第19話 彼女の守り方

「目撃したにせよ、しなかったにせよ、女の子が犯人に見られた可能性は大いにある。おそらく今はぬいぐるみの目眩めくらましが効いているんだろうけど、早めに会って保護した方がいいのは確かだね」

「……なに?」


 意外なことを言い出した葵に、智輝は駐車場に車を入れるのを止めて、そのまま走り続けた。

 朝食の購入場所にしようと考えていたパン屋が遠ざかっていく。


「……あそこのパン、美味しいんだよね……」

「それより、話を続けてくれ。ぬいぐるみの目眩ましってなんだ。女の子は保護が必要な状態なのか?」


 振り返ってまでパン屋を確認する葵に、矢継ぎ早に問いかける。心が急いていて、葵ののんびりとした態度に苛立ちを抱いた。

 葵がチラリと視線を寄越したのを感じる。智輝の思いを察したのか、珍しく揶揄することなく言葉を続けた。


「保護はそこまで急がなくても大丈夫。あのぬいぐるみ、それなりに上手くやったらしい。今頃犯人はぼやけた記憶を辿りながら女の子を探しているか、もしくは憑けられた思念の重みに呻いているか、どちらかだろうね。あの感じだと、まだ猶予がある」

「……なんと言った?」


 あまりにも智輝の常識にない言葉が聞こえた気がして、脳が理解を拒んだ。痛む気がするこめかみを指圧しながら、見えてきた公園に車を横づけする。

 完全に車を停めたら、ようやく力を抜けた。葵との会話はなかなかに心臓に悪い。運転をしながらするものではないと強く思った。


「……やっぱり、パンは買っておくべきだったよね。なんならうちに戻る?」

「葵さんの家、朝食になるようなものなかっただろう。普段朝はなにを……って、普段は起きてないのか」

「ザッツ、ライト!」


 わざわざ指を鳴らしてウインクする葵に、深いため息が漏れる。


「まあ、僕、基本米派だし。あそこのパンは好きだけど」

「……覚えておこう。それより、話」


 睨むと、葵は「おっかないなぁ」と呟きながら、公園の方に目を向けた。


「話って言ってもなぁ。智輝はなにが気になるの?」

「それを俺が言わないと分からないってところが衝撃だが。……ぬいぐるみがなにをしたって言った? 分かりやすく説明を頼む」


 ハンドルに凭れるようにして葵の顔を覗き込む。

 朝からひどく疲れた気分だった。やはり自分の常識と異なる世界の話は理解が難しい。


「分かりやすく、ね……」


 智輝の疲労感に気づいたのか、葵が顎に指を掛けながら首を傾げる。その目が外の一点に向けられた。

 つられるように視線を動かすと、明かりのついた自販機が一台。


「とりあえず、糖分補給したら?」

「……そうしよう」


 さほど緊急性のない状態であることを葵の態度から悟って、智輝は勧めに従って車を出た。脳がエネルギーを求めている気がして、その欲求に逆らえなかったのだ。


「僕はレモンティーが好き。アイスで。小銭あげようか?」

「……それくらい、奢る」


 背後から掛けられた声にため息が漏れたので、智輝の疲労の原因の半分以上は葵の存在によるものだと思う。



 ◇◆◇



 冷えたミルクティーは甘みと豊かな香りで、精神を癒してくれるようだった。

 エネルギーを補給して気分転換したところで、話を進めるよう視線で頼む。


「ぬいぐるみは女の子が事件を目撃したと思って慌てていたって、さっき言ったと思うけど」

「ああ、そう言っていたな」

「ぬいぐるみはなんとか女の子を隠さなければならないと思ったんだ。ぬいぐるみにも、犯人が女の子まで殺める可能性があることが分かっていたんだね」


 智輝が飲み物を買う間に、葵は話す内容を整理していたのか、滑らかに話し始めた。その声にじっと耳を傾けながら、歩道に目を向ける。

 小学生の登校時間になっていたのか、ちらほらとランドセルを背負った子どもの姿が見えた。たいていは保護者と一緒に登校しているようだ。この公園で起きた事件の影響が続いているのだろう。

 ぬいぐるみの持ち主の女の子も、ここを通りがかるかもしれない。


「ぬいぐるみが女の子を隠すためにとった手段は二つあって、一つは男の目をくらますこと。エネルギーの塊を男にぶつけて、一時的な錯乱状態にしたんだろう」

「……霊はそんなこともできるのか」


 ゲームなんかでは、攻撃に混乱の付加効果がついているものもあるが、それと似ているのだろうか。


「あのぬいぐるみは勝手に部屋から出て来るくらい行動的、つまり自分のエネルギーの使い方を熟知していたからできたことだね。ぬいぐるみに宿っているのは結構年季の入った霊で、たぶんよその霊を吸収して自分のエネルギーに変換することもできるんだろう。ぬいぐるみを見た感じ、霊としては上級って言っていいくらいエネルギーを保持していたから」

