第7話 愛に囚われる
「――鍵、ありがとうございました」
「いえいえ、お役に立てたなら、良かったですよ」
再び藤沢の元を訪ねて鍵を返す。穏やかに受け取る顔を、じっと見つめた。
智輝が田島の気持ちを想像で代弁してもいいものか迷っている。田島本人を知らないのに、勝手にその心を推し量って伝えるのは無責任な気がした。だが、藤沢が気に病み続けるというのも憐れである。
「あの――」
「少々お話をよろしいですか?」
智輝の言葉を遮ったのは葵だった。
思わずその顔を見れば、ひどく真剣な表情で藤沢を見つめている。だが、時々その眼差しが藤沢の背後にずれているようにも感じられた。
葵がこの部屋で見たものを、智輝はまだ聞けていない。だから、これからなにを言うつもりか、予想はできても確信がなかった。
「はあ、構いませんが。私が話せることは、もうないですよ?」
戸惑う藤沢に頷きながら、葵が再び玄関をくぐった。それに押されるように、藤沢が居間に移動する。
智輝は葵を止めることなく後に続いた。
居間に腰を落ち着けたところで、葵が口を開く。その目は卓袱台の一角に向けられていて、それに気づいた藤沢が、動揺した目でそこにある座布団と葵を見比べた。
「――奥様、とても素晴らしい方だったようですね」
「ええ……私には、勿体ないほどで……」
「とても優しくて、愛情深く……あなたのことを、とても心配しておられた」
「……っ、ええ、本当に。亡くなる間際まで、独りになる私のことを心配して。もっと、自分のことを、考えればよかったのに、っ……」
藤沢の目に涙が
葵の声は透明で、それぞれの心に沁み渡るように響いた。
「奥様は、田島さんの死に、あなたのこれからを重ねていた。ご自身は、余命宣告を受けて先が分かっていたからでしょう。ご自身の終わりは冷静に受け止めていましたが、独りになるあなたのことを思うと、心が張り裂けそうだった」
「っ……幸恵さんっ……最期まで、心配をかけてしまったねっ……」
藤沢が卓袱台に泣き伏した。その頭を、智輝はじっと見つめる。葵の言葉は、智輝の心にも突き刺さるように届いた。
暫く藤沢の泣き声だけが響いていたが、それが弱まった頃に、再び葵が口を開く。
「――箪笥の一番上、奥にお菓子の缶があります。昔、あなたが奥様にお土産として買って来られたものです」
「お菓子の缶……?」
呆然とした顔の藤沢が、膝の痛みも忘れたような仕草で立ち上がった。
箪笥を探り、手に取ったのは、臙脂の古びた缶だ。クッキーでも入っていたのだろう。
「これは……幸恵さんが好きだと言っていたお菓子で……缶をとっておいたとは知らなかった……」
懐かしげに缶を撫でた藤沢が、それを手に卓袱台に戻って来る。葵がなにかを言うより先に、その蓋が開けられた。中に入っていたのは、一通の封筒と、パンフレットのようなものだった。
「これは……」
藤沢の手が封筒に伸びる。封筒が開かれ、何枚にも及ぶ手紙が取り出された。
目が無心でそこに書かれた文字を追っている。その目から涙が零れ落ちていった。皺だらけの手が頬を拭い、鼻をこする。智輝はそっとハンカチを差し出した。
藤沢の妻がなにを書き遺したのか。智輝にはなんとなく分かる気がする。缶に入ったままのパンフレットを見て、藤沢が読み終えるのをじっと待った。
「……ああ、そうか……私は、ここにこだわってはいけないんだな。幸恵さんが遺したものだと思って、踏ん切りがつかなかったんだが……。そうか、幸恵さんもそれを望んでいたのか……」
手紙を卓袱台に置いた手が、パンフレットを取り出す。老人ホームの資料だった。綺麗で快適そうな施設内の写真が載せられている。
「……幸恵さんは、私にこのアパートの土地を売って、施設に入ればいいと言っているみたいです。この施設、幸恵さんの友人の家族も行っているようでね、とてもいいところなのだそうですよ。入所料はそれなりに高いが、ここの土地を売れば十分おつりがくる。幸恵さんの家系で継いできた土地を、私がどうこうしていいか躊躇っていたが、彼女が言うならば――」
「ええ、あなたが幸せなように、奥様は生きてほしいと願っていますよ」
「っ……そうか……そうか……。そうなんだなぁ……」
藤沢が部屋を見渡した。ここで過ごしてきた日々を振り返っているように感じられた。
「寂しいですが……幸恵さんの言う通りにしようと思います。ここにいると、悲しみが募るだけなので……」
その寂しげな笑みに、智輝と葵が同時に頷いた。
藤沢が暫く目を閉じた後、強い眼差しで葵を見据える。
「……あの、あなたは、幸恵さんの姿が見えるのですか? 声が聞こえる?」
「そうですね」
