第18話 姿なき証言者

 ぬいぐるみの持ち主を探して街中をうろつくにはまだ早い時間。

 智輝は歩道を歩く通勤の人の姿を流し見ながら、まずは朝食を食べようと車を走らせていた。


 赤信号で止まったところで、ふと葵とぬいぐるみの対面時の様子が思い出される。葵はぬいぐるみに「やっぱり君だったか……」とうんざりしたように話しかけていた。


「あのぬいぐるみと会ったことがあったのか? 心当たりがあったように見えたが」

「……えっ、なんか言った?」

「今、寝てただろう……」


 ビクッと身動ぎした葵を横目で睨みながら、智輝はため息をついて質問を繰り返した。それに対して、葵があくびを噛み殺しながら何度か頷く。


「会ったというか、なんというか。彼女の思念に触れたことがあるのは確かだね」

「……女性なのか」

「うん。ぬいぐるみに入っているのは、若くして亡くなった女性だね。自分の子どもへの思いが強すぎて、魂が思念に囚われてしまったらしい。そのくせ、自分の子どもがどこの誰か忘れてしまうんだから、霊ってやつは、愚かで憐れだと思わない?」

「……霊になるほど強い思いを遺すのに、忘れるのか?」


 あまりに矛盾した話だと思い眉を顰める。すると、葵が指を前へ伸ばした。


「青」


 その一瞬後に信号が変わった。驚きで停止しそうになる思考をなんとか制御し、アクセルを踏む。


「……未来が分かるとか言わないよな?」

「ふふ……どう思う?」

「もし言ったら、詐欺師の仲間入りかと疑う」

「智輝は正直だね。そこは、ちょっとは口ごもるところだろう」


 確かにあまりにも明け透けな返事をしてしまったと思ったが、葵に智輝の発言を気にした様子はなかった。むしろ愉快げである。


「ただの勘だよ。偶然タイミングがあっただけさ。智輝だって、不意に勘が発揮されることはこれまでにあるだろう?」

「……あるかもしれないな」


 例えば剣道の試合中。接戦の最中に不意に悟るのだ。あそこを突けばいいのだ、と。それまでの練習や経験の集大成が勘として現れているのだろうし、大して特殊な感覚ではないはずだ。


 信号が変わるのを事前に察知するのも、やはり経験から生まれた勘であると言ってもなんらおかしくない。

 だが何故か、智輝は葵の言葉に素直に納得できなかった。葵の軽い返事の裏になにかが隠れている気がしてならなかったのだ。


「――霊は非常に不安定だ。それゆえに、とても忘れっぽい。思いが強ければ強いほど、他の記憶は忘れ去ってしまう」


 不意に葵が話し始めた。こういうことはよくある。

 葵は自分にとって歓迎できないことを智輝が考えているのを察して、その思考を妨げ、別の方に意識を向けさせようとするのだ。

 それに毎回流されてしまう智輝も大概であるが、そこは葵のやり方が一枚上手だった。


「人が死に魂だけの存在になった時、遺した思念に囚われて霊になる。その瞬間は思念が明確で、霊自身は思念に沿って動く。だけど、思念というのはとてもムラがあるんだ」

「ムラ?」


 反復した智輝に、葵が「うん」と頷いて言葉を続ける。


「例えばAが亡くなり、Bという子を遺したことを悲しんでいたとする。その悲しみは本来Bに向けられているものだけど、Bという存在よりも、子という存在の方が強いことがままあるんだよ。名前というのは人を区別するためのものでしかないからね。子という存在の中にBが含まれているわけだ。そうすると、時間が経ってエネルギーが消耗されるごとに、Aの思念は曖昧になり、Bを忘れて子に向ける思いだけが残る」

「……よく分からないが、そうだとすると、少し悲しいな」


 囚われるほどの思いなのに、大切な存在を明確に覚えていられないというのは虚しい。そう思って呟いた智輝は、ふと以前に葵と関わった件を思い出した。

 アパートの大家の妻は、独り遺された夫への心配が募り、霊として傍にあり続けていた。


幸恵ゆきえさんも、そうなる可能性があったのか?」

「そうだね。あの場所は、幸恵さんを悪い存在へと変えるのは防いでいたけど、思念の風化はどうしようもなかった。彼女が夫に言葉を遺すには、凄くギリギリのタイミングであったのは間違いない」