「……霊の吸収?」

「うん。霊は思念の共通点を取っ掛かりに、集合体を形成することがあるんだ。今回は、子を思う気持ちを持った霊を、ぬいぐるみに宿った霊が吸収して集合体になっていた感じかな」


 智輝には想像もできない世界だった。そんな常識外の言葉を、至極当然と言いたげに放つ葵をまじまじと見つめる。


「そういうわけで、男は女の子を視界に入れたとしても、上手く認識できていなかった可能性が高い」

「……本当にそうなら、喜ばしいことだな」


 どうしても信じきれずに曖昧な言葉を返すと、葵が肩をすくめた。

 心霊などの真偽不確かなものに対する智輝の複雑な思いは、葵も把握しているのだ。感じ取れないのだから、その存在を理解しきれないのは当然だと言われたことがある。

 仕方なさそうに僅かな笑みを浮かべながら、葵が説明を続けた。


「女の子を隠す二つ目の方法は、男に纏わりつく思念を活性化させること」

「思念の活性化?」

「うん。たぶん、犯人の男は、あまり周囲に好かれていない人だったのだろうね。ぬいぐるみから見たら、男に恨みに似た思念がこびりついているように見えた。それをぬいぐるみは利用したんだよ。その思念にエネルギーを与え、男に悪影響が出るように、と」

「……思念は人にもこびりつくものなのか」


 うっすらと背筋が寒くなるような心地で、智輝は腕を擦った。

 今この瞬間も、誰かの思念が纏わりついているのだと思うと、シャワーを浴びたい気分だ。それで思念が洗い流せるかどうかは分からないが。


「智輝にはついてないよ? そもそも思念が長期間残留し続けることは、そう多くないからね。死んだ人の思念は例外として」

「……ついていないなら良かった」


 とりあえず理解できるところだけ受け止めて、葵に説明の続きを頼む。


「男にこびりついた思念はエネルギーを受け取ったことで、男に影響を与えることができるようになった。男は毎日悪夢にうなされてでもいるんじゃないかな。ほら、僕がぬいぐるみの思念を拾ってきちゃったときに、夢に化けて出られたのと同じ原理さ」

「なるほど。そうすると、男は精神的な疲労で、曖昧な記憶を探るための集中力が削がれるということか。……逆に、狂気的なことに思考が向く可能性もありそうだが」

「そうだね。だから、女の子を早めに保護するに越したことはないんだよ。男が悪夢に魘される時間が増えるほど、精神が疲労し、男は新たな罪を犯すことへの忌避感が薄れる」

「精神耗弱というやつだな」


 なんとか葵の説明を飲み込み、ミルクティーで糖分補給をして心を落ち着ける。

 歩道を歩く小学生の数が増えてきた。葵も智輝と同じようにそちらに目を向けていたが、なにも言わないところを見ると、ぬいぐるみの持ち主の姿はないのだろう。

 あわよくばここで見つからないものかと期待していたが、さすがにそう上手いこと進まないようだ。


「……ぬいぐるみの持ち主は小学生なんだよな?」

「そうだね。ここが通学路のはずなんだけどなぁ」


 公園で停まった理由は言わずとも分かってくれていたらしい。葵は少しがっかりした様子だ。

 同感の苦笑を漏らした智輝は、ふと視界に映る姿に目を眇めた。


「……会社員、か?」


 通勤用のバッグを持ち、ゆっくりと歩道を歩く男は、すれ違う子どもたちにちらちらと視線を向けているようだ。

 子どもを微笑ましいと眺める大人は数いるだろう。それはなんら不思議ではない光景のはずだった。

 だが、なにかが智輝の中の警戒心を煽る。これが刑事の勘というやつなのかもしれない。


「――刑事になったことはないけど、な」


 ポケットから取り出したデジカメを構えて、男の顔にズーム。パチリと写真に収めた。更に男の全体像も撮影する。

 ぬいぐるみ撮影用に使ったのをうっかり持ったままだったのだが、思いがけず役に立った。


「盗撮?」

「……分かっている癖に、そういうことを言うんじゃない」


 揶揄する葵に憮然と答える。

 肩をすくめた葵が、目を眇めて男を見つめた。


「そうだね。――あの男が犯人で間違いない」

「俺の勘と同等に証拠になりえないな」


 だが、勘を補強するという意味では、葵の証言はとても有用だ。

 そう心で思いながら、智輝は次に取るべき手に頭を悩ませた。

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