File2: 姿なき目撃者(全11話)

第14話 朝の異変

 朝露が体を濡らす。じめじめと染み込んでくるようなそれは不快で、動かせもしない体にため息をついた。


 ――ズッ、ザリ、ズッ、ザリ!

 ――ザ……ザ……ザ……!


 不意に朝の静寂しじまが破られる。靴底が地面を打ち擦る音だ。

 おやまぁと心にひとつ嘆息をこぼし、斜めった世界に意識を向けた。


 男だ。若い男が二人、遊具の間を縫うように進んでいる。男の一人は片足を引きずりながら必死に逃げ、それを追う男は、ネズミをいたぶるネコのように、もったいぶった動きだった。


「――許してくれっ!」

「許すわけがねぇだろ……?」


 まるであの子の母が好きなサスペンスとやらのシーンのよう。

 そう心でひとち、ただその光景を眺めていた。体を動かせないのだから仕方あるまい。


 ――トストストス……。

 今度は軽い足音だ。それが聞こえた瞬間、たいらだった心が激しく波打つ。


 あの子だ。あの子だ。あの子だ! 来てはいけない。どうして来たの!


 目の前では男に銀の光が向けられていた。声にならない悲鳴が漏れている。


 来てはいけない。見てはいけない。その足を止めて。あたたかい家に帰るのだ。


 心で念じると、それが届いたように足音が止まった。躊躇ためらう気配がこちらをうかがい、瞬時に強張こわばる。


 きっと見てしまったのだ。ならば、それはもう仕方ないけれど、見つからないようにしなければならない。

 でも、あの子はかくれんぼが苦手だった。ほら、男が気づいてしまう。

 隠さなければ。隠さなければ。あの子に手を出されることだけは、なんとか防がなければ。


 ――絶対に、あの子を殺させてなるものかっ!



 ◇◆◇



「おはようございます!」

「だるいなぁ……今日定時で帰れっかなぁ……」

「なあ、昨日の調書どこやった?」

「見て見て、このスイーツ美味しそうじゃない?」


 朝から騒々しい警視庁内を、神田かんだ智輝ともきは人混みを縫うように歩いていた。目指しているのは生活安全部の資料室。市民から寄せられた相談ごとの調書が、そこに収納されているのだ。

 智輝は生活安全部怪異現象対策課に所属している。見ただけで、聞いただけで怪しいその部署は、警視庁に試験導入された特殊捜査部門の一つだ。

 仕事は主に生活安全部に寄せられた相談ごとの中から不可思議な案件をピックアップして捜査すること。


「……ねむいなぁ」


 眠気の残る頭を搔きながら、資料室に向かう智輝の足が止まった。視界の端に違和感を覚えたのだ。

 生活安全課の職員である女性が、気味悪そうにカウンターを見下ろしている。そのカウンターは普段市民からの相談を受ける場所で、綺麗に整頓されているのが常だった。

 しかし、今朝のカウンターの上には、薄汚れたぬいぐるみが無造作に転がっている。


「……拾得物か?」


 街中の落し物が警察に届けられることはよくある。だが、あのような形で置かれているのは見たことがない。普通は、担当の者が書類を書いて、すぐさま保管所に仕舞われるのだ。


 女性職員とぬいぐるみを眺めて立ち止まる智輝の傍を、見知らぬ男性職員が訝しげに見ながら早足で通り過ぎた。

 智輝だって、いつまでも立ち止まっているわけにはいかないことは分かっている。智輝が見るべき調書は山のようにあり、こうして立ち止まっている間も、仕事は増え続けているのだ。

 だが、どうしても奇妙な状況を見過ごせなかった。

 それが何故かは分からない。怪異現象対策課なんて、おかしなことを調査する仕事をするようになったからか、理解の及ばない勘のようなものが、智輝の足を止めているのかもしれなかった。


