第16話 走馬灯ボーナスタイム

▼▼▼


 転がるように台所へと駆け寄り、包丁を手にしたサクラ。


「あ……」

 

 俺はそんな彼女の姿を、なす術なく床の上に転がったまま見ていたわけだが、なぜか一連の動きがひどくゆっくりとしたスローモーションで見えていた。


 ……思えば、皿で後頭部を張られた瞬間から『走馬灯』ってやつは回り始めていたのかも知れない。


 死に至るほどの危険に直面した瞬間、脳が通常ではありえない速度でフル回転を始め、どうにか記憶の中から死を回避する方法を探し出そうとする。その副産物的効果として、見るものすべてが極端なスローモーションのようになる。

 

 まさにそんな感じのアレ。

 直感的な死の予感。

 とにかく全てがハッキリとゆっくりに見えていた。


 そしてゆっくりと進む現実を目の前にしながら、頭の中ではサクラとの生活の、その記憶のアレやコレやがスパパパパパパパッ! とフラッシュバックしては消えていく。


 眼前の光景とフラバの映像が交錯する時間の中、俺は必死に今のこの状況を打破できる方法を探ろうとする。

 

 足をもつれさせ、ブチ当たる様にして流しの抽斗に縋り付くサクラ。


 ……そうそう。

 

 おっちょこちょいな彼女は、なにも無い所でよくけつまずいていた。そういう、ちょっと抜けているところが可愛くて好きだった。


 左手で慌ただしく取っ手を引き、中から一本の包丁をひっ掴んで取り出す動き。


 ……料理は苦手だと、申し訳なさそうに言っていたなぁ。

 

 実際、よく包丁で指を切っていたし、手際もお世辞にも良いとは言えなかった。でも、彼女が料理を作ってくれるだけでとても嬉しかったものだ。


 眼前に掴んだ包丁を掲げ、その鋭さ頼もしさに、一瞬、安堵にも似た、空恐ろしい感じの『笑み』を浮かべた横顔。


 ……彼女の横顔が好きだった。

 

 勿論、正面からも後ろからも斜めからでも全部好きだが。

 とりわけ笑っている顔は一番好きだった。

 このままずっと君の笑顔の理由でありたい、そんなJPOPの歌詞みたいなことも思ったりしていたのだ。


 然るに、なんぞ。

 この状況! この体たらく! 

 俺は、俺は何をやってきたんだ?

 笑顔の理由どころか、包丁握って安堵の笑みを浮かべさせる理由になるって、それもうなんて呪いなんだ⁉


 ……って、あああああああああああああああああっ!!


 ダメだっ。

 ダメだダメだダメだっ!!

 ホンットもう、全然ダメだっ!!

 せっかくの走馬灯ボーナスタイムなのに死を回避しうる情報ってやつをまるで記憶から探れない。


 ただただサクラとの幸せだった頃の記憶がリバイバルされるだけで、なんならちょっとこの非常時に「まったり」しちゃった! 「まったり」とかこの世で最も忌避してる概念なのにっ!


 ととと、とにかく記憶は頼りにならない。

 このまま幸せな記憶リバイバルを見続けても有益な情報を得られそうにない。


 そうとなれば、もういっそ記憶を眺めるのは止めにして、目の前の現実にだけ集中しよう。記憶の中からではなく、目の前の現実を注視し、そこから、現実そのものから、この危険を乗り越える方法を発見するしかない。このスローモーな時間を最大限に利用して。


 俺は己が意識を目の前の現実にだけ集中させた。


 しかし当然ながら、俺が頭の中で余計なことをゴチャゴチャ思い浮かべている間も、サクラは動き続けていた訳で。 


 気付けば彼女は、時計回りにくるりと向き直り、固く握りしめた包丁の、その鈍く光る切っ先を俺の方へと突き付けていたのだった。


「!!」


 そして包丁を俺の方へ突き付けながら、サクラはその表情を複雑に変化させる。これまたスローモーな時間のお陰で、その変わりゆく様がよく分かる。


 恐怖が。

 剥き出しの憎悪が。

 更にそれらを上回る激しい怒りが。

 

