第13話 ドロドロ、現る

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『19日(火) 夜、“ゆみちー”のところへ』


 ゲロと汚辱と、なんならさっき勢い良く座り込んだ拍子にちょっぴり漏らした小便にも濡れながら、ついに見つけたその一文。 


「あった。あったよ。ありました……」


 そこに書いてあったのは、当然、ただの予定の走り書きだけ……なんてことはなく。 


『ゆみちーに沢山の話を聴いて貰った。ミキトと別れること。これからのこと。いっぱい、いっぱい励ましてくれた』


 迂闊なサクラは予定と共に、日記的に心情を綴ったアレヤコレヤな言葉も、たぁっぷりと残していたのでありましたとさ。


「目出度いくらいのバカだよね。見られるなんて思いもしないのかな? いや、それとも……」


 手帳越しに、窓際で寝そべったままのサクラを睨む。


「……存外、見られてもいい、むしろ見てみろ読んでみろ! って感じだったりするのかい?」


 また突拍子も無いことを……と思われるかも知れないが、これも全くの無根拠で言ってるってわけじゃない。


「だってさぁ、コレ……わざと、だもんな?」


 他のスケジュールは日付の横に最低限の用件、要点しか書いていないくせに。件の間男と会った日は、右側のメモ欄にこれ見よがしの長文が書き込まれている。


「わざととしか思えないだよ、この書き方がさ……」


 小さく、綺麗で、几帳面な性格が良く出ている文字で書かれたそれは、まるで後から俺に読ませることを想定しているようで。そして読んだ俺に心理的ダメージを負わせることをこそ、その目的としているかのようで。


「……クソが」


 食いしばった顎が軋む。

 耳の奥で歯がカリリッと鳴った。

 自分でも気付かぬに、また身体が強張り始めていた。 


「……なぁ。そうなんだろ? そうなんだよなぁ? 俺に読ませたかったんだよなぁ? サクラ」


「……」


 当然、その問い掛けに返答などなく。


「何とか言えよ」


 もう何度目だろう? こう口にしたのは。ムダだムダだと思いながら。


「……」


 バッ!!


 握った手帳を思わず振り上げ、勢いそのままに床へ叩きつけそうになるのを、かろうじて堪える。


 自分が震えているのが分かった。

 当然、恐怖や寒さで、じゃない。

  

「……OK。それじゃ、お望みどおりに、熟読してやるよ」


 俺は読み進めた。


 そこに書かれてあるサクラの本音を。

 彼女の『罪』を。

 その告白を。

 

 語り尽くせぬ俺への非難と共に綴られたそれ。 


「それにしても、よくもまぁ……こんなに自分勝手に、酷く書けるもんだよな……」


 いかに俺がモラハラな男か。

 どれだけそれにサクラが苦しんでいるのか。

 

 そして『ゆみちー』なる間男の存在 ――ユミサワ―― という名のその間男の存在が、苦しむサクラにとって、如何に何物にも代えがたい『救い』になっているのか。 


「いいねぇ。サクラは救われて。幸せだねぇ……」


 間男にペラペラと話された内容。


 それは本来なら、俺とサクラの間でしか知りえない2人だけの出来事。しかし『相談』の名の元に、サクラは惜しげもなくそれらを間男に開陳している。


「よく、ここまで他人に話せるな……気持ち悪」


 男と女の間であった出来事。

 言うなれば情事にも通じるそれ。

 それを平然と他の男に話せる神経に吐き気すら覚える。


「吐き気……つうか、俺もうゲロまみれだったわ。うぷ」


 ビチャァァアアーッ。


 顔を手帳から背けて、ひと吐き。

 吐く、という行為も、それなりに『こなれる』ものなのだという事を、俺は生まれて初めて知った。


「知りたくなんか、なかったけどな」


 グイと袖で口元を拭い、再び手帳に視線を落とす。


 俺への失望、愚痴、悪意ある罵詈雑言と共にサクラの口から吐き出された諸々は、大いに間男の漢気と庇護欲とを掻き立てたらしい。


 次に綴られた言葉に、俺は思わず目を見張った。


「……『ゆみちーがミキトのこと許せないって怒ってくれて、俺がずっとサクラのそばに居るから、って言ってくれて本当に嬉しかった。ゆみちーが居てくれて、本当に本当に良かった。ゆみちーにギュッと抱きしめて貰ってる時が、いまは一番安心できる』……」 


