第8話 判然としない

 大家の部屋から車に戻る途中。智輝は葵の腕を摑んで引き止めた。葵がゆっくりと振り返る。葵は儀式のために自宅から持ってきた、白い着物に身を包んだままだ。その腕を離さず、智輝は葵をじっと見つめた。


 藤沢の妻幸恵が無事にこの世から旅立ったことは喜ばしい。だが、騒音トラブルと幸恵という霊が、どう関係しているか分からなかった。


「問題は解決したのか?」

「したよ。アパートは居住者の退去の上、取り壊し。この土地は売られて、いつか新しい家が建つ。その家に、心霊現象がどうのという問題も騒音トラブルも起きない。建築業者が手抜き工事をしない限りはね」

「……解決法が乱暴すぎる。騒音の原因はなんだったんだ? 霊か。建物の劣化か。……それとも、人間か」


 見上げたアパートの窓に木村の姿を認めて、智輝は言葉を付け足した。すぐに目を逸らす。

 葵の目をじっと見つめた。この件を引き受けたからには、智輝は報告書を仕上げる義務がある。曖昧な言葉で片づけてはならないのだ。


「……さてね。もしかしたら、そのどれもが原因かもよ?」

「葵さん。俺は警察官で、そんな曖昧な結論は認められない――」

「全てを明らかにすることが正義なの?」


 その言葉が非常に鋭いものに感じられて、智輝は一瞬返す言葉を失った。だが、すぐに手の力を強めて葵を見据える。


「それが警察の仕事だ」

「……まったく、智輝は、融通が利かないって言われない?」

「よく言われるな。長所だと思ってる」

「開き直りか。頑固者め」


 葵が揶揄混じりに呟いて、智輝の手にそっと触れた。力を緩めた拍子に、するりと腕が引き抜かれる。

 肩が凝ったと言わんばかりに手で擦る葵を、智輝は静かに見つめた。この期に及んで、葵が逃げるとは思わなかった。


「この格好じゃ人目につく。場所を移動しよう」

「……それは確かに」


 木村だけではなく、近隣の家からも視線を向けられている気がして、智輝はいそいそと車に向かった。背に軽やかな笑い声が響く。

 特殊な恰好をしている本人が、それをあまり気にしていないように見えるのが何故なのか、智輝は心底不思議だった。



 ◇◆◇



 葵の家に着いて暫く。

 着物を脱いで普段着に着替えた葵が、脱力気味にソファに腰かけた。


「……今さらで悪いが、霊を送る儀式というのは、葵さんに負担があるものだったのか?」

「本当に今さらだね。だけど、ありがとう。心配はいらないよ。僕が疲れているのは、ただの着物疲れだから。あれだよね。神様ってやつは、どうしてあんな重苦しい姿を好むんだろう?」

「……俺に聞かれても」


 日常生活で、神が身近にいるように話す人物と対面したのは初めてだった。なんとも返答のしようがなく、智輝は曖昧に言葉を濁してカップを傾ける。

 葵に許可をもらって用意した紅茶は、適度な渋みがあって美味しかった。母親が一時期英国かぶれしていたので、智輝も紅茶に関しては少々こだわりがある。


「……あ、美味しい」


 紅茶を飲んだ葵が、まじまじとカップを見下ろすのを見て、智輝は溢れる笑みを拳で隠した。

 喜んでもらえてなによりだ。紅茶葉や茶器自体、葵宅にはとても良いものが揃っていたので、智輝も腕のふるいがいがあった。


「体調が大丈夫なら話に入りたいんだが」

「いいよ。……といっても、僕がなにもかも知っていると思ったら大間違いだからね」

「……どういう意味だ?」


 釘を刺すように言う葵に首を傾げる。

 智輝には、葵が全てを理解した上で、幸恵を送るという結果に導いたように見えていた。


「僕に見えていて、聞こえていたのは幸恵さんだけだったということだよ。まあ、あそこの土地の性質とかも分かってはいたけどね」


 行儀悪くカップを両手で抱えた葵が、味わうように紅茶を飲みながら呟く。その顔が湯気で滲んで見えた。


「彼女は大家さんを心配してこの世に留まっていたし、今回調査している問題に少しばかり関わっていたのは事実だ」

「どういう関与を?」

「音だよ。木村さんが聞いたという不快な音は、一種類じゃなかっただろう? その内のいくつかは、確かに幸恵さんによるものだったんだろう。彼女が意図したわけではないにしろ、ね」

