第16話 空虚な器
「写真で分からないなら、実際に見てもらうしかないが、どうするか……」
「このぬいぐるみの、なにがそんなに気になっているの?」
悩む智輝を、葵が不思議そうに眺めていた。その手はドーナツに伸び、砂糖まみれのひとつを取り出している。葵が甘党だと知ったのはつい数日前のことだ。
甘い匂いだけでお腹いっぱいの智輝は、紅茶を飲みながら資料を
「まず事件概要を話そう。なにがどう繋がるか、まだ分からないからな」
「うん」
「一週間前の早朝、散歩中のご老人が公園内で倒れている男を発見した」
「ニュースで見たよ」
「ああ。結構大きく扱われていたからな。――倒れていたのは近所に住まう会社員の男。恨まれていたという話は今のところないが、執拗な刺し傷から、怨恨の線が強いらしい」
「恨まれているかどうかなんて、本人やその周囲は案外気づかないものだからね。意図せず恨まれるなんて、当たり前に起こりうる」
「……そうかもな」
こんな話を聞いていても、葵の意識の大部分はドーナツに向けられているようだった。いかに砂糖を落とさず食べるかに苦心している。
事件の話なんて、テレビの向こう側の話だと感じているのかもしれない。
智輝の仕事は殺人事件の犯人を見つけることではないから、葵の関心の薄さはさほど気にならない。
遺族のことや地域の治安を思えば、犯人が早く捕まるに越したことはないが。その捜査に智輝が手を出すことは許されていないのだから、どうしようもないのだ。
「――その事件現場に残されていたのが、このうさぎのぬいぐるみだ」
ローテーブルに放置された写真を指で弾く。そこでようやく葵の視線がドーナツから離れた。
「公園なら、ただの子どもの忘れ物じゃないの?」
「その可能性は高い」
「それなら、何故?」
「何故押収品とされているか、って聞いてるなら、それは事件捜査においてはありとあらゆるものを証拠になりうるものとして押収するからだとしか言えない。実際、まるで関係なさそうなものが、事件解決の決定打になることもあるようだからな」
「ふ~ん……。それで、その子を怪異現象対策課が調べるのはどうして?」
ドーナツを食べきったかと思うと、行儀悪く指を舐める葵に、ドーナツ店でもらっていたお手拭きを投げる。
「――このぬいぐるみ、勝手に保管室から出て来るらしいんだ」
「……出て来る?」
お手拭きの包装を破いていた葵がパチリと瞬きをした。まじまじと写真を見下ろすと、なぜか感心したような吐息を漏らす。
「凄く行動力のある子だね」
「……当たり前に受け入れられるのも、俺としては居心地が悪いんだが」
こういう返事を聞くと、やはり感覚が普通とは違うと実感する。普段はただの甘党で、少しずぼらな面がある極一般的な男なのだが。
「ぬいぐるみは結構動きやすいよ」
「……俺の常識にはない発言だ。どうしてかと聞いても?」
「うん。簡単に言うと、ぬいぐるみは人のように手足があって動かしやすい空虚な器で、霊が入り込んで干渉しやすいからだ」
「空虚な器……」
葵の話に耳を傾けながら、写真の中のぬいぐるみを見つめた。
「前に、霊は魂を内包した残留思念だと話したと思うけど」
「ああ。アパートの騒音トラブルについて調べたときだな。魂はエネルギー源になるから、魂を内包した残留思念である霊は長く留まりやすいと」
「うん。でも霊は肉体がないから、不安定なんだ。それで少しでも安定を求めようとする」
「何故、安定が必要なんだ?」
智輝の感覚では理解しにくい話が続く。
「魂がエネルギー源としてあるにしても、不安定な状態では、霊を消し去ろうとする外的影響を強く受けてしまって、残留し続けるためのエネルギー消費量が多いんだ。それでは早々に魂がすり減り、エネルギーが枯渇してしまう。器を外的影響への盾として使い安定すれば、より長くこの世に在ることができるんだよ。この世は霊の存在を許容せず、常に消そうとしているから、霊も対策を練るのさ」
「……なるほど。なんとなく分かった」