 気付けば、自分でも知らず声に出して読み上げていた。


 聴いたことの無いような、うわずった上に掠れた、カスカスな声だった。


 喉の奥がヒューヒューいっている。

 口がやたらと渇く。

 さっきから心臓がバクバクいって、こめかみの辺りもジンジン熱くなり通しだ。

 限界が、近い。

 自分の中の何かが、もうちょっとで焼き切れてしまいそうな、そんな危ない感覚。


 でも俺はそんな感覚はお構いなしに、尚も掠れた声で手帳を読み上げた。


「『ミキトにはもう何も期待しない。出来ない。とにかく今は、少しでも早く別れたい。あの男と関係を断ちたい。……そして、ゆみちーと、ずっと、ずっと一緒に居られるようになりたい』……」

 

 嫉妬、憎悪、怒り、殺意……。


 諸々の感情が、まるでマグマのように身体の内で煮えくり返って、ひょっとしたら本当に爆発するんじゃないか、冗談じゃなく身体がバラバラのグチャグチャに爆発四散して血と肉と臓物で、この部屋をサイケデリックに彩るんじゃないか、ってくらいの高エネルギーに膨れ上がっていくのが感じられた。


 そして――。


「…………『ゆみちーと、キスをした』…………」


 とうとう俺は『それ』を目にしてしまった。


▼▼▼


 『それ』を目にした瞬間。


 チカッ! 


 と、目の奥で何かが弾けるように光った気がして。


 その光った一点に向かって、まるでブラックホールに落ちてゆくかのように、俺は吸い込まれていって……。


▼▼▼


 ソレカラシバラクノ記憶ガ曖昧……ト、イウコトニシテオク。


 タダ、オゾマシサニ身ヲ震ワセナガラモ、俺ハ手帳ノソノ先ヲ読ミ進メタ。


 ココニ、アエテソノ全テヲ、俺ハ書カナイ。


 書カナイガ……ドノヨウナ内容ダッタカハ、皆様ノゴ想像ノ通リデ、ホボ間違イナイ、トダケ言ッテオコウ。


▼▼▼


 読み終えた手帳を閉じ、テーブルの上に置いた。


「……………………あぁ……」


 次の瞬間、口から零れたのは、その消え入りそうに掠れた呻きだけだった。


 そのことが我ながら不思議で、


「……へぇ……ハハ」


 思わず笑いが漏れた。


 叫ぶ、と思っていたのに。

 俺はもっと、ガアアァッって感じで。

 でも叫ばなかった。

 そうはならなかった。


「身体も……そのまま、だよな」


 当然ながら爆発四散していなかった。

 いや、そもそも出来るわけもなかった。


「そりゃ……そうだよな……」


 いくら感情的なエネルギーが高じたところで、人は物理的に弾け飛んだりはしない。心情的には、いっそ、そうなってくれた方がどれだけ楽で良かったか。


「実に……残念」


 では、叫びにも爆発にも変換されず、身内で滾った高エネルギーはどうなったのか?


「はは、またこれか……」


 高エネルギーは代わりに俺の脳に変調をきたした。 

 気付けば、あの見慣れた幻覚。

 視界が真っ赤に真っ赤に染まっていた。


「でも……いつもよりも、ずっと濃いぃ赤だな……」 


 それはまるで、赤いセロファンの中に閉じ込められたような。または赤いインクのプールに放り込まれたような。


「お前らも、随分と多いんだな……」

 

 赤く染め上げられた世界の中で、黒く蠢く虫たちの群れ。 コイツらの数もいつもの比じゃない。

 部屋の壁という壁、天井、床、窓も扉も家具類の上にも。


 この空間の中で、俺とサクラ以外の全てが、黒い虫たちによって埋め尽くされているのだった。


「……サクラ」


 一歩、彼女の方へ足を踏み出す。


 ザァッと音をたて、俺の足が踏むスペース分だけ、虫たちが避ける。


 ――ザァッ、ザァッ、ザァッ、ザァッ。


 彼女の顔の前には、さっき俺が置いていったサクラのスマホがあって……。


「邪魔」


 ――カツン。

 俺はそれを蹴り払った。

 

 ロック解除?

 もうそんなものはいい。


 黒虫たちが、我先にとその用済みとなったスマホにたかってゆく。


「おい」


 俺はスマホを蹴ったその足で、その指先を床に転がるサクラの顎の下に潜り込ませ、彼女の顔を持ち上げた。


「なぁ……いい加減、起きろって」


「……」


「その無反応、もう飽きたよ」


「……」


「ちょっと、痛くしてみる?」


「……」


「……。」


 スッ、と、俺は足を引いた。

 途端に支えを失ったサクラの顔は重力に従い地に落ちる。

 ゴトッ。

 嫌な音を鳴らし、再び床の上に転がるサクラの頭。


 やりすぎ?

