第19話 サクラの生い立ち。そして火
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――焦げ臭い。
記憶の中の、まだ2人が何も知らず知らさずに『幸せ』だった頃の、その思い出の写真が、強い火に炙られ四隅から焼け焦げていく。
無数にあったそれらが宙に舞い、瞬く間に燃えて灰となり、あるいは醜く溶けて縮んでゆく中で、俺はただボーっと立って、佇んで、それを眺めていた。
ふと。
足元に1枚の写真が舞い落ちる。
拾い上げたその写真の中では、サクラが目を細め微笑んでいた。
満開の桜の木の下で、カメラを向けた俺に向かって何の屈託も無く笑んで見せたその表情は、今ではもうけして見ることの出来なくなった、優し気で、柔和で、満たされていて、愛し愛され、愛がどうやって形作られるか、それを分かっている顔、そういうものだった。
ふわっ。
でもその写真も、思い出も、次の瞬間には掌の上で、あたかも始めからそんなものは無かったんだとでもいうように、燃えて消失してしまった。
――熱い。
熱気に肌を焼かれる痛み。
台所の一隅。
ガスの青い炎。
コンロに山と積まれ燃え焦げながら舞い飛ぶ写真たち。
火。火。火。
やがて周りに投げ捨てていたゴミに、窓を覆うカーテンに、壁そのものに、じわりじわりと火は燃え広がって……。
▼▼▼
『サクラはメンタル弱い系女子である』
……今更にはなるが、最期に少しだけ俺なりにサクラの事を語って置こうと思う。
まぁ嫌がらず聴いて欲しい。
サクラは俺の2歳年下の後輩で大学のサークルで知り合った。
第一印象は、陽気で活発。
それでいてどこか陰があると言うか。
苦労も知ってる、けしてバカじゃない感じ。
浅黒い肌。
身長150センチ未満。
だが実に女性的な曲線の目立つ身体で。
セミロングなボブで、明るい色の猫っ毛。
男からも、女からも慕われる、なんというか周りが放っておかない感じの娘。
そんな人気者な彼女に、俺の方から告白した。
勿論、最初は見事に轟沈。
この頃サクラにはすでに同い年の彼氏が居て、俺のことなどお呼びではなかったのである。
が、しかし。
最初の告白&轟沈から1年位経った頃。
サクラは同い年の彼氏と別れた。
俺は再びチャンスが巡ってきたとばかり、サクラを遊びに、デートに誘いまくった。
その猛攻が功を奏して、またちょっと卑怯だがアルコールの力も借りて、俺たちは「そういう関係」になった。
そこから正式に付き合うようになるまでには、まだそれなりに色々とあったけれど、いざくっついてみれば2人は本当に相性バッチリで、互いが互いを必要不可欠な存在として、またそれが一生に渡って続いていくのだろうことは容易に信じることが出来た(と、思っていたのは俺だけだったかも知れないけれど)。
晴れてカップル。
ようやくカレカノ。
思えば、この頃が俺たち2人の絶頂期だったのかも知れない。
不安の影は、不意に現れた。
サクラの情緒の、メンタルの『不安定さ』だ。
浅い内はまるで気付けなかった。でも付き合いが深くなるにつれ、一緒に過ごす時間が多くなるにつれ、それは徐々に姿を見せ始め、やがてハッキリと現れるようになった。
『鬱』。
現代病としては、さして珍しいものでもないのだろう。一説では日本人の2~3%は経験するという、それくらいポピュラーと言っても差し支えないものだ。
ただ。
そうは言っても。
俺には全く未知で無知のことで。
まぁ当然の如く、俺は混乱した。
サクラの症状は、分かりやすく言えば軽度の鬱(抑うつ症状)というやつで、とかく情緒が不安定になりやすく、また心の不調がモロに体調にも影響するタイプだった。元々華奢で体力もなかったから、寝込んで動けなくなることもしょっちゅうだった。