「言葉……」


 祝詞の流れに交じり、女性の声が聞こえたことを思いだす。改めて葵に確認することはなかったが、あれは幸恵の言葉で間違いなかったのか。

 そう聞いても、心の底から信じることはできず、幻聴だったのではと思う自分がいることに気づいて、智輝は苦く唇を歪めた。

 これまで信じてきた世界以外が存在することを受け入れるには、自分はまだ未熟だった。


「――というか、この話より、最初にぬいぐるみの思念に触れた時の話を聞きたいんじゃないの?」

「あっ……そうだ。葵さんが気になることばかり言うから……」

「智輝は頑固なくせに流されやすいよね」


 笑い混じりの言葉への反論を、グッと飲み込んだ。

葵の言葉が正しいことは自覚している。だが、そんな智輝の性質をいいように扱っているのは葵なのだ。正直「あんたが言うか⁉」と肩を揺さぶりたい気分だ。


「ぬいぐるみに入っている思念に触れたのは公園の傍だよ。つい一昨日のことだ」

「……葵さんが拾ってきてしまって、夢に化けて出られた、と言っていたやつか?」

「うん。ほんと迷惑。安眠妨害甚だしい。あの夢の時は気づかなかったけど、あれはぬいぐるみが公園で見た記憶だった。あまりにぬいぐるみの感情が高まりすぎて、思念を残していたんだ。ほんと嫌な夢だった」


 憤懣ふんまんやるかたない様子の葵に苦笑する。変な恰好をしてまで徹底的に掃除をして、拾ってきた思念を排除していたくらいだ。よほど夢に干渉されたのが嫌だったのだろう。


「智輝に話を聞いて、夢に干渉したのがぬいぐるみの思念かもしれないとは思っていたけど、確信がなくて黙っていたんだ。ごめんね?」

「それは別にいい。その時点で言われたところで、ぬいぐるみに会わなければ確信は得られなかった。……それより、ぬいぐるみの記憶の話を詳しく教えてくれないか」


 普通の人が持ちえない感覚の話をする際に、葵は確信できていない話を語るのを避ける傾向があった。それは、そもそも真偽不確かに思われがちな言葉の信頼性を下げないための、葵なりの保険なのだろう。

 それが分かっていたから、智輝はすぐに謝罪を受け入れ話を進めた。


「うん。――女の子に置き忘れられたぬいぐるみは、どうせすぐに迎えに来てくれると思って、朝露に濡れるのを不快に思う程度でのんびりしていた」


 葵が訥々とつとつと語るのは、智輝では認識しえないぬいぐるみの記憶。決して事件捜査に役立てられることのない、目撃者の証言だった。


「でも、早朝二人の男がやって来た。逃げる男を刺す男。そこに響く軽い足音。それはぬいぐるみの持ち主の女の子の足音だった。彼女はぬいぐるみを置き忘れてしまったことをとても悔やんでいたんだろう。本来起き出す時間よりも早く起きて、取りに来てしまった――」

「っ……待て、もしかして女の子は、事件の瞬間に居合わせたのかっ?」


 驚きのあまりアクセルを踏む足に力が入りそうになり、慌てて心を落ち着けた。心臓が激しく主張している。最悪の事態を想像してしまったのだ。

 罪を犯した者が、その隠蔽のために、目撃者までも殺めようとするのは、悲しいことによくある話であった。


「そうだね」

「……その感じだと、女の子は無事なんだな?」

「だから、僕たちはこうしてぬいぐるみの持ち主に会いに行こうとしているんじゃないか。さすがの僕だって、既に死んでいる者にぬいぐるみを引き取れなんて言いに行かないよ」

「……そうだったな」


 自分たちの行く先を思い出すよう言われ、智輝は慌てた自分を恥じた。それ以上に女の子が無事であることに安堵してもいたが。


「つまり、女の子は犯行自体は見なかった?」

「それはどうだろう。ぬいぐるみは、女の子が目撃したのだと思って慌てていたけど」

「……もし、目撃していたのだとすると、俺は捜査一課への報告義務があるんだが」

「ぬいぐるみがそう言っていたって報告するの?」


 葵の揶揄混じりの言葉に沈黙を返した。

 確かに智輝の発言は早計だった。報告するにしても、その女の子に直接会って話を聞いてからだろう。

 そうなると、報告が遅いと怒られそうなことにうんざりとした気分になるが。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る