第18話 マリッジ・ブルー

▼▼▼


「……最低」


 冷えた声音で一言吐き捨て、サクラは俺から離れて起き上がる。そしてそそくさと脱ぎ捨てていた下着を身につけ始めた。


 『最低』。


 読んで字のごとく、最も低い。

 なにが? 

 今の文脈からすれば当然、俺の発言それを口にした行為またはその人間性についてだろう。


 ハッ!

 けっ! 

 ぺぇえええええええーっ!

  

 どの口がそんな事を言える立場か! と俺は思う。


「ああんっ⁉ 誰が『最低』じゃボケェッ!! 彼氏居るのに他所の男のチムコ咥えて股ユルクしてる貴様の方がよっぽど『最低』じゃろがい! ゴルァッ!!」


 このまごうことなき『正論』。 

 返す刀でキレ散らかしてやりたいところだ。


 だがしかし。

 俺の心情的には『正論』でしかないこの主張も、サクラにしてみれば、また一般的な社会通念に照らしてみると『暴論』以外の何物でもないらしい、というのはこれまでの経験でもう十二分に分かっているわけで。


「……はは、そっか。最低か。うん、最低。最低だね」


 ゆえに喉元までせり上がっていた罵詈雑言を飲み下し、代わりに半笑いでおためごかした。反動でうっ! と吐きそうになったが、その吐き気すらも気合で飲み込み抑え込み、代わりに盛大に自嘲をお漏らしする。


「そうかぁあああーっ! 最低かぁーーっ。まぁーー、そうだよなぁああああああああーーっ」


 つい先ほどまでひたすらに情事に励み、2人の汗(俺8、サクラ2)やらイヤラシイ体液やらでしとどに濡れた敷布団の上に「うわぁーっ!」と大の字にひっくり返って。


「ごめんねぇーー最低でぇーーー! こんなんだから、サクラちゃんは俺のところから離れて間男ゆみちーくんのところに行っちゃったんだよねぇーーっ? だって最低だもん。仕方ないよねぇーーっ⁉」 


 言いつつ転がりつつ、更に駄々をこねる幼子のように手足もバタバタさせてみる。しかも言ってる間に自嘲を装ったただの拗ねた嫌味になっていく。


「最低! 最低! 最低だぁ! 最低さんのお通りだぁああーいっ! ミキトくんが最低だからサクラちゃんのマムコはゆみちーくんのチムコにジャストフィットしてそれでミキトくんにはユルユルでガバガバでホントもぅ最低だぁあああああああーっ!! 」


 結局。

 抑え飲み下した言葉も盛大に吐き散らかす。

 なんなら煽ってもいる。


 全裸で、チムコ丸出しで、濡れた布団の上で大の字にバタバタ悶えるつつ嫌味を高らかに叫ぶ30前の男。どこに出しても恥ずかしい、名実ともに『最低』な男。


 そう冷静に自己分析しながら、俺はサクラの様子を窺う。

 

(さぁ、こんな『最低』を前にしてお前はどうする? どう返すってんだ? ええ、同じく『最低』なサクラさんよ?)


 ――と。

 今のサクラの、本当のところはどうなんだ? どう思ってるんだ? 黙りこくってばかりいないで、少しは俺みたく開けっ広げに主張して貰わないと、『2人のこの先』へ進もうに進めない。 


「…………。」


 しかし当のサクラはと言えば、チラと横目でコチラを一瞥しただけ。なんら嫌味を言い返すことも思いを吐露することもなく、さっさと脱いでいた衣服を身に着けると台所の方へ消えていったのだった。


 それで尚も「うわぁぁーっ!」とか「さいていっ! さいてぇえええええーいっ」などと1人布団の上で喚き続けたが、結局サクラからのリアクションは引き出せずに終わってしまった。


 虚しい。

 無視された駄々コネほど虚しいものはない。


「……なんだよ。なんか言えよ……。同じく最低なサクラさんってばよぉ」


 諦めきれず消えた背中に向けて煽ってみるが、それでもリアクションはなし。


「なんか言えって! リアクション! 最低な男に最低な女がどう言い返すか、興味津々なんだよこっちゃぁ!」


 虚しさ高じてつい怒鳴る。

 それでもサクラは応じない。


「……なんだよ……」

 

 が、ところに。


「!」


 台所の方から戸棚をガチャガチャッと、いわす音。


 「すわ包丁か⁉」と一瞬焦り身を起こす。またも刺す刺さないの刃傷沙汰に……? いくらリアクションしろと言っても無言で実力行使に出られるのはまた違うだろ! と身構えかけたが、そういやもはやウチにパッカァアアンとなっていない刃物は1本たりとも残ってないことを思い出した。