曖昧に頷く智輝を見て、葵が苦笑しながら肩をすくめる。
「器は家具や家電なんかでもいいのかと思うかもしれないけど――」
「それは言われて気づいた。こういうテーブルにも霊は宿るのか?」
「ふふ……そうなったら面白いよね。だけど、そういうパターンは凄く稀だ。付喪神なんかは一応それにあたると言えるかもしれないけど。話が逸れるから、今はその解説はやめておこう」
また新しい言葉が出てきたなと思ったら、さらりと流された。付喪神の話は少し気になるのだが、そろそろ頭が混乱しそうだから我慢だ。
「ぬいぐるみは基本的に子どもに愛されるものだ。子どもはぬいぐるみに話しかけ、手足を動かし、心のどこかで自分の友として応じてくれないものかと願っている。ぬいぐるみが人と同じように意思を持ち、動く可能性があるものだという共通認識があるんだ。その認識は人のような体を得たい霊とひどく相性がいいため、器になりやすい。家電が人のように動いてくれないものかと本気で思う人はそうそういないでしょう?」
「……家電が勝手に家事をしてくれたら楽だがな」
「それは確かに」
冗談で放った言葉を、真剣な表情で受け入れられたので、智輝の方が戸惑ってしまった。家電が勝手に動くのは、普通の感覚ではありえないと思う。
「……ぬいぐるみが動きやすい理由は理解した。じゃあ、このぬいぐるみはなにを思って保管室から出て来るんだと思う?」
「それを僕に聞かれてもねぇ。対面してもないし、この子が抱える思いはまだ分からない」
「結局、会わないとどうしようもないということか……」
悩みが振り出しに戻った。
二つ目のドーナツを選び始める葵を見ながら、智輝は言葉を探す。葵にぬいぐるみを直接見てもらうための方法がないわけではないのだ。
「――時に、聞きたいんだが」
「急に躊躇いがちだね。なに、そんなに面倒なことを言おうとしているの?」
葵が面白そうに笑いながら、智輝を上目遣いで観察していた。その手はチョコレートでコーティングされたドーナツを掴んでいる。
空になっていたカップに紅茶のおかわりを注いでやりながら、智輝は言葉を続けた。
「面倒と思うかは人それぞれだと思うが。……葵さんは早起きをどう思う?」
「え? 早起き? ……三文の徳的な?」
「一般的な感覚ではなくて葵さんの個人的な心情を聞きたいんだが」
「質問がまだるっこしい。智輝は僕になにをしてほしいの?」
遠回しな質問はばっさりと切られた。諦めて端的に言葉を紡ぐ。
「――明日の朝、一緒に警視庁に行ってほしい。勝手に出てくるというぬいぐるみと対面しよう」
「……なるほど?」
「できれば、早朝。夜番と早番が切り替わる頃がベスト」
「……それは、具体的には何時くらい?」
「朝五時か六時。ぬいぐるみが厳密に何時頃に出て来るか分からないから、待ってもらうかもしれないが。正直、怪異現象対策課は警視庁内でも胡散臭く見られているから、人目は極力避けたい。葵さんもあまり人目にさらされたくないだろう?」
葵が白目をむいた。イケメンが台無しだ。
「……それはそうなのだけどね。僕は結構な夜型人間だと自負している」
「それはなんとなく知ってる。ちなみに俺は、どちらかと言うと朝型だ」
来訪伺いをする度に午後を指定されるのだから、葵が朝に弱いというのは察していた。
「健康的でなによりだね。……そうか。うん、起きられる自信が全くない。むしろ五時は夜だという感覚で臨むべきか……」
「徹夜は推奨しないぞ? 睡眠不足は感覚が鈍るって、葵さんも言っていただろう」
「……目覚まし、うちにはスマホしかないよ……」
絶望的な嘆きと共に顔を歪める葵を見て、暫く考える。
葵は車を持っていない。朝早くに電車やタクシーで警視庁に来いと言うのはさすがに申し訳なかった。
ならば智輝が迎えに行くしかないわけで。智輝は比較的朝に強いと言っても人並みだ。無駄に早起きをしたいわけではない。
「提案なんだが――」
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