第13話 境界線上に立つ者

 智輝の警察官という身分証を盾に、スムーズに引き取りを終えた葵たちは、勇二のアパートの近所にある神社を訪れた。

 時刻は十六時半。夕方なのに人の気配を窺えないのは、既に神域に足を踏み入れているからだ。


「――こちらでよろしいですか?」

『助かった、人の子よ』


 葵が差し出した狐の子を、御使いが首もとをくわえて受け取る。萎れながら揺れる子が、哀れで可愛らしい。


「……マジで見えなくなった」

「よく分からないが、これで終わりか?」


 少し離れたところで見守っていた二人の声を聞きながら、葵は目の前の存在を見つめた。


「このようなことは今後ないようにお願いいたしますね。人の世と神の世は、安易に交わってはなりませんので」

『うむ。この度は迷惑を掛けた。このようなことはないように気をつける』


 御使いが重々しく頷いた。

 釘も刺せたので、これで葵の仕事は終わりだ。

 だが、暇を告げようとした葵を、御使いが引き留める。


「それでは、これで――」

『まあ、待て。迷惑を掛けた詫びをせねば、使いとして、主様に申し訳が立たぬ。なにか望みはないか?』


 真剣な声音の御使いを見つめる。その口に子狐がぶら下がっているのが、なんともアンバランスな雰囲気だ。


「迷惑を掛けたというなら、彼の方では……?」


 葵が手を向けた先にいる勇二を見やった御使いが、当然と言うように頷いた。


『あの者には守護を授ける。どうやら、異なものに好かれやすいようだが、過ぎたものは人の身を苦しめかねん。この度のような事態に巻き込まれぬようにするためにも、守護はあった方が良いだろう』

「ああ、それはいいですね。よろしくお願いいたします」


 御使いは勇二の体質に配慮をしてくれるらしい。この御使いは、なかなか年季が入った力の強い者のようだから、勇二にとってはこれ以上なく幸いなことだろう。


『だが、直接解決の手助けをしてくれたのはそなただ。礼のひとつもさせてもらいたい』

「礼ですか……」


 押し売りのような礼だなと思いつつ、葵は頭を悩ませた。


 神や精霊という実体なき者たちは、決して善良な存在ではない。その概念の範疇はんちゅうにないと言った方が正しいかもしれない。

 このように言葉を交わせても、存在が違う者同士であるがゆえに、ほんの僅かな認識の誤差が命取りになることもあるのだ。

 守護というのは神の世の中では、わりと人でも認識しやすいものであるがために、葵は勇二への申し出をすぐに受け入れた。だが、それが自身へとなると、難しい問題がある。


『そなたは既に力ありし者の守護を受けているようだから、我が与えるわけにはいかぬし……』

「……そうですね」


 葵は苦々しい思いを隠して頷いた。

 御使いが言った葵の守護は、決して望んで得たものではない。むしろ、葵にとっては負の遺産であり、直視したくないものである。だが、それが葵の身を守り、助けをくれているのも確かで、無下に扱うこともできない。


