軽く言いきり、自分で用意していたクッキーを手に取る。
高そうな缶に入っていたのだが、誰かからもらったのだろうかと、智輝は首を傾げた。
日頃、葵の自宅でそういう菓子類を見ることはあまりない。本人は甘党のくせにだ。あればあるだけ食べてしまうんだ、と深刻そうに呟いていたことから、理由は分かりきっていたが。
「さっき、紗世ちゃんに会いに行ってきたんだよ」
「あ、それでクッキー……」
「うん、智輝は警護のお礼を断ったんだって? 公務員は大変だねぇ。というか、お礼のお菓子くらいはもらってもいいんじゃないの?」
「……まあ、グレーゾーンで、許容される部分もあるな」
「相変わらずお固いことで」
呆れた顔をした葵が、摘まんだクッキーを差し出してきた。口を閉ざす智輝に目を眇め、不思議と圧力を感じる笑みを見せる。
「お食べ?」
「……その強要、意味が分からない」
諦めた智輝の口に、クッキーが放り込まれた。バターの豊かな香りと甘みが口いっぱいに広がる。久しぶりに食べたが、エネルギーが体に満ちるような感じがした。
「――市民のために身を粉にして働くならば、その感謝の念も受け取らないと、身がもたないよ。第一、助けられた方の気持ちがおさまらないんだから」
いつの間にか目を閉じていた智輝の耳に、優しく気遣いに溢れた声が届く。その言葉をクッキーと一緒に噛みしめ、ホッと息をついた。
ようやく事件が終わったと実感が湧いたのだ。ぬいぐるみと出会ってから僅か数日のことだったが、気が張りつめた日々だったのは間違いない。
「……結局、ぬいぐるみの中の霊はどうしたんだ」
紗世に会いに行ったのならばそれが目的だろうと、葵を見据えた。
怪異現象対策課として、ぬいぐるみの怪に端を発した事態の結末は、しっかりと把握しなければならない。なにより、今後の紗世とぬいぐるみの関係がどうなるかが気になっていた。
智輝の考えが伝わったのか、葵が真剣な表情で口を開く。
「
「……そうか」
なんとも答えようがなく、智輝は頷いて報告書に書く内容を頭でまとめ始めた。
だが、葵の言葉はそれで終わりではなかったようだ。
「今はまだ、ね」
「今は?」
「うん、継続して観察することにした。幸い、紗世ちゃんは僕に懐いていて、本村夫妻も好意的だ。関係を継続するのに支障はない」
「それはそうだろうが……。霊が悪性に堕ちる場合に備えてってことか?」
「そうだね。多少手間だけど、あと二、三年のことだろうし」
「二、三年?」
意外な言葉に、智輝は今度こそ身を乗り出して葵を凝視した。
てっきり、もっと長い年月を観察期間にすると思っていたのだ。葵がなにを根拠にそれでいいと判断したのか分からなかった。
「紗世ちゃんの守護霊として彼女があるのは、紗世ちゃんが子どもだからだ。子どもの期間は、智輝が思っているより短いよ。子どもは驚くほどのスピードで成長する。彼女と紗世ちゃんが離れるのは、そう遠くない先だと思う」
「……それは寂しいな」
「紗世ちゃんにとっては、それが成長だよ。今はライナスの毛布であっても、ぬいぐるみはいずれ必要とされなくなる。それは中にいる霊も同じこと。紗世ちゃんが彼女にとって守護すべき弱さを捨て去れたときには、僕に伝えるようにと彼女には言った。彼女も、そのときには解放されて、天で我が子に再会したいと言っていたよ」
「……そうか」
それがどちらにとっても幸福なのかと、あまり納得できないまま頷いた。
「智輝は霊に対して半信半疑なくせに、思いを傾けがちだよね。疲れない?」
「……放っといてくれ」
面白がる葵から顔を背ける。
あまりに矛盾のある心のありようについては、智輝も自覚がある。それゆえ、突かれたくない部分だった。
「見えず、聞けず、感じ取れず。そういう人は、それでいいんだよ。知らなくていいものが、この世にはたくさんある。その感覚がないということは、智輝にとってそれは知らなくていいことなんだから、考え込むのもほどほどにね」
「……俺の仕事、分かってるか?」
「ふふ、確かに、難儀だよね」
怪異現象対策課の警察官に言うことではないと軽く睨むと、葵は愉快そうに呟いてクッキーを口に運んだ。
今回の話はこれで終わりということだろう。
智輝はその姿を見て、目を僅かに細めた。
葵は感じ取る異質なものへの理解を、既に諦めているのだ。それが伝わってくる発言が、智輝には何故だかとても寂しく、悲しいものに感じられてならなかった。
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