「……霊は物音を立てるのか?」

「わぁお、凄く今さらな疑問だね!」


 智輝自身どうかと思ったが、やはり葵に面白がられた。

 だが、考えてみてほしい。心霊という存在そのものを信じていなかった人間が、心霊現象というものに対して、真正面から理解しようと取り組めるだろうか。

 葵には偉そうに警察官の矜持だなんだと語ったが、感情の部分で理解を拒んでいた自分に不意に気づいたのだ。


「……悪かった。良ければ教授願えないだろうか」

「そんなにへりくだって言わなくてもいいんだよ? そういう存在を感じ取れない人が、心の奥底で存在を疑うのは当然だ。むしろ、感じ取れないものを、無思慮に受け入れる方が危ない。智輝は人として非常に冷静で優秀だよ」


 葵が智輝の心を宥めるように言った。それでようやく、智輝は気まずい思いから解放される。


「霊が物音を立てるか、だったね」

「ああ。ポルターガイスト、とかは聞いたことがあるんだが、あれは本当に起こるのか?」

「ポルターガイストねぇ……」


 葵がカップをローテーブルに載せながら、皮肉っぽく呟いた。どうにも葵の心をざわつかせる言葉だったらしい。


「学術的にそれを解説すると長いことになるんだけど、聞きたいかな?」

「学術的……。いや、今は遠慮しておこう。もし、参考になる論文等があるなら、教えてもらえると助かる」

「智輝、本読むと眠くなるんじゃないの?」

「それはそうだが、教科書等は普通に読めたから大丈夫だろう。……俺は、本を読んだら眠くなると、葵さんに話したことがあったか?」


 何気なく聞いたら、会話が止まった。思わず葵に視線を向ける。

 表情を失った顔がそこにあった。


「……葵さん?」

「……いや、そうだね、うん、どこかで聞いた気がするよ」

「葵さんが知っているのだから、そうなんだろうが……」


 笑顔を浮かべ直した葵が、取り繕うように言うのに合わせて頷く。だが、智輝はじっとその挙動を観察した。


 前にもこんなことがあった。まるで智輝と葵の過去に接点があったと示唆するように。

 だが、いくら辿っても、智輝の記憶の中に葵の姿は見当たらない。こんなに目立つ容姿の男、一度出会っていたならば忘れないと思うのだが。


「霊の物音の話だね。結論を言うと、霊による物音は普通に起こり得るよ」

「……どうやって?」


 また誤魔化されたと思いながら、智輝は説明を促した。葵との記憶にない関係は気になるが、今は仕事の話が優先だ。


「どうやって、か。難しいことを聞くね。それに答えるには、まず霊とはなんなのかという概念の共有が必要だ」

「……ああ?」


 よく分からない話になってきたぞ、と思考停止しようとする自身の脳を叱咤して、葵の話に耳を傾けた。


「僕は、霊とは残留した思念だと考えている。――ところで思考のためにはエネルギーが必要だということは、智輝も理解できるかな?」

「それは十分に分かる」


 現在、智輝はそのエネルギーを振り絞っているところだ。心から理解できた。


「思考の際に消費されたように見えるエネルギーは、実は思念を残留させるためにも使われているんだ。思考と思念が同一かというのも議論が必要だろうけど、今は単純に、思考がより強く深まったものを思念と定義することにする」

「……ああ」


 この段階で、智輝は余計なことを聞いてしまったと、過去の自分の行いを後悔していた。だが、一度滑り出した葵の口は、留まるところを知らない。

 嬉々とした様子で語る葵に、智輝は諦念に満ちた心で向き合った。

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