 グニャグニャとサクラの表情筋をその薄皮一枚の下で蠢かせ、次々と、恐れているような、泣いているような、苦しんでいるような顔へと変化させ、そうして最終的には不動明王もかくや、という凄まじい忿怒の形相に変貌を遂げる。


(あ、青不動⁉)


 思わず脳内で呟いてしまった。 


 サクラのその、直前まで首を絞められてチアノーゼに青ざめた顔色が、絶妙に忿怒な不動明王顔とマッチしており、まさしく『青不動』と呼ぶに相応しかったからだ。


 ……ちなみに賢明なる読者諸兄はご存知の事とは思うが、不動明王とは大日如来の化身と言われ燃え盛る炎を背負って倶利伽羅剣と「ノウマク サンマンダ バザラダン カン」の真言を用いて外道をも力ずくで救うという尊い御方であり、中でも『青不動』とはその肌が名の通りの青黒(しょうこく)色をしたお不動様のことを指しその御姿を描いた画は国宝に指定されているのだがそれをここに長々と書き記したのはあまりに蛇足が過ぎたかも知れない。


 それはともかく。


 かように尊い御方が何ゆえサクラの姿をしてその御尊顔を俺の前に御顕しになられたのか? 考えるまでも無く外道たる俺を註すために決まっている。


「ひっ⁉」


 前振りが随分と長くなったが、要するに、俺はサクラのその青不動顔に睨まれた瞬間『これはもう問答無用でマジに刺されるヤツ!!』と、直感を確信に昇格させざるを得なかった。


 もはや回避方法を云々している場合ではない。

 矢も楯も無く逃げるしかなかい。

 そういうフェーズに突入していた。


「や、やめっ……!!」


 いまだスローモーションな世界の中、モタモタと床の上に転がっていた俺は、ここにきてようやく出来うる限りの素早さでもって、少しでもサクラから距離をとろうと身を翻す。


 しかしこれがいけなかった。 

 

 森の中で不意に獣と出会ってしまった場合の、あの逃げる時の鉄則と同じ。じりじりと目を見たままゆっくりと後退していくべきところを、まるで追ってくれ襲ってくれと言わんばかりにパッと無防備な背中を向けてしまったのだから。


 その軽率な『逃げる側』の動きこそが、『狩る側』の反射的な素早さを呼んでしまうのである。


 つまりサクラは考えるよりも早く、ガラ空きの俺の背中に向けて反射で包丁を振りかぶり、渾身の一撃を叩き込むべく動いてしまったのだった。


 飛び掛かるサクラ!

 逃げる俺!

 さて、ここでQuestion!!


 Q.ついさっきまで首を絞められ危うく殺されかけた女が、自分を絞め殺そうとした憎い男の無防備な背中を見たならば、その包丁でもってどこを刺すのか?


 1.心臓の辺りを

 2.後頭部の辺りを

 3.けつあな確定


 さぁ、サクラならどうする?

 俺はどうされちゃう?

 ……って、3番はちょっと違う意味合いになっちゃう!

 

「ひっ、ひぃいいっ!!」


 刺される恐怖から、教科書に『素晴らしいお手本!』として載ってなんら差し支えないだろう、ザ・情けない悲鳴、を漏れ出させ、俺は床の上を這いずり逃げる。


「ぎぎぃ……うぎゃぁああああああああっ!!」


 対するサクラは、字面だけ見ればあたかも逆にサクラが殺される直前みたいな、そのまんま・ザ・断末魔! な叫びを発しつつ肉薄してくる。


 悲鳴 VS 断末魔。


 なにが『VS』なのか分からないが、とにかくどう考えても悲鳴側に勝ち目が無いのは明白。


 そしてここで先程のQuestion!! の答え。


 A.……2番!!


 に、2番⁉

 よりにもよって2番⁉

 まさかまさかの後頭部っ⁉

 

 もっと正確に言えば、盆の窪、と呼ばれるうなじの中央部分。言わずと知れた延髄などの極めて重要な神経組織が集中している箇所。当然だがそんな部分を包丁でブッスリ刺されようものなら十中八九即死である。


 衝動的とはいえ、それだけサクラの殺意は強かったということか。なぜなら先程の選択肢の中から、彼女は一切迷うことなく『2番』を選択していたのだから。


「死ねえぇええええええええええーっ!!」


 と言うか、もはや剥き出しの殺意を隠す気などサラサラないらしかった。


「殺さないでぇええええええええええーっ!!」


 そうなればコチラとしても剥き出しの命乞いで抵抗するしかない訳だが、そも『命乞い』という行為は『抵抗』の名に値するものであったろうか?