 それと言うのも、今日までの7日間で包丁も果物ナイフもフォークもハサミもカッターも果ては爪切りにいたるまで、刃物という刃物は全部、すでにパッカァアアンし終えた後なのだ。

 まぁ今更その詳細のイチイチは述べないが、それだけ色々あった、ということを想像して貰えれば充分である。そしてそれらを乗り越えての先程のセックスだったのである。


 あれだけ色々あったけど、結局俺たち2人はセックスしてる。その強烈な事実がココに横たわっている。なのだからその事実に即して俺たちの関係ももっと変わっていくべきだろ……。


 そうこう考えている内に、台所から水道のレバーを動かしコップに水を汲む音、次いでゴクゴクと喉を鳴らして飲み下す音が聴こえてきた。


 どうやらサクラは喉が渇いていたらしい。

  

「……水、俺にもちょーだい」


 これ幸いにとおねだりしてみる。

 俺も喉が渇いていたところだ。

 いやむしろ渇きで言えば俺の方がサクラよりもきっと強い。そう断言出来るくらいには、つい先程まで必死に動いて汗をかいたのだ。まぁ動かしていたのは主に腰だけですがね。


「なぁ。聴こえてる? 水。俺にも一杯」


「…………」


「お~い、水! プリーズ!」


 しばしの沈黙の後、再び台所の方でコップに水を汲む音がした。


 どうやらサクラはこの点においてだけは素直に俺の望みを聞き入れてくれるようである。ほどなくして8割方ほど水を汲んだコップを手にし、サクラは部屋に戻ってきた。


「おお、センキュー」


 上半身を起こしてコップを受け取ろうと手を伸ばす。


 ぱしゃっ。


「うぷっ」


 果たして。

 コップは俺の手の中へは収まらず、その中身だけが軽やかな音を立てて、俺の顔へと浴びせられたのだった。


 ……ドン、カシャン!

 

 次いで無造作に投げ捨てられたガラスのコップが、フローリングの床の上で砕け割れる音が響いた。

 

 ぐしょ濡れになった俺は、即座に何が起こったのかを把握。次の瞬間には激昂爆発しあらん限りの罵詈雑言を吐き散らかしつつサクラに飛び掛かっ……たりはせず、ただその場で座り直し正座の姿勢で背を丸めた。


 全裸のままで。

 水滴1つ拭うことなく。


「うん。……うん、うん」


 それから2~3度頷き、水を浴びせられ反射的に瞑ってしまっていた両の瞳を、ゆっくりと開いたのだった。

 

 当然目の前にはサクラが立っていて。

 俺のことを心底軽蔑した眼差しでもって見下ろしている。


 そんな彼女の目を、まるで己を生ゴミのように見下してくる瞳を、俺はまじまじと見返した。サクラと目を合わせたのは、なんだか随分と久し振りのことのように思えた。


「……………」


 そうしてそのまま、コチラからは何も言わずただじーっと目を見ながら待つ。びしょ濡れにされた怒り? それは不思議と湧かなかった。それよりも望みに望んで、待ちに待ったサクラからのリアクションなのだ。ここからはサクラのターンである。彼女の嘘偽りない言葉を全身全霊をもって聴く、その用意が俺には出来ていたのだ。


 5秒……。

 10秒……。

 たっぷりとした沈黙。


「…………」


 しかし急かすことはしない。

 ただ、待つ。

 ひたすらに。


「…………」


 1分……。

 5分……。


 まだ動かない。

 だが、待つ。

 このまま1時間でも1日でも待ち続ける決意で、サクラの目を下から覗き込み続ける。


 やがて。

 その時が来た。


「…………なんでユルイかって? そんなの、私がアンタの、ミキトのことを、これっぽっちも愛してないからに決まってるじゃない……!」


 とうとうサクラは、その口から言葉を、思いを、噴火した火山からとめどなく溢れ出る溶岩の如く、怒涛の勢いで吐き出し始めるのだった。


「分かった。あぁ分かったわよ! そんなに聴きたいのなら話してあげる。アンタが、ミキトが、どれだけ私を苦しめてきたか。ゆみちーがどれだけ私を救ってくれたか。聴きたいってんなら、何もかも全部ブチまけて話してあげるわよ!」


 ダンッ!


