第20話 あなたがいないと

「それで、どうするの?」

「……優先順位は、女の子の安全だ。その次が犯人の確保だが、そもそも俺にはその権限がない。やったら捜査一課からお𠮟りを受ける」

「証拠もないしね」


 苦く笑う智輝に、葵があっさりと頷いた。

 智輝自身は事件の遺族の為にも、地域の治安の為にも、一刻も早く犯人を捕まえるべきだと思っているが、その思いだけで行動できるほど、警察官という職は自由ではない。


「女の子の家がどこにあるかは分かるか?」

「そこは曖昧なんだよねぇ……。あのぬいぐるみに入っている霊は、住んでいるところへの興味が薄かったし。なんとかして帰ろうとする意思は強かったから、多少は分かるけど」

「ここから辿ることはできないか?」

「難しい。だけど、子どもの足でもさほど時間はかからない距離だと分かっているよ。あっち方面。家の外観もなんとなく分かる」

「十分だ」


 頷いて、車のエンジンを入れる。

 歩道に子どもの姿がなくなっていた。登校時間を過ぎたのだろう。ここで女の子を探すのはもはや時間の無駄だ。

 葵が指した方へと滑らかに発進した後は、建ち並ぶ家を確認しやすいようにゆっくりと走らせる。

 この辺は住宅街だが、公共の交通機関の利便性がいいところだから、車で移動する者はそう多くない。ゆっくり走行しても迷惑にならないのは有り難いことだ。


「女の子、もしかして学校に行っていないのかな? ぬいぐるみの記憶では、ちゃんと学校に行っていたはずだけど」

「単純にあの公園近くは通らなかっただけかもしれないぞ。保護者が車で送っている可能性もあるしな。……事件を目撃していたなら、余計に道を変える可能性は高い。その場合、保護者同伴登校が原則になっている感じの中、保護者をどうやって納得させるか考えないとならないが。保護者の方から、事件についての情報提供は来ていないみたいだし」

「そうだねぇ。やっぱり、見てはいなかったのかなぁ。僕が持っている情報は、ぬいぐるみの主観でしかないしね……」


 じっと窓の外を観察する葵と、徒然つれづれに会話する。お互いに、この会話が大して意味を持たないことは分かっていた。言うなれば、ただの暇つぶしである。

 暫く車を走らせたところで、葵が「あっ!」と声を上げると同時に、後ろ手で智輝の腕を叩いた。


「あれ! あの家だよ!」

「……一軒家か。子どもがいる家庭であるのは間違いないな」


 黒い屋根の二階建ての家は、特筆する点もないほど街に溶け込んだ外観だった。これを一瞬で目的の家だと分かるのは凄いと思う。曖昧な記憶だと葵は言っていたが、それがどういうものなのか知りたくなった。

 家のエントランス部分に子ども用自転車が置かれているのを見ながら、車を停止する。


「どうするの? 呼び鈴鳴らす? お宅の娘さん、公園で事件を見ませんでしたかって?」

「俺は事件の捜査をしてるわけじゃない」


 葵の軽口を聞き流しながら、シートベルトを外して車から降りる。

 智輝の返答を最初から分かっていたのか、肩をすくめた葵も後に続いた。


「――智輝、二階」

「あ? ……あれが探していた子か?」


 二階の窓。僅かに開けられたカーテンの隙間から、女の子の顔が覗いていた。智輝たちの視線に気づくと、顔を強張らせて奥に引っ込む。

 どうやら智輝たちは女の子に怪しまれたらしい。


「……恐怖。混乱。不安。……子どもはたいてい感情に波があるけど、ここまで負の方向に傾いているのは珍しい。早く対処してあげるのが良さそうだね。ぬいぐるみをあの子に返してあげよう」