あっさりと肯定する葵に、藤沢が嬉しげに目を細めた。
「そんな方がいるとは思っていなかった。ありがたいことです。……妻は、他になにか言ってはいませんか?」
「……食事はきちんと摂りなさい、と。酒は一日一杯まで。飲み過ぎは禁物ですよ、と咎めていらっしゃいますね」
「ははっ……その姿が目に映るようだ」
藤沢の目が座布団のあたりを彷徨った。そこが、妻の幸恵の定位置だったのだろう。
「……つかぬ事をお伺いします。できれば……お願いもあります。無理ならば、そう言っていただければ構いません」
「なんでしょう?」
前置きした藤沢の言葉を葵が促した。その表情は藤沢の質問を察しているように見える。
「死んだ者が、この世に残るのはいけないことですか」
「僕にその善悪を語る資格はありません。僕も、所詮今を生きる者でしかありませんから。ですが、死した者を長く見てきた者として、意見を言わせていただくならば……この世に留まることは、良い結果を生みません。幸い、この地は浄化の作用が強く、暫く留まっておられる奥様に悪影響はまだ見られません。ですが、この先どう変わるか予想がつかないのです。他の例に照らせば、生前の意思を失い、無為にあるだけの存在になるか、魂ごと消滅するか……。悪い方に向けば、誰かに害を為す存在に堕ちる可能性も……」
葵の言葉は重く響いた。それを受け止めた藤沢は、目をきつく閉じて細く息を吐く。
「……あなたは、霊を天国に導くことが可能ですか」
「それをお望みでしたら」
返答は簡潔だった。意外そうに目を開けた藤沢が、葵をまじまじと見つめる。
「霊を見ること、その話を聞くことが、すなわち霊への対処法を持っていることと同義ではありません。ですが、僕ならば可能です。……奥様をお送りすることを望みますか?」
「……おいくらほど、かかりますか」
にわかに、藤沢が警戒心を抱いたようだった。智輝は葵を呆れた目で見る。葵の言い様は、まるで詐欺師のようだと思ったのだ。
藤沢と智輝の目に気づいた葵は、納得しがたいと言いたげに眉間に皺を寄せた。
「個人からお金はいただいておりません。これは警察に協力している仕事の一環ですので」
「警察に……」
藤沢の目が、今度は智輝の正気を問うように向けられた。
確かに、一般的に超常現象をないものとして処理しているイメージの強い警察が、心霊現象への対処として、霊能者の類に協力を依頼しているとは信じがたいだろう。智輝だって、未だにあまり信じられないでいるのだ。
そのため、智輝は藤沢に苦笑して頷くしかなかった。
◇◆◇
藤沢の妻、幸恵を送る儀式は、しめやかに執り行われた。
そこには藤沢だけでなく佐々木もやって来た。葵が連絡していたらしい。いつの間に連絡先を交換していたのか、ずっと共にいたはずの智輝も知らなかった。
「つつしみてかんじょうしたてまつる――」
神道は日本古来のものだが、智輝はあまりその方面に明るくなく、儀式の前に葵にこっそりと聞いて知った。正直、祝詞もあまり知らないので、葵がなにを言っているのかよく分からない。
だが、なんとなく場が清められていく気がした。
どれほど祝詞を聞いていただろうか。不意に空気に溶けいるような声が響いた。
『――宗次郎さん』
「っ、幸恵さんっ! どうして、声が……?」
『私の人生はあなたのおかげでとても幸せなものでした……。あなたは、どうか元気で、長生きしてくださいね。私は、あなたが来るまでゆっくりと待っていますから。急いで来たら、いやですよ? 楽しんだお話、あとでゆっくり聞かせてくださいね――』
「っ、ああっ、分かった……っ……分かったよっ……。たくさん、土産話を持っていくからな……っ。私も、幸恵さんと一緒に過ごせて、とても……とても幸せだったよっ……」
藤沢の泣き声と葵の祝詞だけが部屋に響いていた。
柔らかな女性の声が、本当に聞こえたものだったのかは分からない。ただ場の雰囲気に流されて、そうであればいいと思った気持ちが生み出した、幻聴だったのかもしれないとも思う。
「――でも、これが現実ならば、幸せだよな……」
ぼそりと呟いた智輝の言葉に、隣に座っていた佐々木が神妙な面持ちで頷いた。
「――かしこみかしこみもうす」
流れるような祝詞が終わりを迎えた。澄んだ空気が場を満たし、不用意な行動を躊躇わせる。
「藤沢さん。奥様は、無事いかれましたよ」
「ありがとうございますっ……。ありがとうございますっ……!」
泣き伏しながら告げられる感謝の言葉は、智輝が藤沢を支えて奥の部屋に連れて行くまで続いた。
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