第6話 漂う哀愁

 夜まで勉強して時間を潰すと言った佐々木を図書館に送り届け、智輝は葵と共に再びアパートに戻ってきていた。

 アパートの住人である半田は、まだ帰ってきていないようだったが、できれば大家の話を聞きたい。騒音というどこにでもありそうなご近所トラブルの相談が、怪異現象対策課に預けられたのは、やはり大家の心霊現象という言葉があったからなのだ。


「……本当に、帰らなくて大丈夫か?」

「しつこいなぁ。大丈夫だって。この件を片づけてから原稿やるからね」

「すぐ片づくようならいいが」

「……まあ、そうだね。きっとなんとかなるよ」


 含みのある言葉だと思った。横目で見た葵は、アパートを眺めてなにやら思案げだ。

 大家の部屋はアパートの一階にある。

 このアパート、一階にも他の住人の登録があるのだが、長期出張中の荷物置き場として使われていて、ほとんど在宅していないらしい。佐々木からの情報だ。大家の奥さんと仲が良かったためか、彼はなかなか情報通だった。


「ここだね」

「ああ……在宅してはいるようだな」


 大家の部屋の玄関前に立つと、中からテレビの音が聞こえた。壁が薄いという問題以前に、テレビの音量が大きいらしい。耳が遠くなってきているようだと佐々木が言っていたのを思い出す。

 呼び鈴を鳴らすと、僅かに物音が聞こえる。ひどくゆっくりとした動きの音だった。


「――はいはい、お待たせしてすみません、どちらさまですか?」

「お忙しいところ申し訳ありません、警察です」

「警察……なんの御用で……?」


 大家がおどおどと視線を泳がせた。警察と聞いた人にはよくある反応だ。やましい心当たりがなくとも、威圧的な身分に感じられて動揺するらしい。

 耳が遠いことを考慮して、心持ち声を大きくして説明をする。


「騒音トラブルの相談がありまして、捜査しています。大家さんにお話を伺いたいのですがよろしいですか?」

「ああ、ええ……それは構いませんけども……そう、警察に相談が……」


 大家は表情を曇らせた後、二人を部屋に招いた。

 居間に通されてすぐ、立派な仏壇が視界に入る。優しげな老女が微笑む写真が添えられていた。


「……お線香をあげてもよろしいですか?」

「ええ、どうぞ、ありがとうございます」


 仏壇の前に敷かれた座布団に座り、そっと手を合わせる。写真から、大家の奥さんの優しい人柄が伝わってくる気がした。


「……葵さん?」


 智輝の傍で立ち尽くしている葵に気づき、そっと声を掛けながら見上げる。大家はお茶の準備をしてくれているようだ。


「……いや、なんでもないよ」

「なんでもない顔に見えないが」


 葵はぼうっとした顔で部屋を見回し、古風な卓袱台ちゃぶだいの傍に視線を留めた。暫しそのまま固まったかと思うと、僅かに頷く。

 智輝もその視線の先を見るが、そこには使い古した座布団が置かれているだけで、他に注目すべきものがあるようには思えなかった。

 ……これは、あれだろうか。葵の特殊な能力。葵は今、智輝では見ることができない世界を見ているというのか。


「――僕も線香をあげさせてもらうよ。智輝、代わって」

「あ、ああ……」


 言われるがまま立ち上がり、卓袱台の方に移動する。葵が見ていたところに座ろうとは思えなかった。



 暫くして戻ってきた大家と話を始める。不自然に卓袱台の一角に空きがあるのだが、智輝以外の誰も、それに不自然さを感じていないようだ。


「私は藤沢ふじさわ宗次郎そうじろうです。長いこと、ここの大家をしています」

「警視庁の神田です。こっちは捜査に協力してもらっている榊本といいます。……藤沢さん、早速ですが、最近の騒音トラブルについてお聞きしてもいいですか」

「ええ、まあ、いいですが……警察にお話しするようなことでは……」


 大家の藤沢は話すことを酷く躊躇っているようだった。警察に対して心霊現象がどうのと、眉唾物の話を言って聞かせることを恥だと感じているらしい。


「木村さんに話を伺いましたが、二階の空室から音が聞こえるらしいですね。藤沢さんはそれを心霊現象だと話していたそうですが」

「お恥ずかしい話です……。どうにも理由が分からなくて、あのお人が私を恨んで、騒ぎを起こしているのだと思った次第で……」

「恨んで? あのお人というのは、その部屋で亡くなったというご老人ですよね?」

「……田島たじま恭吾きょうごさんという方で、どうも天涯孤独だったようです。私は、田島さんの最期を傍で看取ることができなかった。独りで寂しく死んでいったとき、田島さんはなにを思っていたのか……」