「……あ、神田さん!」


 智輝の視線は、ついに女性職員に気づかれた。パッと明るくなった表情を見て、足先の向きを変更する。

 カウンターに近づきながらぬいぐるみを観察すると、それは乳幼児がよく持っているようなタオル生地で作られた簡素なものだというのが分かった。うさぎの顔に愛嬌がある。


「おはようございます。えっと――」

三田みたです。おはようございます」

「三田さん。なにか困っているように見えましたが、どうしたんですか?」


 生活安全部に異動になってまだ間もない智輝は、職員の顔と名前を覚えるのに苦労していた。名乗ってくれた三田に有り難く思いながら、名前を頭に刻んで本題に入る。

 智輝の質問に、三田は再び視線を落とした。ぬいぐるみに伸ばされた手が直前で止まり、近くの収納ケースから袋を取り出す。


「これ、最近朝になるとカウンターに置かれているんです――」


 そう言い、ぬいぐるみに直接触れないようにしながら袋に仕舞った。

 念の入った扱いだと、智輝は首を傾げる。拾得物ならば、指紋がどうのと気にせず扱うのが常だが、三田の様子はそれとは違っていた。


「――実は、先日起きた殺人事件の押収品として保管されているはずのものなんですけど」

「は? ……このぬいぐるみが、押収品……?」


 透明な袋に包まれたうさぎと顔を見合わせた。見れば見るほど普通のぬいぐるみである。


「事件現場に落ちていたらしいです。なにかの証拠になるかもしれないからと保管した上で、持ち主が現れないか待っているんですが。何故か保管室から、毎朝このカウンターに出て来てしまうんですよね……」

「……まるで、ぬいぐるみが意思を持って動いているようなことを言うんですね」


 気味悪げにぬいぐるみを見下ろす三田をまじまじと見つめる。その視線に気づいたのか、三田が首を傾げて智輝を見上げた。


「そういうの、神田さんの方が詳しいのでは?」

「……俺、怪異現象対策課のペーペーですよ」

「ああ、そうでしたね。馴染んでらっしゃるから、てっきり――」


 てっきりの後に続く言葉はなんなのか。

 智輝は複雑な思いを抱きながら、微笑む三田からぬいぐるみに視線を落とした。


「……ひとりでに出て来るぬいぐるみ、ねぇ」


 これは怪異現象対策課で担当すべき案件なのか、判断が非常に難しい。事件自体は刑事部捜査一課で現在捜査中のものらしいので、越権行為になりかねないのだ。

 捜査一課は警視庁の花形部署。余計な手を出したら嫌味を言われること必至である。ただでさえ、怪異現象対策課は冷めた目で見られることが多いのだ。

 望んで配属されたわけではないのに、なんとも世知辛いことである。


「誰かが持ち出しているなら、処分相当ですけど、そんなことをする理由がないでしょう?」

「そうですね。……いたずら目的の同僚がいなければ」

「それはいてほしくないものです。……ぬいぐるみが勝手に動くのも、いやですけど」


 三田は複雑な表情だった。同僚を疑いたくはないが、さりとて怪異現象のような怖い意味合いは考えたくないのだろう。

 智輝も同感である。霊能者らしき人と関わりはできたものの、智輝自身はそういう方面において一般人であると自負している。どこからどこまでが自分の手に負えるのか、非常に悩ましい。


「――あの、神田さん」

「……なんでしょう」


 三田が続ける言葉を予想しながら、智輝は慎重に返答した。


「私が依頼するのはおかしいかもしれませんが、どうかこのぬいぐるみのことを調べてはいただけませんか? 毎朝これと対面するの、怖いんです……」

「……そうでしょうね」


 躊躇いながらも頷いた。三田が怖がっているのは本心に見える。智輝だって、三田の立場だったら困惑し、周囲に助けを求めるだろう。怪異現象対策課に所属している人間が傍にいるのを、渡りに船と感じるのも無理はない。

 幸いなことに、智輝は課長の木宮きのみやから、案件の選択は自由にしていいと任されている。報告は必要だが、恐らく止められることはないだろう。

 むしろ、木宮は面白がって背中を押すに違いない。彼は捜査一課になにやら複雑な思いがあり、喧嘩を売るような真似をしたがる節があった。


「――とりあえず、このぬいぐるみは一旦俺の方で預かりますね。保管室に戻しておけばいいですか?」

「ありがとうございます……! そうしていただけると助かります!」


 一瞬で曇りがとれた笑みを浮かべた三田を見て、智輝は苦笑してぬいぐるみを手に取った。手の中で袋がカサリと音を立てる。ぬいぐるみはくたりと天を向いていた。

暫くの間、このぬいぐるみと付き合うことになりそうだ。


「よろしくな、うさぎさん」


 歩き出しながらうさぎに話しかける。言葉を返してくるような、摩訶不思議な体験は起こらなかった。

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