一見、明るく社交的な性格なのだが、その裏で、皆に見せていないところでは、感情の抑制が下手で、泣き始めると止まらない、いや止められないところがよくあって。嫌な記憶のフラッシュバックをしばしば起こし、そうなるとひたすらに泣く。泣いて泣き過ぎて過呼吸になることもあれば、一転、攻撃的になることもある。一度などは、泣きながら一晩中俺を殴り続けたことなんかもあった(サクラ自身はそのことをハッキリと覚えていなければ、また俺を殴った理由も分からないらしい。とにかく『わーっ!!』となって自分を抑えられなくなるとのこと)。
『鬱の原因』。
その1つは、間違いなく彼女の母親にあるだろう。
サクラの母親は、いわゆる『毒親』だった。
一口に『毒親』と言っても様々だろうが、サクラの母親の場合は典型的な『過干渉』『マイルドな支配』『ネガティブな愚痴を言い続ける』というパターンであった。
また教育ママ的な側面もあって、幼い頃からバレエやピアノなどの厳しい習い事にも無理矢理行かされてきたそうで、その頃の体験や幼心に感じた思いも、後の人格形成に大きく影響しただろう。
父親も父親で、工芸の職人なのだが、気に要らない事があるとちゃぶ台をひっくり返すような性格の人で、また仕事一筋で家庭を顧みず、酒好きで遅くまで飲み歩き、果ては浮気なんかもしていたらしい。
更に加えて言えば、サクラの家はけして裕福と言えるような経済状況にはなかった。元々は母親の実家がそれなりに良い家で、援助も度々してくれていたそうなのだが、祖父が亡くなった頃からはそれもだんだん難しくなり、しょっちゅうお金で苦労している両親の姿を目にしていたそうだ。
そうした諸々の当然の帰結として、サクラの両親は不仲で、夫婦の間では喧嘩が絶えなかったという。
食器の割れる音。
床にぶちまけられた食べ物。
怒鳴り合う両親の声。
母親が殴打され、部屋に響き渡る悲鳴。
そして啜り泣き。
子どもを道連れにして出て行く、出て行かない。
最後にはこの子たちといっしょに死ぬ!
死んでやる!
いっそ、アンタが殺してよぉおおおっ……!
サクラには3つ下の弟が居るが、幼い頃はその弟と抱き合い、両親の喧嘩が終わるのを、嵐が過ぎ去るのを待つように、ただひたすらと震えながら待っていたそうだ。
そういった訳で、そんな絵に描いたような荒れた家庭環境で育てば、サクラが成長する過程で、メンタルのどこかに不具合を発生させてしまうのは、至極当然のことだったろう。
そしてそんな家族の忌まわしい悲劇は、サクラが奨学金を背負って大学に通うようになっても、まだ現役で続いていたのである。
そのことを知って。
戸惑いもしたし。
恐れも抱いたが。
でも。
それでも。
俺は、サクラを守ってやりたい、救い出したいと、本気で思ったのだった(今なら分かる。自分の言っていたこと、しようとしたことが、まるで『お花畑』な発想だったことを。だってその頃の俺は、大学卒業を目前にしながら就職活動の1つもしないで、卒業後はフリーターになりつつも夢を追い掛ける! とかヌカしていた、ただの世間知らずのバカだったのだから)。
▼▼▼
さっきサクラも言っていたが、俺たちは『結婚』することになった。
正確に言えば、結局は『籍』を入れていないのだが。小さくてもれっきとした結婚式を挙げ、名実共に『夫婦』となるまでの準備期間として、予定した式の半年程前から先んじて同棲生活をスタートさせた。
俺は夢見ながらも派遣社員として一応の収入を得るようになり、サクラもまた大学を卒業してWEBデザインの会社に見習いスタッフ(という名の薄給バイト)として勤務し、てんで底辺寄りだけど、2人の収入を合わせて暮らせば、まぁなんとか『結婚』ってことにしてもイケるんじゃないか? と思えるくらいにはなっていた。
だから俺は、毒親の居る家庭環境から、少しでも早くサクラを救い出してやりたかった。自分の腕の中に囲って、もう大丈夫だと、心配いらないと、これから怯えることなく暮せば良いと、そう言ってやりたかった。