『ほれ、望みを言うてみろ。我は寛大だと評判なのだ。人の身の不遜をなじることはないぞ』


 神の世に生きる者の評判とはなにか。

 葵は御使いの的の外れた物言いに苦笑しながら、要求から逃れるために口を開いた。


「では、彼の隣にいる人物にも守護を――」

『うん? そなたではなく、あの者に守護を授けるのが礼になるのか?』

「ええ。彼は僕と一緒に行動することが多いですからね。万が一にも、異なものたちに害されることのないように」


 御使いが真意を図るように葵の目を覗き込んできた。葵はその目をじっと見つめて逸らさない。神の世の存在との対話方法は熟知していた。


『――なるほど。そなたはあの者に心を傾けておるのだな。それならば確かに守護が必要だ。そなたの望み受け入れよう』


 目を細めた御使いが、笑うように口角を上げたかと思うと、ふわりと空に溶けるように姿を消した。

 あまりに呆気ない終わりである。


「……葵さん、終わったのか?」


 周囲から鳥の声や車の音が急に聞こえてきたことに気づいたのか、驚いた様子の智輝が声を掛けてくる。

 葵はそれに頷きながら、そっと息を吐いた。慣れてはいても、神の世の存在との対話は精神を疲労させる。


「――うん、終わったよ。帰ろうか」

「……そうか」


 なにか言いたげな智輝から目を逸らし、葵は境内を出るために歩き出した。

 智輝の中で様々な疑問や戸惑いが渦巻いているのは、葵にはよく見て取れる。だが、ここで詳しく説明することは、おそらく無駄になるはずだ。


 直接神の世に関わる力を持つ葵と違って、智輝はその点において普通の人でしかないのだから。


「葵さん、マジありがとうございましたー! 今度、お礼に伺いますね!」

「気を遣わなくていいよ。これが引っ越し祝いってことにしよう」

「えー、それじゃ、俺の気が済まないっすよ……」


 眉を下げる勇二の背中を押し、さっさとバイトに行くよう促した。たまたま休講があって時間の余裕ができただけで、勇二はこの後すぐバイトの予定のはずだったからだ。


「あ、ヤバッ、時間ねえっ! じゃあ、今度連絡してお礼持ってくんで! 神田さんも、マジありがとうございましたー!」


 葵に促され時間に気づいた勇二が、一礼して駆けていく。葵はその元気な後ろ姿を微笑ましく見送った。

 勇二から礼のための連絡が来ないことを、葵は知っている。


「帰ろうか」

「……ああ」


 智輝は警視庁に残してきた仕事を思い出してため息をついているようだった。その肩を叩いて葵は帰宅のために重い足を動かす。


 赤々とした夕日が葵たちを照らしていた。



 ◇◆◇



 パチパチとキーボードを打つ音が控えめに部屋に響く。

 葵は画面を見つめて、時折口を歪めながら作業をしていた。再び書き直しを要求された原稿の執筆中なのだ。


 ――ブーッ、ブーッ。

「……おや、智輝からだ」


 バイブ音と共に示された名前に微笑み、葵は作業を中断してスマホを手に取った。

 そろそろ休憩しようと思っていたところである。紅茶を淹れようと立ち上がりかけたが、その動きはすぐに止まることになった。智輝からのショートメールの内容に目を留めたからだ。


『一昨日、葵さんに相談をしたのは三件だけだっただろうか? もう一件あった気がするんだが……。葵さんは覚えていないか?』


 そんな文面を見て、葵は目を細めた。

 どうやら記憶の消去は完全ではなかったらしい。こうして神の世は人の世に爪痕を残していくのだろう。

 だが、人がそれを認知する必要はない。神の力に逆らってはならない。


「――情報は必要とする人だけに齎されるべき。警察のあり方もそうでしょう?」


 智輝はその情報を必要とする人ではないのだ。当たり前に人の世で生きているのだから。

 葵のように、人の世と神の世の境を彷徨うようなことがあってはならないし、そうさせるつもりもない。

 それが人の身にどれほど重い枷をつけるものか、葵が一番熟知しているのだ。智輝に同じような枷をつけるなんて許せない。


「全てはパンドラの箱の中。不幸が溢れてしまうから、開けてはならないんだよ――」

 

 智輝への返信を打ち込む。『三件だけだったよ?』の一言で済む内容だ。

 こうすれば、世界の強制力が人の認識を修正する。智輝はすぐに記憶の空白を気にしなくなるだろう。

 送信まで済ませた葵は、予定どおり紅茶を淹れるためにキッチンに向かった。


 人の世と神の世の間に立つ人間は、その実、どちらの世界からも除け者になっている。それゆえに、葵はどちらの記憶も失うことはない。

 それが幸福であるなんて、思う人はいないだろう。いつだって、自身が異端なのだと、世界から突きつけられているようなものなのだから。


「なんだかとびきり甘い紅茶を飲みたい気分だなぁ……」


 キッチンに行った葵は、そこに見覚えのない紅茶葉の缶を見つけて、目を瞬かせた。

 おそらく一昨日智輝が持ってきたのだろう。これも智輝の記憶から消えているか分からないが、勝手に使ったところで怒るような男ではあるまい。


「……ふふ、すごくいい香り。これなら智輝並みの紅茶を淹れられるかな」


 缶を開けた瞬間に広がる豊かな香りに、小さな幸せを感じて微笑んだ。

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