第四話「昇っては降り注ぐもの」

「家永さん、すごかったです」



 風呂から上がり出てきたあかりは、薄桃色のふわふわした寝巻きに身を包み、長い髪をよく拭いていた。

 おう。と、夕飯の盛り付けをしながら、家永は返事をする。

「何が、すごかった?」



「えっと、シャンプーがとっても良い香りで、すごく泡立って、地肌を洗うことがとても気持ちよくて」

「ああ」


「それだけですごかったのに、なんだかこう、トリートメントをして流すときの指通りにびっくりして」

「ああ」


「すごくなめらかなんです。リンスだって、少しだけスパイシーな香りがしたと思った矢先で髪にしたとたん、アロマのような、いやされる香りがして。とにかくすごくて」

「お前マジで、すごいしか言ってないぞ」



 あかりは案の定、詰まって赤くなった。しかし、正直に。

「でも、それくらいに、素敵な髪を洗う時間でした!」

 高潮気味に答える。小さく笑って頷き、盛り付けを終えると家永がそっと手を伸ばしてくる。

 叩かれるのか、と反射的に思ってしまうのは、普段の学校生活からだろう。しかし彼は当然、髪をつまみ様子を見るだけだった。



「まあ傷みも、カラーで傷んでるわけじゃねえし。続けて使えば、それなりに補修されるだろ。一度ブリーチしてると相当傷むから、出来ればこの先も、あんましないほうがいいかもな」

「は。はい」

「髪染める気とかあるのか? 学校は、校則とかどうなんだ。制服はさっきのだよな」

「えっと……あまりきつくないです。ピアス開けてる子とか、染めてる子とか、いっぱいいます。でも、制服だけは正しく着なさいっていう学校で」

「スカート膝下とか?」

「いえ。制限はありませんが、だらしなく皺が寄ってたりすると、職員室でアイロンをかけさせられたりします……」



「なんだそれ、おもしれ。」自覚は無く、クスリと優し気な面持ちを浮かべる。

 摘まんだ髪から指を放した後、流れで頭をぽんぽんと、撫でた。

 あかりは少し赤くなり、その手を見つめ上げていたが、じゃあ。と傍の戸棚から大切そうに取り出したものは、透明の薬品が入った、スプレーと白い先ほどのシャンプーたちと同じ銘柄のプッシュタイプのオイル。



「マッサージしてやるから。こっち来い」

「え、い、いいんですか?」

「練習台にもなるから。早く」



 食卓の椅子を引き、少し離れた場所で座らせる。

 髪の調子を少し見た後、家永は薬品を数プッシュし、頭皮に直接噴きかけた。

 すぐに、爽やかな匂いと、地肌にひんやりクールな心地よさがやってきて、それを髪にも揉み込みだした。



「あの、いつも気になっていたんですが、これは」

「頭皮用のシーブリーズで、ヘアトニックってやつ。マッサージ前に使うからそっちの薬品かって聞かれるけど、ま、平たく言えば育毛効果のあるもんで……髪の栄養剤みたいなもんだ。あと頭皮を清潔に保つものだな」