「生殺与奪の権を他人に握らせるな!!」


 どこからともなくどこかで耳にしたような名セリフが聴こえてきたが、多分気のせいだろうし、実際、包丁という名の生殺与奪の権はガッチリとサクラの手に握られているわけで、そして『殺!』方面に全振りされているわけで、もはや、らせる、らせない、の余地を検討する段階はとうの昔に過ぎ去っていたのである。


「……がっ⁉」


 唐突に腰の辺りにドンッ! と強い衝撃が走る。

 次いでグッと圧し掛かられる重み。

 何事と肩越しに後ろへ目をやれば、信じられない事にすぐそこにサクラが迫っていた。


「ひっ! ひぃいいいいいいっ!」

 

 なんとサクラはまだ3メートルほどはあったろう距離を一気に詰めるべく、走り幅跳びの要領でジャンプして空中を駆け、そのままヒップドロップで俺の背中へと飛び乗ってきたのである。


「う、う、うわわわっ!!」


 とうとう俺はサクラに捕まってしまった。

 背中に馬乗りされて。

 つい先程とは立場も身体の向きも逆転した構図だ。


「これで……」


 俺の背で、両手で包丁を逆手に握り、高々と振り上げるサクラ。


「これで、お終いよおおおおおおおっ!!」


「ぎゃぁああああああああああああああーっ!!」


 ぐっ、とサクラが力を込め、俺を刺し貫こうとその包丁を振り下ろす動きが、身体越しに伝わってきた。 


 俺は反射的に身体を左に捩って、盆の窪を、その奥にある神経組織たちを少しでも守れるようにと、両手で己の首筋を抱くようにする。


 叫びながらも、目は閉じていなかった。

 というか閉じられなかった。

 つい閉じそこなった。


 だから己に迫りくる凶刃のその有様を、スローモーな世界でまじまじと見るハメになってしまう。


「……!」


 ……勢い付いた包丁が、サクラの眼前を通過した。

 

 まず安直な感想で申し訳ないが、迫りくる刃物はただただ恐ろしかった。


 別段、先端恐怖症というわけでは無いのだけれど、さすがにあと1秒もしない内にその切っ先が自分の身体にズブリと刺し込まれることが確実となれば、誰だって恐ろしく感じるだろう。


 ……包丁の切っ先が、サクラの胸の辺りを通過。


 もうまもなく来るだろう、激しい痛みを想像する。


 自慢じゃないが、小さなトゲやガラスの破片なんかが、ちょいと刺さっただけでも涙目になるくらい、俺は痛みに弱い質なのである。


 包丁で刺されるだなんて、当然だが人生初の体験で、それが一体どれだけの痛みを与えてくるものなのか、正直想像出来ない。とにかく、まぁきっとムチャクチャに痛くてギャン泣きするだろうことは間違いないだろう。あぁ。いっそ、痛みを感じる前に絶命できた方がいくらか楽かも知れない。


 ……切っ先がサクラの腹の辺りに間もなく差し掛かろうとしている。


(あれ? これって……)


 事ここに至って、俺はあることに気付いてしまった。


 正直、気付いた刹那に「気付かなきゃ良かった」と後悔した。それくらいに嫌な事実だった。


 何に気付いたのかって?  


 それはサクラが、包丁の到達点を変更していた、という事実にである。


 ……サクラという女は、本当に、つくづく、こういう場面でこういうことをやらかしてくる奴なのである。諸々のことごとくに、コチラの思い通りにならない、しない、裏切ってくる性悪女!


(……まさかの『目』かよっ⁉)


 そうなのである。


 あろうことかサクラは、咄嗟に防御した俺の盆の窪へではなく、途中で軌道修正して、俺の『目』に向けて包丁を繰り出していたのである。


 目を刺される。盆の窪が十中八九なら、これはもう、十中十で即死だろう。しかも絶対、超絶痛いに決まっている。クソクソクソッ! 本当に俺の嫌がることばっかり的確にやらかしやがって!


