第15話 霊能者の苦悩

 智輝は機嫌伺いのためのドーナツを手に、怪異現象対策課の協力者であり霊能者でもある榊本さかきもとあおいの家を訪れた。

 だが、ドアが開かれた瞬間に、挨拶の言葉を失い、目を見張って固まることになる。出迎えた葵の格好が、普段とまるで異なっていたからだ。

 葵は、いつもはフワッとした淡い色の髪をバンダナでしっかり包み、口元をマスクで隠していた。さらに、割烹着のようなもので体全体を覆っていて、普段のモデルのようなイケメン具合が嘘のようにダサかった。


「悪いね。ちょっと、今、忙しくしていて――」


 それは見れば分かる。

 リビングに通された智輝は、内心でそう答えながら、せわしなく立ち去る葵の後ろ姿を見送った。

 ドーナツが入った箱をローテーブルに載せて、ソファに腰掛ける。

 葵は寝室で作業中らしい。大掃除の時期にはあまりにも早い気がするが、家具を動かして掃除する音がした。


 リビングはいつも通り整頓され、埃ひとつ見当たらない。

 思念の残留を感じ取れるという葵は、普段からそれらを消し去るように、居住空間の清掃を怠らなかった。それは、短い付き合いの智輝でさえ熟知するほどの念の入りようである。

 そんな葵が、普段から綺麗に保っている寝室で、なにを消し去ろうとしているのだろうか。



 ◇◆◇



「――待たせてしまってごめんね。どうにも緊急で……」

「いや、それは構わないが……」


 葵がリビングに戻ってきたのは、智輝が家を訪れて二十分ほど経ってからだった。


 智輝は葵宅の茶器を借り、多種備えられた紅茶葉を吟味して、好みの紅茶を淹れていた。葵の姿を見て、追加を用意する手も淀みない。

 初めて葵に紅茶を振る舞ってから、この家を訪れる度に、紅茶を淹れるようねだられていたので、慣れているのも当然だった。


 葵は掃除のために着ていたものを全て脱ぎ去り、その下に着ていた服も変えていた。さらに、手や顔までしっかりと洗ってきたようで、前髪から滴る雫を煩わしそうに払っている。


「なにかあったのか?」

「うん、まあ、どうにも強烈な思念を拾ってしまったみたいでね。夢に化けて出られてしまったんだよ」

「……ああ?」


 言っていることの意味がよく分からず、智輝はカップを並べる手を止めて、葵をまじまじと見つめた。

 そんな智輝に苦笑した葵は、ローテーブルに載せられたドーナツの箱を嬉しそうに眺め、言葉を続ける。


「昨日、執筆の気分転換に近所を散歩したんだけどね。ほら、近くに公園があるでしょ? あそこの傍を通りがかった時に、残留していた思念をくっつけて帰って来てしまっていたようなんだよ。まったく、あれに気づかなかったとは不覚だ。睡眠不足は感覚を鈍らせるからよくないねぇ」

「睡眠不足が何事にもよくないのは同意だが……近くの公園? あそこは、殺人事件が起きたばかりの場所じゃなかったか?」

「うん、世の中物騒だよね」

「あれ、犯人捕まってないだろう。気をつけた方が良い」

「そんなことを言ったら、買い物だって行けないよ。それに、顔見知りの犯行の可能性が高いってニュースで言っていたし。見ず知らずの人間までどうこうするなんて、犯人も考えないでしょ」


 軽く流そうとする葵を睨む。

 智輝は真剣に心配しているというのに、なんともお気楽なものだ。


「……幽霊を見たりはしなかったのか?」

「公園で亡くなった人のこと? う~ん、僕は普段、そういうのを見ないように気をつけているからなぁ」

「……そうなのか」


 初耳だ。

 意外さを籠めて視線を向ける智輝に、葵が肩をすくめる。それはどこか疲れが見える仕草だった。


「年がら年中幽霊の姿を見ていたら、僕は気が狂ってしまうよ。この世に思いを遺す者の、なんと多いことか」

「……大変だな、お疲れさま」


 智輝は心霊だとか怪異というものを、まだ心の底から信じることができないでいる。だが、葵の嘆きは本心に思えて、素直に憐れんでしまった。それが幻視や幻聴であったとしても、葵がそれを感じ取ることに疲労を感じているのは事実だろう。