 暴力?

 DV?


 ……だから?

 それがどうしたって?

 

 結婚前提で付き合ってる彼氏が居るのに、浮気してヨソの男とシタことを嬉しそうに手帳に書き記してるクソ女に人並みの人権なんてあると思う?


「ないよなぁ、そんなもん。な?」


 それでもまだ人形のように動かないサクラの、その額の辺りに足を乗せ、サッカーボールをそうするようにグリグリと足裏で弄んでやる。


「それにしてもさぁ。えぇ?」


「……」


「よくもまぁ、こんなこと出来るよな? 他の男とさぁ」


「……」


「頭、おかしいんじゃない?」


「……」


「狂ってんじゃないの? サクラってさ」


「……」


「狂ってんじゃないのかって⁉ サクラはさぁっ!!」


「……」


「!!!」


 不意に衝動が沸き起こった。


『サクラをメチャクチャにしてやりたい』そんな気持ちが頭の中を占拠した。


 そしてその衝動と共に、幻覚も加速する。

 

 俺の視界を埋め尽くしている、原色の濃いぃ『赤』と『黒』。その2色で占められた空間が、唐突にグニャリと歪みだした。それはまるでアクリル絵の具のようにネットリとした感じで渦を巻いてゆき、そして互いを侵食するように、取り返しのつかない感じで混ざり合っていく……。


 出来上がった、新たな色。

 その毒々しく禍々しい、ドロドロと濁った色は、俺そのものだった。


 ドロドロが、俺だった。


 俺は、ドロドロになってしまった。

 

 ――気付けば、そのドロドロは、サクラの上にのしかかっていた。まるで、スライムのようなモンスターが、獲物を捕食するかのような動きで。


「お前も、ドロドロにしてやる」


 ドロドロはそう言って、ゲロで汚れた唇をサクラの唇に重ね、歯を割り開き、強引にその汚れた舌をねじ込んだ。


 そうしながら更に、人形のように動かないサクラの、その身体中を服の上からドロドロとまさぐった。


 胸を、足を、尻を、陰部を……。

 なるべく卑猥に。

 ことさら辱めるように。


「んんっ、んんんっ……」


「…………」


 いつしかドロドロは、激しく『勃起』していた。

 人の姿であった頃の、股間であった辺りのドロドロが、痛々しく隆起し、自己を主張している。 

 

「入れたい……」 


 ドロドロの剥き出しの欲求。

 バケモノと化した彼は、何もためらう事はなかった。


 ドロドロは、サクラのズボンに手を掛けた。

 ボタンを外し、ファスナーを下げる。

 緩んだウエストの辺りがはだけ、下着が見えた。


「緑色の……パンツ……新しい……」


 その下着を、ドロドロは見たことがなかった。

 まだ真新しい、おそらくは、最近購入したであろう、その下着。レースが美しく、小さなハートマークが品よく刺繍されていた。


「アイツの……好みか」


 ドロドロは、サクラが、自分の知らない下着を持っていたことに率直に驚き、そして、それを購入する理由に間男の存在を邪推した。 

 

「フザケルナヨ……クソガァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」


 ドロドロは叫び、そしてズボンと下着に一度に指を掛けると、それを脱がせるべく、膝の方へ引っ張るように力を込めた。 


 ――しかし、その蛮行は寸でのところで阻止された。


 ずり下ろされそうになったズボンに、サクラの両手が、その力を込めた指が、しっかりと掛けられていたからだ。


「……サクラ。お前……」


 見れば、いつの間に正気を取り戻したのか、サクラは目に涙を浮かべながらも、怒りに燃える瞳でドロドロを睨みつけていた。


「お前、目が覚めたの……ぐぺっ⁉」


 ドロドロは、蹴り飛ばされ、後ろに倒れ込んだ。

 サクラの左足の踵が、的確にドロドロの顎の辺りを撃ち抜いたからだ。 


「テメェ……」


 倒れた先で、すぐさま上体を起こしつつ、ドロドロは憎々し気にサクラを見る。


「……なんなのよ……」


 しかし、その視線の先では……。


「なんなのよぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」


 ドロドロを遥かに凌ぐ感情の爆発でもって、怒り狂うサクラが絶叫していたのだった。 

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