 ……と、状況への理解が追い付いた時には、切っ先が右目の睫毛に触れる距離にまで迫っていて……。

  

 右の網膜いっぱいに大写しになる包丁。

 死の間際の光景は網膜に焼き付くという。

 きっとバッチリと焼き付いている事だろう。

 ハロー包丁。

 グッバイ人生。

 包丁でサヨナラだけはしたくない人生だった……。


 何の捻りも無い辞世の言葉が飛び出した次の瞬間。


 パカァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアンッ!!


 ものすごく。

 いや、もう本当に。


 もぉんのすぅんごく。


 頭の悪そうな破裂音が響きわたった。


「「⁉⁉⁉」」


 右目へと迫っていた包丁、その刃がパカァアアンッという破裂音と共に、柄の根元からポッキリと折れ横っ飛びに吹き飛ぶ。刃は空中でクルクルと回転し、少し離れた床の上に、カッ! と突き刺さる。


 刃が吹き飛ぶと同時に、残った柄からは赤や黄色や青色な色とりどり紙吹雪と紙テープが、クラッカーの要領でブワワーッと噴き出していた。そしてそれはシャワーとなり容赦なく俺の顔へ浴びせかけられた。


「…………???」


 さらに最後、オマケとばかりに小さな万国旗がペロリと飛び出した。


「………………」


 沈黙。

 静寂。

 忘我の間。


 俺もサクラも呆然としていた。

 呆然となるより他にやりようがなかった。


 目の前で起こった出来事がまるで理解出来ない。

 そりゃそうだ。

 こんな突飛な事を即座に呑み込める人間なんていやしないだろう。

 それどころか俺とサクラは、今のこの状況において、自分たちは一体どういう感情になれば良いのか? それすら分からなかった。ココは笑うべきなのか? それとも怒るべきなのか? はたまた悲しむべきなのか? 何が正解なのか、皆目見当がつかない。


 だもんで、コレが一体どういう意図で? 何の目的で? どこをどう想定して備えれば包丁にこんな仕掛けを仕込めるものか? ……などという事は、輪をかけて分かろうはずもなかった。


 ただ、アレも不明コレも不明の分からない事づくしの中で、1つだけ確かなことがあった。


 それは、このフザケた仕掛けによってサクラは俺を殺し損ね、俺は『死を免れた』という事実だ。


 スコンッ、カラカラカラ……。


 サクラの手から滑り落ちた包丁の柄が、フローリングの床に落ち小さくバウンドして転がった。


「う……うぅ……うぁあああ……」


 それを合図とサクラは泣き始める。

 俺に馬乗りになったまま、両手で頭を抱え天井を振り仰いで。


「うわぁああああああああああああああああああああああああああ……!!」


 見る間にそれは号泣へと至った。


 ボタボタボタッ、と大粒な涙が俺の顔へと降り注ぐ。

 さきほどの紙吹雪の何枚かが、その塩気たっぷりの体液を吸ってしとどに濡れ、肌にぺったりと張り付くのが感じられた。


 それから俺は泣きじゃくるサクラの下で、モゾモゾと身体を捻り、仰向けへと身体を入れ替えた。


「ああ……」


 大の字に腕を投げだし、力を抜くと口が開いて目線が頭上の方へと向く。だからサクラの様子はよく見えなかったけれど、まぁ良い、構うな、しばらくはこのまま泣かせてやれば良い、と、そう思ったのだった。 


▼▼▼


 それからしばらくして、ふと気付けば、いつの間にか音も無くテレビモニターの電源が入っていて、そこに件の着ぐるみすずめ、すめらぎちゃんの姿が映し出されていた。


 動くはずのない着ぐるみ顔の表情なのに、なんだが妙にコチラを小馬鹿にした笑みを浮かべている気がしてならない。


『……コォングラッチェレイショォォオン♪』


 彼奴めは妙にネットリとした口調でそう言うと、ボスッ、ボスッ、ボスッと、ゆっくり両の翼を胸の前で打ち合わせ始めた。


 それが拍手で、この状況を『congratulation(おめでとう)』と祝福されているんだと理解したのは、更に5分ほど経ってからだった。

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