……でもそれは結局。
当のサクラからしてみれば、1つの『支配』からまた別の『支配』にスライドしただけのことで。
『自由』、なんてものをサクラは手にして居なかったのだ。
誰かの庇護下に入るのじゃなく、独立独歩で、精神的にも経済的にも独り立ちするしか、そうすることでしかサクラが真に『自由』になる方法なんてのは無かったのだ……と、それが今ならよく分かる。
その事を彼女は知らなかったし、これまで誰も教えてこなかったろうし、勿論俺も教えはしなかった。卑怯? 確かにそうかも知れない。でも俺だって最初からこれらの事を全て分かっていた訳じゃない。それに俺自身は『支配』などとは一切思わず、ただ『庇護』していると思っていた。
そして、これはおそらくだが……たとえ『自由』を得る方法を知ったとしても、彼女は、サクラは、そうする道を自らでは選ばない、いや、選べなかっただろう。
だから、俺、イルマミキトという『支配/庇護』の下の居心地が悪くなった時、あっさりとそこから逃れて、また別の、ゆみちーという男の下へとスライドしていったのだ。
誰かの『支配』に入ることでしか『幸せ』を求めることが出来ないのだとしたら、最初にその『価値観』を植え付けた親の罪は重い。
親に、または己以外の誰かに始終『依存』せざるを得ないようにする、それは『洗脳』だ。
そうした生き方しか知らない。
そうする『価値観』しか身に付けさせて貰っていない。
1人で生きていける、などとは教えて貰えず、むしろ自分は誰かの下でしか生きちゃいけないんだと、ずっとそう教えられてきたサクラ。
実はそれを間違ったことだと、社会という広い世界に触れて新たな出会いを経験すれば、何となくでも自ずと気付けるものなのだが。
けれどそれを言い出せなくて、動き出せなくて、表に出すことさえもできなくて。
耐えて。
忍んで。
最後には自分を『支配』している誰かの言葉に、『価値観』に従うことが正しいのだと、そう信じさせられて、ずっと生きてきた。
ずっと、親とも。
それまで付き合った彼氏とも。
友達とも誰ともぶつからずに生きてきた。
だから。
そういう意味では。
俺は。
イルマミキトこそが。
初めてサクラと、面と向かってぶつかった存在だったんだ。
彼女に『支配』を気付かせたのは俺だ。
親の与えた『価値観』でなくても良い、自分の生きやすいように『価値観』なんて変えたって良い、そう教えたのは俺だ。
俺と出会って。
俺と一緒に居て。
俺と一緒に生きようとして。
でも、結局それだと俺という別の『支配』の下に入るだけだと気付いて。
初めて。
本当に初めて。
俺たちがぶつかることで、ようやくサクラは変わり始めようとしていたんだ。
辛かったが、俺はそれが誇らしくもあった。
………でも。
少しだけ、きっと、ほんの少しだけ、サクラにとっては急過ぎたんだろう。
『いっぱいいっぱい』のサクラには、1度に抱えられる量じゃなかったのだろう。
だから。
サクラはまた逃げ出したのだ。
俺、ミキトという『支配』に気付いて、面と向かって対峙して、それに打ち勝って、新たな自分に生まれ変わる。相手と対等でいられる自分に成長する。そして今度こそ『支配』だとか『依存』だとか、そういう歪んた関係じゃなく、ただ2人の男女が、人間が、寄り添い助け合い互いに尊敬し愛し慈しんでそうしてそうしてそうして『幸せに』生きていく、そうなれる チャンスを!
サクラは自ら手放したんだ。
そうして選んだ間男ゆみちー。
それはただ、甘えて逃げて、それまでの自分と変わらずにいられるインスタントな『相手』と『場所』で。そしてやっぱり、どうしたって捨て去ることの出来ない『価値観』だったのだ。
……結局。
サクラはどうしたかったんたろう?
どうなりたかったんだろう?
変えたかったのか?
変わりたかったのか?
