第23話 彼女のありよう

「葵さん、綺麗になったよー!」

「よかったね。しかもふわふわでいい香りだ」

「柔軟剤使ったからね!」


 ソファに座る智輝の前では、紗世がはしゃいだ様子で葵にぬいぐるみを見せていた。

 警視庁から帰ってきて、すぐさま洗濯乾燥されたぬいぐるみは、どこか喜びに溢れているように見える。


「――霊は洗濯乾燥機に耐えうるのか」

「なに言っているの」


 紗世が母親にもぬいぐるみを見せに行ったことでお役御免になった葵が、智輝の横に腰掛けてあくびをする。

 思えば、葵は今日珍しく早起きをしたのだった。眠くて当然だろう。


「……警護まで付き合わせて悪いな」

「仕方ないでしょ。僕も気になるし。まあ、家に閉じ籠っている限りは、問題ないんだろうけど」

「ああ、だから俺一人での対応になったんだろうしな」


 紗世は犯人が逮捕されるまで学校を休むことになった。母親としての感情を思えば当然だろう。

 それに、現在、捜査一課が全力で犯人に迫っているはずなのだ。逮捕まではさほど時間がかからないと思う。


「――ああ、幽霊が洗濯乾燥機に耐えうるかだけど」


 不意に葵が話し始めた。智輝の発言を聞き流したわけではなかったらしい。

 その揶揄を含んだ口調に、少しばかり嫌な予感を抱きながら、智輝は横目で葵を窺った。


「僕も初めて知ったけど、どうやら霊も洗濯は嫌らしい。洗濯機に突っ込まれる瞬間に、ぬいぐるみから離れていたね。乾燥されて出てきたところで、すぐさま入り込むくらいに気に入った器なのは間違いないようだけど」

「……そうか。出入り自由なのか」


 なんとも言えない思いで口数が少なくなったが、ふと聞くべきことを思い出し、葵に向き合う。


「……霊が入ったままのぬいぐるみを持たせていて、紗世ちゃんに問題はないのか?」


 葵の話を聞いているし、あのぬいぐるみがひとりでに動き出すものだと知っている智輝としては、このまま紗世の傍に置いていいものなのか不安があった。

 以前、葵は霊が悪いものへと変貌する可能性を示唆した。ぬいぐるみの中の霊がそうならないとは限らない。


「――そうなんだよねぇ」


 葵が紗世の声が聞こえる方に視線を向け、僅かに目を眇めた。その目になにが見えているのか、複雑な感情が窺い知れる。


「ぬいぐるみに入っている彼女は、驚くほど理知的だ。思念に大きく存在が左右されやすい霊として異常なほどにね」

「異常……」

「先ほどぬいぐるみから出てきた姿を見た感じだと、おそらく大正から昭和の初め辺りで亡くなった女性なのだろう。彼女が死んで囚われた思念の先にある子も、既に亡いと思う。本来なら、彼女はこの世から解放されているべき存在だ」

「解放……そうか、霊をあの世に送るというのは、解放なのか」


 葵の言葉に耳を傾けながら、智輝も紗世がいる方に目を向けた。

 紗世の傍で、ぬいぐるみが嬉しそうに見えたのは、おそらく智輝の感情が見せた錯覚だろう。だが、紗世はぬいぐるみの中に入った存在も含めて、愛おしんでいるように見えた。


「解放ならば、そうした方がいいんだろうな……」

「それもエゴなんだよね。他者にとってなにがいいかなんて、僕たちが決めていいものではない。人の進む道を決めるのは、本人であるべきだと僕は思う」


 その言葉は、安易に結論を導こうとした智輝を咎めているように聞こえて、思わず葵を見つめた。

 葵は足を組み、頬杖をついて、悩ましげに眉を顰めている。


「……送らないのか? あのぬいぐるみの霊が拒んでいるから?」

「拒んではいないさ。紗世ちゃんに悪影響を与えるものになるなら、進んで祓われるつもりだと言ってきた。……だからこそ、僕は迷っているんだけど」

「迷う? 葵さんは、なにを迷っているんだ?」


 葵にまっすぐ向き合った。このように霊への対処に悩んだ様子を見せるのは初めてだ。なにが葵の中で引っ掛かっているのかを知るのは、今後葵と付き合っていく上で大切なことに思える。