 叫びながらサクラはすぐ側の壁に一撃蹴りを入れた。彼女にとって、とてつもなく珍しい行為だった。だけでなく、石膏ボードに量産品の壁紙を貼っただけの安普請の壁は、彼女の蹴りを受けアッサリと破れていた。


 勢いで出た一撃が、サクラの中の何かを更に加速させる。


 パラパラと石膏の破片が崩れる穴から足先を引き抜いて、その乱暴の勢いに自らを鼓舞したサクラが、俺の方を振り返って更に声を張り上げた。


「……セックス⁉ したわよ! ゆみちーと! キスも前戯も! アレやコレも! 70!? いや69!? なんかこぅお互いの頭と股がテレコになっちゃってんのも、とにかくエロイ感じの、アンタがミキトが好きそうなヤツは全部やったわよ! いっぱい! いぃっぱい! ミキトを塗り潰すように、ゆみちーで塗り替えるように! なんでか分かるっ⁉ 分かんないでしょうね! 考えてもないんでしょうね! アンタはそう、いつだって自分が自分だけが苦しい、自分だけが悲しい、自分だけが可哀想! サクラたん、寂しくか弱いボクちゃんの側にいて~甘えさせて~~って! 日々がつらたんぴえんだからセックスでそれを忘れさせて~~って! バカじゃないのっ⁉ いやバカよねっ!! バカッ!! 来る日も来る日もセックスセックス。愛じゃない、ただアンタがストレスから逃げるためのセックス! 私にストレスを移植するためのセックス! もぅうんざりっ! でも違うっ! セックスだけが原因じゃないっ! 心! 心なの! 心が離れてた! 心が蔑ろにされてた! 心が殺されていってたの! 一番分かって欲しい相手に、毎日毎日心を殺されてゆく人間の気持ち、アンタに分かる⁉ ねぇっ⁉」


 言いながらサクラは泣いていた。

 ドバドバ。

 まさに『ドバドバ』といった感じで涙を流していた。おそらくだが、その涙と同じようにアドレナリンもドバドバと出ているに違いない。   


「私はね! 私はマリッジブルーだったっ!!」


「……マリッジ、ブルー……?」


 聴き慣れないが、どこかで聞いたことがある言葉。

 結婚前の人がコレといったワケも無く不安や憂鬱な気分に落ち込むというアレ。


「3年前『結婚しよう』って話が出た頃から、私はずっとマリッジブルーで情緒が不安定になってて。それは同棲を始めてからもずっとそのままで。ミキトとのことが好きだったけど、本当にこのまま『結婚』しちゃっていいのかな? って悩んでた。それだけ私にとって『結婚』ってのはリアリティ無いものだったし。だって、だってさ! 『結婚』して何するの? って感じだし。2人で暮らす、他人がひとつ屋根の下で暮らす、そんなの上手く行くのかな? 無理じゃないのかな? って不安だった。『家族』っていうのも、私には分かるような、分からないようなそんなものだったから。そんなものにミキトと2人でなる? 本当に? なるの? なれるの? そもそもそれは本当に私が望むものなの? 私にとってそれは本当に『幸せ』なの? ……ちっともわからなかった」


「だって私は自分が『専業主婦』になれるなんて、全く思えなかったし、イメージ出来なかった。それよりまだまだ『仕事』がしたかったし、勿論辞めるつもりなんて全くなかった。だけどミキトと結婚して、『お嫁さん』になったら家で専業主婦をしなくちゃならない。家にずっと居なきゃならない。それでもし『子ども』ができたら、ずっとその面倒を見るために家に居て、私がしたいことやりたいこと、仕事なんかは全部犠牲にして……。そんな自分のことが何もかも出来なくなる『結婚』なんてしたら、そんな日々が待ってる『結婚』なんてしちゃったら、正直、そんなものに自分が耐えられるとは思えなかった。私は、何と言うか自分に『結婚』は『向いてない』って、そう思ったの。


「でも、でもでも。きっとミキトも同じように考えているんだと思ってた。だから、いきなり『結婚』しようって言うんじゃなくて、まずは『同棲』から始めよう、2人で『生活』してみて、それでお互いが納得できたなら『結婚』しよう、って。ちゃんと考えて、そう言ってくれたんだと思ってた。


「……でも。両親に挨拶に行った時、どうせ『同棲』するんなら、もうさっさと『結婚』しなさい、ってそれぞれの『両親』から言われて。それで最初の考えとは違ってあれよあれよという間に『結婚』する方向に話が進んでいって。私は混乱し通しで。だってすぐに『結婚』なんてするつもりじゃなかったのに。ミキトだってそう言ってたのに。でもいつの間にかミキトとも考え変わっててノリノリで結婚して旦那様になる気満々で。最初に思ってた考えてたこととどんどん違っていくのに、いつのまにかミキトはそっち側になってて。私は一人取り残された。周囲は、ミキトは『結婚』に向けて盛り上がっていってたから、それに水を差すのが何だか悪いことのような気がして。だってミキトは喜んでいたし、だからそれは正しいことなんだ嬉しいことなんだと自分で思い込もうとした。思い込もうとしなきゃいけない自分がすごく間違っている気がして、それが悲しくて。思い込もうとしてたんだよ! でもでも無理だった! 心の中ではなんか違う、コレは違う、わーってわーってなって、なんかもういっぱいいっぱいで。自分のことなのに自分たちのことなのに、なんだか妙にふわふわして現実感がなくてとにかく受け止められなかった。