「――それで、智輝は今回どんな案件を持ってきたの? お疲れな葵さんだけど、手を貸してあげようじゃないか」

「お疲れな葵さんには申し訳ないが、さっき言った事件に関するものだ」

「……さっき、言った、事件?」


 葵に合わせて返しながら、用意した資料を取り出す。智輝の言葉を一言ずつ区切って反復した葵が、奇妙に歪んだ表情で首を傾げた。


「そうだ。この近くの公園で起きた殺人事件のな」

「……智輝はいつから刑事になったのかな?」


 心底不思議そうに顔を覗き込まれた。その綺麗な顔に、資料を軽くぶつける。葵は時々距離感を間違えるのだ。


「あいたっ……」

「大して強く叩いてない。それで、見てもらいたいのはこの写真なんだが――」


 わざとらしく呻く葵の言葉を聞き流し、智輝は今朝警視庁内で撮ったばかりの写真を示した。急ごしらえで事件概要の資料をコピーしてきたものの、そちらは大して重要ではない。


「……ぬいぐるみ? 薄汚れて可哀想だね」

「そうだな。事件現場の押収品だから、証拠になる可能性もあって、洗えないんだ」

「……証拠に? ぬいぐるみが?」


 今朝、智輝が思ったのと同じ感想を漏らす葵に、こっそりと笑みを零した。

 葵は不思議そうに写真を指先で摘まむと、右に左に回転させて、ぬいぐるみを観察している。

 智輝はその様子をじっと見つめた。

 葵がそのぬいぐるみになにを感じるのか知りたい。それが、智輝が絶対に認識しえないものであっても。


「――なんと言うか……僕に期待を向けてくれるのは嬉しいのだけどね」


 葵がぽつりと呟いたのは、写真が回されて五周ほどした頃だった。なんとも言い難そうな響きの言葉に智輝は首を傾げる。


「……写真でなにかを知れるほど、僕の能力は、特殊じゃないから」

「それは早く言え」


 思わず瞬時にツッコミを入れた。先ほどの写真を眺めている時間はなんだったのかと、体に入っていた力が抜ける。


「……写真じゃ、なにも分からないのか?」

「分からないねぇ。この写真自体に思念が宿っているわけではないし。写真は現象を写しているだけだもの。心霊写真ならまた別だよ? あれは、写真を通してこちらに思念を伝えてこようとする意思が強いからね」


 ぬいぐるみの写真を撮ってきたのは無駄だったらしい。これでは問題を解決するにはどうしたらいいか迷ってしまう。葵を警視庁の奥にある保管室に入れるのは無理だろう。協力者といっても、そこまでの権限は許されていない。


「……つまり、これは心霊写真ではないから、葵さんでもなにも感じ取れない、ということか」

「うん。……って、このうさぎさん、実体があるんだよね? 智輝にも見えているよね? 僕が気づかないだけで、心霊写真だったりする?」

「いや、見えているし、普通に触れるぬいぐるみだった」

「よかった。また、違うものを見ているのかと思った――」


 強張った顔を緩めた葵を、智輝は秘かに観察した。葵が零した言葉の裏に、彼がこれまで抱えてきた苦悩が隠れている気がしたのだ。


 大多数の者が感じ取れないものを見て聞ける者は、その感覚をどうして信じられるのだろうかと、ふと疑問に思う。

 智輝ならば真っ先に幻視幻聴の類を疑う。おそらく、それが一般的な感性だ。

 だが、霊能者というものは、そうして疑ってはいられないのだろう。疑えば、身の周りで認識するすべてが現実感を失う可能性がある。

 霊感というものが、視覚や聴覚などの感覚と並ぶほどに、彼らの感覚に確固として存在しているのだから。


 感覚によって成立する世界は、なんと曖昧で脆いことか――。

 霊能者の生きづらさに不意に思い至り、その能力の真偽を疑ってしまう自分を申し訳なく感じた。

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