「……彼女は非常に上手く霊としてあり続けてきた。他の霊を呑み込みながら、悪感情に侵されることもなく。そう……上手くやり過ぎたんだ。彼女はただの霊の範囲を超えようとしている」

「霊の、範囲を、超える……?」


 理解できない言葉だった。霊という存在すら、心底理解できているわけではないのに、それを超える存在と言われても、困惑して当然だと思う。

 顔を歪める智輝を見て、葵が苦笑を漏らした。


「――日本は独特な神話体系を持つ国だ。建国の頃からの真正の神がいる一方で、身の回りの自然にも神性を感じ、祭り上げて神となす。他にも、霊の怒りを抑えるために神に祭り上げることもある」

菅原道真すがわらのみちざね公や平将門たいらのまさかど公のことか」


 一般常識にあたるので、その辺のことは智輝も知っていた。

 葵が頷いて言葉を続ける。


「彼らは祭られることで、そのうらみを鎮め、エネルギーを怨みから恵みへと転換させた。それは、詣でる大多数の祈りが思念となり、神霊のありようにまで影響を齎したからだと思う」

「……あまりに壮大すぎて、理解しがたいんだが。結局、葵さんはなにを言おうとしているんだ? 何故神の話をするんだ」


 神の存在にまで思考を向けたら、それは空想と変わらないと智輝は思ってしまう。

 今葵に問いたいのは、ぬいぐるみに入っている霊のことなのだ。何故神のありように話が進んだか分からないが、できれば簡潔に話してほしかった。


「彼女もそうだからだよ」

「そ、う……?」


 返事があまりに短すぎて、意味を受け取り損なった。

 首を傾げる智輝に、葵が肩をすくめる。これから話すことが、あまり理解されることではないと悟っているような仕草だった。


「彼女はあまりに子を守ろうとする思念が強すぎた。長いときを、その思念を抱えて、周りの霊を呑み込みながらあり続けてきたんだろう。……彼女は、既に一種の神だ。より正確に言うならば、子にとっての守護神」

「……なんというか……突拍子もないな……」


 呆然と呟いてしまった。葵が苦笑しながら言葉を続ける。


「そうだね。まあ、まだ祭り上げてないから、神と言うよりは、守護霊という方が近いんだろうけど、神になりうる素質を持っているのは間違いないよ。……だからこそ、悩んでいる。神だって、一歩間違えると荒御魂あらみたまになるんだ。彼女が悪性に堕ちたとき、周囲に与える影響は甚大なものになる。一方で、善性であり続けた場合、彼女は子どもにとって、特に傍にいる紗世ちゃんにとって、これ以上ないほどのお守りだ」

「お守り。……今回のようなことがあっても、守ろうとするってことか」


 お守りという言葉がストンと胸に落ちた。

 神や守護霊という言葉はやはり現実味がないが、神社などでもらってくるお守りと同じか、それ以上のものだと思えば不思議と納得できる。

 それゆえ、葵が悩む理由も理解できた。確かな効果があると分かっているお守りを、どうして手放すべきだと言えるだろうか。紗世を思えばこそ、安易にその決断はできない。


「……お守りを捨てろだなんて、俺は言えないな」


 今回の事件だって、ぬいぐるみに入った霊の機転と力がなければ、どうなっていたか分からない。

 実際にどれほどの効果があったかは、智輝には分からないわけだが、それをないものと切り捨てるには、紗世が無事である現状は奇跡に思えた。


「そうなんだよね……。まったく……思念というのは、どう転がっても厄介だ……」


 葵の呟きが殊更に苦々しく響いた気がした。

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