「ミキトも知っての通り。元々私はメンタルが不安定だったから、心療内科にも通ってた。時々だけど薬も飲んでた。そんな私だったから、どんどん『結婚』の段取りが進められて決められて、どんどん迫ってくる『結婚』っていう現実は私を追い詰めて。私をどんどん病ませていった。当然メンタルの不調はすぐ体調にも現れて。あの頃は毎日体が重かったし眠れなかったし眠ったら今度はなかなか起きられなかった。ベッドから出ることが出来なくなっていった。それでも無理して、薬の力も借りて、どうにかして日常生活を送ってた。ミキトに心配かけたくなくて。私が『結婚』を望んでないなんて知られて、ミキトにがっかりして欲しくなくて。……だから無理やり笑ってた。


「ミキトの前ではずっと無理して。頑張って誤魔化して嘘ついて。気付かれないように笑ってた。だからミキトはあの頃私がずっと苦しんでたことなんて想像もしてなかったでしょ? 気付いてなかったでしょ? 思えばそれが良くなかったんだよね。好きだから、心配かけたくないから、ずっと黙ってたけど。1人で抱えたから、だから駄目になっちゃったんだね。もっと早くミキトに正直に言えばよかったね。もう何もかも遅いけど。


「……でもね。ズルイ言い方だけど。ミキトには、一番好きだって思ってた人には、何も言わないでも気づいてほしかったよ? 私が苦しんでいること、気付いて欲しかったよ……。


「だけどミキトは気づかなかった。あれだけ毎日一緒にいたのにね。だからもう、私はこのまま1人で抱えて1人で苦しんで、でもどうにか1人で乗り越えて、時が経てばこんなこともあったなーって、笑い話にできるのかなって。そう思ってた。心でずっと悲鳴をあげながら、顔では笑ってた。でもね。もう正直、限界だったんだよね……。


「そんな時。彼が、ゆみちーが、ゆみちーだけが、私の苦しみに気づいてくれたんだ。


「私だけを置いてけぼりにして進んで行く現実が怖くて。怯えて震えて立ちすくんで動けなくなってた私の事を、ゆみちーだけは気付いてくれた。本当に何気なく、さらりと、『大丈夫か?』って聞いてくれたの。どうして側に居る一緒に居るミキトが気付いてくれなかったのに、職場ですれ違う程度のゆみちーが気付いてくれたのか? 私の態度の、ちょっとした変化をおかしいと分かってくれたのか。聞けば以前にも知り合いでメンタルを病んでた子がいて、その子が辛そうにしてた時と同じ感じだったから、もしかして私もそうなんじゃないか? って。そう思って声を掛けたんだって。無理してないか? そういうときは誰でもいいから頼っていいんだぞって。……私はそのことが、そう言って貰えたことが嬉しくて嬉しくて。やっと気付いてくれる人がいたってホッとして。その場で泣いちゃった。とても嬉しかったのに……ううん、嬉しかったから、ぽろぽろぽろぽろ、ぽろぽろぽろぽろ涙が溢れて止まらなくなった。


「そんな風に道端で私が泣いている間、ゆみちーはただ黙って私のそばに居てくれた。私が泣き止むまで何も言わずに待っていてくれた。


「ただの、なんてことない会社の同僚だったけど、そのことをきっかけにして、私はゆみちーと話をするようになった。人に言えなかったこと、相談できなかった不安や悩みなんかをゆみちーに聞いて貰うようになった。最初は全然そんな、恋愛感情だとか好きだとかいうんじゃなくて、ただただ友達として、それこそ女友達と変わらないような感じで、悩みを聞い貰ったの。


「……確かに。1回だけ抱きしめてもらったことがあった。夜通し、ゆみちーの部屋で抱きしめて貰って、そのまま眠ったことはあった。


「でもその時はもう本当に心がいっぱいいっぱいで、堪えられなくて、わぁああああああああああーっ! って叫び出しそうになって、自分でどうすることもできなかったから。そんな私を見かねて、何とかしなきゃって思ってくれて。仕方なしに、私の衝動を抑えるために、ただ暴れてケガしないようにって抱きしめて落ち着かせてくれたのよ。下心だとか、いやらしい意味だとか、そんなんじゃ全然なかったの!。


「でもミキトは、それが、そのたった1回の、変な意味なんてカケラも無い『抱きしめる』ってのが、気に入らなかったんだよね?