その心の奥底では一体何を思って……。
いくら言っても、いくら考えても、いくら思いを馳せても、もう分からないことだ。もはやずっと永遠に、分からない、分かるはずがない、だっておそらくサクラ自身にも分からなかったのだから。
ただ一つ。
ハッキリしているのは。
心の奥底でどう思っていようと。
サクラは『逃げた』という事実がある。
人生というやつは本当に選択の連続で。その時々の選択が、その人がどういう人間なのかを教えてくれるし示してくれる。
すなわちそういうことなのだ。
サクラは逃げた。
だから、そういうことなのだ……。
▼▼▼
――などということを思いながら俺は、足元で胎児のように蹲り横たわっているサクラを見下ろした。いつの間にか、もうとっくに彼女の身体は冷たくなってしまっていて。
「……サクラ?」
掠れた声で呼んでみても、勿論応えてはくれないのだった。
ガラスの破片で切り裂いた彼女の首筋から、ほんのついさっきまで、ドプドプと止めどもなく血液が溢れ出ていた。その赤黒い、30センチほどの大きさの血溜まりは炎の赤い光に照らされ、なんだか妙にヌラヌラと、爬虫類の皮膚のような光沢を放っていて。
なんだかグロテスクな。
まるで映画の宇宙生物みたいな。
ホラーゲームの化け物みたいな。
サクラとは別個の。
まるで異なる一個の存在のように見えて思えて。
だから、なんだかコレが、この血溜まりがサクラの中に収まっていたものだと信じられなくて。
思わず、
「……そうか。コレが…………そうなんだ!」
血溜まりを見下ろしながら小さく呟いた。
そうして気付いた。
確信した。
確信したら、なんだか怒りが湧いてきた。
「あぁ、そうか。そうなのか! コレがサクラの中にあったから! この汚いものが! 宇宙生物が! ホラーな寄生虫が! サクラを病ませて苦しませていたあらゆる原因で、あのどうしようもない毒親に植え付けられた『価値観』みたいなもので! それで、それで、いま! ようやく! 全部出ていったんだな。サクラの中から! そうなんだな! なるほど。なるほどな! 人をサクラを内側からダメにする、心底腐らせるその原因って奴は、こんなにも汚なく濁った色をしているものだったんだな! 『価値観』! 『価値観』! サクラをダメにした、殺した『価値観』!」
俺は。
もっと早く。
そんなものから1秒でも早く。
サクラを救い出してやるべきだったのだ。
解放してやるべきだったんだ。
でも、もう遅かった。
遅かったのだ。
遅過ぎて遅過ぎて、遅過ぎたのだった……。
「ごめん。ごめんなぁ、サクラ……」
自然と、謝罪の言葉と涙が、零れ落ちた。
俺は腐った価値観からサクラの身体を少しでも離してやるべく、かがみ、そして力強く彼女を抱え上げた。
……その頃にはもう、辺り一面……。
火が。
熱が。
煙が。
俺たち2人を盛大に取り囲んでいた。
「これって……まるで……」
イルマミキトは幻視する。
こんな時でも。
いつものように。
当たり前のように。
「結婚式……?」
ここまで、ずっと、そうしてきたように。
「あぁ、そうだ! 結婚式だ! 俺とサクラの、2人の……結婚式なんだ!!」
2人を盛大に包み込む炎。
まるでそれは、祝福するかのように。
あたかも結婚式の列席者のように!
新たな夫婦の!
その門出を!
新婦を抱き上げる新郎の!
新郎に抱き上げられた新婦の!
健やかなるを!
晴れやかなるを!
行く路に『幸福あれ!』と!
パチパチパチと爆ぜるような拍手!
赤々と2人を照らしあげる熱き光!
「結婚式だ! 結婚式だ! 今日が俺たち2人の! ミキトとサクラの! 最高で、最幸の、最良の日なんだぁあああああーっ!!」
声の限りに叫んだ。
心の底から笑った!
滂沱の涙を迸らせた!
サクラを力いっぱいに抱きしめ、その唇に口付けをする。
貪るように。
噛み破るように。
血の味。
腐った『価値観』の味。
いいさ。
それも含めてサクラ。
俺はサクラの全部を愛する。
そして『幸せ』にしてみせる。
万歳!
結婚、万歳!
ありがとう!
ありがとう!
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炎はどんどん焦がしてゆく。
全てを灰へと帰してゆく。
2人の部屋を。
濡れた布団を。
食べ散らかしたゴミを。
テレビを。
そのテレビの脇にちょこんと飾られた、スズメのヌイグルミを。
………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………サイレン、が聞こえたような気がした。
そっ、と、目を開く。
テレビで観たことがあるような。
救急車、の中?
慌ただしい隊員の動き?
飛び交う緊迫した声?
野次馬?
ヘリコプター?
アパートの、近隣の住人たち?
多数の怪我人?
燃え落ちる建物?
リポーターの説明……?
俺は、むっくりと起き上がる。
向かいに止まった、俺のとは別の救急車に、その寝台に、顔の上に白い布を掛けられたサクラが横たえられていて。
気付けば俺は、サクラの元へと歩み寄っていて…………。
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