「……そうだな」


 真面目な顔で窓を見上げ続ける葵を、智輝は横目で見下ろして小さく頷いた。

 葵が女の子からなにをどう感じ取ったかは分からないが、対処を急ぐという点では智輝に拒む理由はない。

 資料が入っているバッグを持ち、女の子の家の玄関に向かった。


 ――ピンポーン。

 呼び鈴を押すと、明るい音が聞こえる。それと同時に一階で物音がするので、恐らく女の子の保護者が在宅しているのだろう。

 暫くして、訝しげな声が応答した。


『――はい、どちら様ですか?』

「朝のお忙しい時間に申し訳ありません。私、警視庁の神田と申します。先週、公園で起きた事件に関しまして、ご確認したいことがあるのですが、お時間よろしいでしょうか」

『警察!? うちに……? ……分かりました、少々お待ちください』


 驚いた声が聞こえた後、ぷつりとマイクが切れた。

 この様子では、女の子が事件を目撃した可能性に、保護者は気づいていないようだ。


「あの……うちに、なにを確認に来られたのですか……?」


 玄関ドアを開けて対応に出てきた女性は、ひどく混乱した表情だった。急に警察がやって来たのだから、その驚きは全く不思議ではない。

 少し申し訳なさを感じながら、智輝は用意していた写真を女性に示した。家の表札によると、この家の住人は本村もとむらという名らしい。


「本村さんですね? この写真を確認していただきたいのですが――」

「写真……。あ、このぬいぐるみは娘の……! 探していたんです……!」


 驚いた本村が、智輝から受け取った写真を凝視する。その表情に僅かに安堵が浮かんだ。

 だが、智輝が続けた言葉で、表情が一気に曇ることになる。


「このぬいぐるみは事件現場となった公園で発見され、現在警視庁で保管しています。証拠になりうるものとしてですが……さほど重要度は高くなく、申し出をしていただければ、ご返却も可能かと」

「……事件現場……証拠……」


 少し気味悪げになった本村が、迷った表情で呟く。

 探していたぬいぐるみではあるが、それが殺人事件に関わるものだと知り、気乗りしなくなったらしい。

こうなることは智輝も予想していた。さほど高価でもないぬいぐるみだ。ケチがついたものを大事に持ち続ける意味があるか考えるのも当然だと思う。

 そう考えて苦笑する智輝の横で、葵の気配が揺れた。そっと様子を窺うと、どうやら玄関の奥に視線を向けているようだ。


「――ママ、私のうーちゃん、帰って来るの……?」

紗世さよ、うーちゃんは、ちょっと……」

「でも、見つかったんだよね……? うーちゃん、返して!」

「新しいぬいぐるみ、買ってあげるから、うーちゃんは諦め――」

「やだ! うーちゃんは、ただのぬいぐるみじゃないもん!」


 本村の言葉を遮るように叫んだ紗世が、玄関から飛び出してきた。写真を奪い取り、凝視する。その目には瞬く間に涙が湛えられた。


「うーちゃん……置き忘れちゃってごめんね……こんなに汚れちゃって……」

「紗世……」


 紗世はぬいぐるみを取り戻す気のようだが、その母親である本村はまだ気乗りしない様子だ。なんとか心変わりしてもらえないものかと、言葉を探している雰囲気が漂っている。


「――君の大切なお友達なんだね」

「え……?」


 不意に口を開いたのは葵だった。紗世が目を丸くして見上げる。その視線と目を合わせるように、葵が膝を曲げて向かい合った。


「『ライナスの毛布』って知っているかな?」

「ライナス……? 知らないです……」


 突然の言葉は紗世に混乱をもたらしたらしい。涙も引いて、ポカンと葵を見つめている。

 その頭を優しく撫でた葵が、微笑みながら言葉を続けた。


「ライナスという少年は、常に肌身離さず毛布を持っていたという。それは、その毛布が彼にとって安心感を与えるものだったからだ。幼い頃から持っていたものに、子どもは愛着を持ち、安心感を覚える。逆に、それがないと不安を感じて仕方なくなるくらいに。こういうのを安心毛布とも言うんだけど。――君にとって、そのぬいぐるみは、ライナスの毛布と同じだ」

「……うん。そう。ないと、いやなの」


 葵の説明をどれだけ理解できたかは分からないが、紗世はしっかりと頷いて、写真を握りしめた。

 警視庁でぬいぐるみと対面したときも、葵は『ライナスの毛布』と呟いていたはずだ。その時点で、このぬいぐるみが女の子にとってそれくらい大事なものだと分かっていたのだろう。


「……本村さん。この子にとって、うーちゃんはただのぬいぐるみではないんです。この子の不安を解消させるためだと思って、ぬいぐるみを引き取りに来てはくださいませんか?」


 立ち上がった葵が真摯に本村を見つめた。葵が紗世に掛けた言葉は、当然本村にも届いている。案外、本村の方に聞かせるために話したのかもしれない。

 本村がじっと葵を見つめた後、躊躇いがちに頷いた。葵が溢れるような笑みを見せると、本村の表情も和らぐ。


「……これも、一種の色仕掛けか?」


 ぼそりと呟いた言葉は葵にしっかり拾われて、強かに足の爪先を踏まれることになった。

 葵の容姿が本村に好意的に作用したのは間違いないと思うのだが、言葉にする必要はなかったかもしれない。

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