 へえ、と感心した。そして、肩にかけていたタオルをきちんと、肩や背中へ撫でるようにかけられ、マッサージが始まる。

 力強過ぎることもなく、かといって、弱弱しいわけでもない。

 ツボを押しているのだろうか、なんて知識もないあかりは思うが、今はそれはどうでもいいとも感じた。ただ、心地が良い。

 首筋から背中へ、それから肩。背中へマッサージが回ると、「こってるな」と呟く家永に、はい。と返事をする。

 それしか、あまりの心地よさに返事が出来なかった。



「……よし。トリートメントする」

「はい」



 手の平に数プッシュ。

 手になじませ、髪へトリートメントを揉みこんでゆく。

 その間も上品な香りがし、リラクゼーションされてゆく自分に、あかりは気が付いていた。


 その後すぐ、洗面所へ連れて行かれ、ドライヤーで髪を丁寧に乾かされる。

 自然乾燥ばかりしていたが、生乾きの髪にトリートメントをした後、きちんと乾かすことで髪が保護された。

 自然乾燥でも悪くはないようだが、生渇きのまま寝てしまうのほうが、ずっと髪に悪いらしい。



「どうだ」



 家永は長い髪を丁寧に梳かしてくれたが、少し大き目の鏡に映った自分の髪には、既に天使の輪がかかっていた。

 惚けていたが、髪にそっと手を置く。

 指を絡めて滑らせると、良い香りと共にストン。と指が落ちた。指通りが、良過ぎるのだ。



「……」

「なんか言えって」

「いえ、あの、……びっくりしていて、言葉がうまく出ません」



 なんだか、すごい。



「魔法みたいです。」



 思わず頬を少し赤く染めて顔をあげる。が、家永はその言葉に、一瞬。



『魔法をかけられたような気分』



 ──とても鮮明に覚えている、お客様から戴いた宝物の言葉と同じで。

 思わず、ふしぎだ。と、小声のあとに、ささやかに笑ってしまった。

 あかりこそ、その言葉にふしぎそうだったが、いやなんでもない・と、家永は髪を、ぽんぽんと撫でる。



「お前、髪質は元々、ずいぶん良いほうだからな。ケアしてけば、どんどん綺麗になるよ」

「これ以上綺麗になるんですか? 信じられません……!」

「まぁ、いいからさ。とりあえずメシにする。そして、今俺に言う、言葉は?」



 問われ、あかりはハッとして立ち上がり、頭を下げて言う。

「ありがとうございました!」



「マッサージ、すごく気持ちよかったです」

「ならいいし、よかった。どーいたしまして」

「はい。ドライヤーも、さすがプロさんですね。……乾くのがすごく速かった気がします」

「手入れが大変なら、ばっさりいくのも手だと思うけどな」



 リビングへ向かう彼の後を追って歩きながら、少しだけ髪を指で絡めて毛先を見る。

 確かに、昼間にガムをとってもらった他では、もう一年以上髪を切っていない。

 考えたが、はい。と頷き、食卓の席に着く。野菜スープとカルボナーラを目の前にして向かい合って、家永と座ると、口を開いた。



「あの。家永さん」

「ん」

「お金はきちんとお支払いするので、頼んでもよろしいでしょうか」

「カットを?」



 はい、とあかりは頷いて目を伏せて少し笑う。



「母も、長いより、少し短いほうが似合うとよく言ってくれていました。ただ、母が倒れてからは……美容院へ行く余裕とか。ちょっと辛くて、なくって」

「ああ」

「もう、母はいません。悲しいけど、悲しすぎるけど。……少しずつ心に、ゆとりを作って、元気になって、その姿を見せてくことも、必要かなって……」

「……別に」



 金なんか取らねえよ。

 そう言って、いただきますと言って家永はスプーンとフォークを使い、半熟卵をつついてドロリと黄身を出して絡め、丁寧にカルボナーラを食べ始めた。

「一応、親戚にはあたるからな」



「親父と母さんに、親戚からは、カット代とるなって言われてるから。この先、世話になるだろうからって」

「……親戚」



 少し驚き気味に復唱したあかりは、やや目を見開いた。しかし、だってそうだろ、と発泡酒を開けて家永は当然のように言う。



「お前は俺の父さんの兄弟の、奥さんの娘。

 本当の親父のことはよく知らねえけど、まぁ今は、そんなんどうでもいい。

 お前はお前で生きてる。


 灯子おばさんに育てられて、仲良く暮らしてきた。

 確かに辛いこと、死ぬほどあったかもしんねぇ。


 でも今こうして暖かい部屋に居れて、暖かい風呂に入れて、美味いメシにありつけて、この冬場に雨風凌げる場所に、こんなやさしー男前の世話をしながら、暮らせるんだから。


 なんだかんだで、恵まれてるとか考えてみても、いいんじゃないか」



 小母さんが亡くなったのは、凄いショックだったけど・でも。──目を伏せ、考えた様子であったが、彼はすぐに発泡酒を口にし、続ける。



「これから死ぬんじゃないかと思うほど幸せになって、虐げてきたクソヤロー共を見返すくらい。


 辛かったことをお前に注いだ、神とやらを見返すくらい、良い女になって。

 良い人間になって、上々な人生、送ればいいんだよ。


 協力するとか手伝うとか、そういう言い方は恩着せがましいから言う気ねえけど。



 俺が居るなら大丈夫だろ。」



 食事を続けて、なんとでもないという様子で言う家永の言葉。


 あまりの衝撃に、固まってしまう。……



 視線を落として、温かく美味しそうな夕食を見つめ、手を合わせて小声でいただきますと言うと、あかりは端正な所作でフォークとスプーンを使って食事を始める。

 半熟卵を突くと、家永が割ったそれと同じように、ドロリ。黄身が溢れ出てきた。この卵は、この姿こそが美しいのだと訴えるように、部屋の白熱灯の明かりに反射し、ぬらぬらと光っている。