 メモをとりながら頷く。質問を続けていくと、藤沢の田島への共感のような気持ちが伝わってきた。


 田島は天涯孤独で、その最期の頃を世話していたのが藤沢夫妻。だが、藤沢の妻幸恵ゆきえが病に倒れたころから、その余裕がなくなり、田島が死んだのに気づいたのも、通報を受けた警察に合い鍵を求められたときだという。

 藤沢はそのことを酷く悔やんでいるようだ。独りで死なせてしまったと呟きながら、その最期に自身の終わりを重ねて見ているようにも感じられる。


 確かに、妻を亡くした藤沢の現在は、田島のおかれていた環境に似ているのかもしれない。元はきちんと整頓された部屋だっただろうに、所々に物が散乱している居間を見て、智輝は寂しさのような思いを抱いた。

 人は必ず年をとる。それが寂しいものに思えるのは、藤沢に活力がないからかもしれない。長く連れ添った伴侶の死が、それだけ藤沢に影響を与えているのだろう。


「田島さんが幽霊になっていたとして、私はどうすればいいのか分からないのです……。寺や神社に頼んでどうにかなるものでもないでしょう?」

「そうですね……。私の方でできるだけ対処したいと思います」

「……それはありがたいです」


 そう呟きながらも、藤沢は『警察になにができるのか』と言いたげな表情だった。


「……田島さんの部屋だったところを、見せていただいても構いませんか?」

「ええ、問題ありませんよ。清掃はしましたが、入居者は現れなかったので……」


 藤沢が膝を押さえて立ち上がり、箪笥たんすの引き出しから鍵の束を取り出した。

 どうやら膝を痛めているらしい。これは二階に同行してもらうのも申し訳ない。


「あの、鍵だけ貸していただければ、勝手に見させてもらうので。誓って、部屋を傷つけたりはしません」

「お気遣いありがとうございます。どうも体のあちこちにガタがきてましてね。おんぼろなアパートですから、傷だとか気にしなくて構いませんよ。ですが、お心遣いは有り難く受け取らせてもらいます」


 鍵を一つ差し出された。二〇二の札がついている。

 智輝は藤沢に後で返しに来ると約束して部屋を後にした。葵は最後まで、卓袱台の一角を見つめて黙っていただけだった。



 ◇◆◇



「――葵さんにはなにが見えていたんだ?」

「そうだねぇ……まあ、色々かな」


 階段を上りながら小声で問う。木村が耳をそばだてていても、この声は聞こえないだろう。

 智輝の問いに答える葵の声は、複雑な感情で揺れていた。その顔を横目で見て、智輝は小さくため息をつく。

 心霊とか怪異とか、今も信じていないのは確かだが、葵が見ていた場所に座るのを避ける程度には、智輝の感情はその現象に理解を示し始めている。そもそも、心霊を信じるか否かというのと、罰当たりなことをするかどうかというのは、イコールで結ばれないものであった。


「その色々を聞きたいんだがな――」


 そう言ったところで二階の部屋に着いた。藤沢から借りた鍵を差し込み、ガチリと開く。扉はギギッと耳障りな音を立てて開いた。

 階段を上るときも思ったが、やはりこのアパートはどこもかしこも劣化していて、危なっかしい。近隣の人が苦情を言うのも仕方ない気がした。

 だが、田島が住んでいた部屋は、新品同様とは言い難いが、木村の部屋と比べれば雲泥の差がある綺麗さだった。物がないからこそだろう。


「……綺麗なものだ」

「うん。清掃を専用の業者に頼むのも、お金がかかっただろうな」


 靴を脱いで上がりながら、小さな部屋を見渡す。この部屋で一人の老人が亡くなったのだと思うと、不思議な気分だった。


「……なにもない」

「そうだね、なにもない。思念もなにも、ここにはないよ。きっと、その田島さんという人、藤沢さんを恨む気持ちなんて全くなかったと思う。むしろ、感謝の念を抱いていたんじゃないかな。昨今さっこん、独居老人は、アパートを借りるのも難しいからね。その上、なにくれとなく世話をしてくれていた人を、恨むはずがない」

「……そうだな。俺は思念とか分からないが、本当にそう思う」


 ここは、人が亡くなった部屋とは思えないほど、暗い印象が全くない。それは、葵のようになにかを感じ取る力がない智輝でも、はっきり分かることだった。

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