「誓って私は、ゆみちーは、あの時変なこともいやらしい事もしていない。そう何度説明しても、ミキトは信じなかった。ただ暴れて倒れたり怪我したら危ないから、そうならないようにして貰っただけなのに、私を抱きしめ支えてくれていただけなのに、何回も何回もそのことを説明したのに、結局ミキトは疑うばかりで私の言うことなんてこれっぽっちも信じてくれなかった!


「苦しい時に。本当に自分が苦しい時に。それが言えなくて。ミキトに迷惑をかけたくなくて。なんとか自分でどうにかしようと思って。そんな時にちょっとだけ、ゆみちーの力を借りた。何度も何度も何度も言うけど、最初は、その時は、いやらしい気持ちもミキトに顔向けできないようなことも、何にもしてなかった! 抱きしめて貰ったのも、そういうんじゃなかった! 


「たしかに、たしかにミキトに黙って……ううん、嘘ついてゆみちーの部屋で泊ったのは悪かったと思ってる。


「でも! でも! 本当に変な事なんか何もしなかったんだ! 何にもなかったんだ! けれどミキトはそれを信じてくれなかった。ただただ他の男とセックスしたんだろう関係を持ったんだろう。浮気だ! 裏切りだ! そう言われるばかりで私は悲しくて悲しくて悔しくてどんどんその気持ちに塗りつぶされていって……


「せっかくミキトとのために頑張っていたのに。全てが無駄で、全てを否定されて。だから私のミキトへの気持ちもどんどん小さくなっていった。どんどん消えていった。


「そうなったら……。


「そうなったから……。


「自然に……。


「寂しかったから……。


「悲しかったから……。


「自分でも、狡いとは思ってる。


「それでも。


「私の心を占めていたミキトの存在が小さくなっていくにつれ、その大きな隙間を埋めてくれる存在が欲しくなった。そしてゆみちーがその存在に、ミキトになり替わる存在になるのは自然なことで。私もゆみちーに埋めて欲しいと思ったから。だから意識したし声を掛けることも連絡をすることも会ってしまうことも増えていった。私のことを分かってくれるゆみちーが、ミキトよりも大切な存在になるのには、だからそう時間はかからなかった。


「だけど! だけどね! それでも私は! ミキトと一緒にいようと思ってたの! 


「少しの間だけ、本当に狡いし卑怯だけど、少しだけミキトじゃない他の人に、ゆみちーに頼らせて貰おうとしたけど。それでも最後にはミキトのところに戻っていこうと思ってたの。最後には、ミキトと笑っていられるように、この先やって行けるようにと思ってたんだよ! もう何回も何回も言って、説明して、その度に信じて貰えていないけど。本当に! 本当に私はそう思ってたんだよ!


「でも、結局。


「ミキトはたった1回のことを許さなかったし。どこまで行っても私の言うことを信じなかったし。来る日も来る日も私を責めるばかりで。


「ずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっと、私は辛かったよ! 悲しかったよ! 死にたかったし消えたかったよ!! 


「だから。その度に。ミキトに責められるたびに。私はゆみちーに会いに行かざるを得なくなった。ミキトが信じてくれなくて疑ってセックスしただの関係持っただの言うから。そう責め立てるから。私は、本当にゆみちーと、そうせざるを得なくなったんだ。


「私にそうさせたのはミキトなんだ!


「私がそうしたかったんじゃない! 


「ミキトが自分の言ったことしか信じなかったから! 私は! ミキトが言っていた通りにしたんだよ!


「ミキトの言うことに現実を合わせたんだよ!


「ミキトの言うとおり思うとおりになったんだよ!


「満足? ねぇこれで満足した?


「私がこうなったのはっ!


「だから全部ミキトが!


「そう望んだからなんだよぉおおおおっ!! …………かふっ」


 ドバドバ。

 ドバドバ。

 ドバドバドバドバッ。


 とめどなく溢れ出る涙と、そして鮮血。


 俺の手に握られた、大き目のガラス片。

 ついさっき、サクラが床で叩き割った、あのコップのそれ。


 あのそれを、俺は無我夢中で拾い上げて、自分の手が指が傷付くのも構わないで握って、それからサクラの首筋にそれで切り付けて。


 それで、それで、血。

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