 クリームソースとパスタ、卵をしっかりとかきまぜてから一口。口内に、幸せな味が広がる。

 家永の言う通り、“美味いメシ”だ。それでいて、自分で得意料理と言うだけあってとても出来が良い。一口だけ口にした、ただそれだけなのに。



「おい」



 込み上げてくるものの正体は、わかっていた。

 あかりは涙を浮かべて打ち震え、どうした。と、声をかけてくれる家永に、なんでもない。と首を振って無言で訴える。


 言葉が出ないのだ。咽喉元で「なんでもありません」という言葉がつっかかっている。そして、口から放たれてくれない。



「口に合わなかったか?」

「……」

「じゃあ……なんだよ。どうした」



 カチャ。スプーンとフォークを一旦休ませ、家永はそっと手を伸ばしてあかりの髪を撫でる。気分でも悪いのか、と問いかけても、首を横に振るだけ。悲しいのか、と問いかけても、あかりは首を横に振るだけだ。



「……から、です」

「……きこえねえ」



 絞りだすように言うか細い声は、とても、小さい。

 噛みしめた歯の間から、やがて嗚咽がほとばしり出てくる。

 落ち着けと言って席を立ち、そっと彼女に近づくと、家永は困ったものであったが、屈んでから、椅子に座る彼女の目線より下から見上げ、背中を撫でてやった。


 花弁のような色。しかし、少しだけ官能的に厚ぼったい唇は、震えているが、背中をしばらく撫でていると、とめどなくボロボロ零れた涙も、少しずつおさまりゆく。

 それでも震えて、あかりは必死に言葉を零した。

「誰かに、ご飯を、作ってもらうの」



「出来たてなの、とっても、久しぶりで」

「そうか」


「すごく美味しい、です。お母さん、の、こと……思い出して」

「……ああ」


「父の行方、とか。父の存在が、ないことでも……散々、冷たい言葉、かけられてきていて」

「ああ」


「でも、家永さん、どうでもいいって、言ってくれたから」

「そうだな」


「それが、ほんとうに。ほんとうに、嬉しかった、です」

「……そうか」



 ぐしゃぐしゃに泣いている彼女に、息をついたが。

 そっと頬へ手をぴたりとくっつけ、親指で涙を拭ってやる。

 それでも止まらない涙ではあるが、先ほどよりは勢いがおさまってきた。

 洪水のように溢れて零れていたそれは、落ち着きを取り戻しつつある。


 あかりは、ゆっくりと泣いて閉じていた目蓋をひらいた。

 長く黒々とした睫毛が濡れており、ささやかでいて、とても大切な喜びを知ったその瞳には、少しだけ困っている自分──家永が映っている。



「魔法の人、か」

「はい」


「ああ。そうだな。俺は、お前にこれから、ふしぎな魔法をかけてく」

「……はい」


「だからって別に、畏まったり、気を遣い過ぎることもねえから。てか、そっちのほうがやり辛いしさ」

「……はい……」


「これからよろしくな。あかり」

「よろしく、お願いします。家永さん」



 名前を呼ばれただけで、心が、水を吸う海綿のように豊かに潤ってゆく。

 あかりは瞳を細めて微笑んだが、それは目の前の男があまりに眩しく、ある意味で尊い存在になったからだ。


 この人のためならなんでもする。なんでもできると思うの、お母さん。──きっと、自分を御座なりにしてでも、幸せになってほしいと、無償の愛を捧げたくなるような存在になりゆくのだろう。


 おぼろげにそう自覚していたあかりは、安堵の息をつくと同時に目蓋をそっと閉じると、また頭を撫でられた。

 その行為はまるで、心臓を羽毛で撫でられているような心地だとも、錯覚できるほど、温かく優しいものだった。

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磨彼ふしぎ 志葉田とまと @nyanchii1992x

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