不信仰な聖餅

広河長綺

第1話

キリストの教えに反したのはこれまでの人生で1回だけしかありません。

今となっては、はっきりとは思い出せませんが、10年ほど前のことだったと思います。


その日は、土曜日でした。

なぜあやふやな記憶の中で曜日の記憶が確かなのかと言えば、「事故」が起きた時教会のキッチンにいたからです。


当時この教会にきたばかりの若い私は、ミサで使う聖餅ホスチアを教会のキッチンにある、古くて小さいオーブンで焼いていました。


聖餅とは、ミサで神父様が信者たちの口に置く無発酵パンです。儀式の中で使う物なので、その準備をしていたということは、その日はミサ前日の土曜日だった、と言えるでしょう。


・・・それにしても、今思えば、教会にある錆びたボロボロオーブンをわざわざ使う必要などありませんでした。「聖餅は教会のオーブンで焼きなさい」という教えはないのですから。


例えば、私の自宅にある大きいオーブンを使えば、1回焼けば全員分が完成したでしょう。今の私ならそうします。


でも当時の私はこだわっていました。この村に来たばかりだったからです。


神聖なパンを作らなきゃ。

祈りながら焼こう!

形も綺麗にしないと。


若さゆえの完璧主義が空回りしていました。


ただ、一生懸命さは本物です。


毎週土曜日に教会に来て、1枚1枚焼く。


その日も、そんな面倒臭い作業に没頭していました。

そして5枚目を焼き終えたタイミングで、爆発音を聞いたのです。


「え……?」

私は驚きました。

だって、それは音というより、振動と呼ぶ方がしっくりくるほど大きいものでしたから。

この教会は村の中心からは、距離があって普段は静かなのに。


でもすぐに思い出します。

そういえば今日は、近くの山でお祭りがあるとか。

祭りの花火の音だというなら納得できます。私は作業に戻ろうとしました。


でも、次の瞬間にはもう1回音が響いてきたんです。


ドゴオオオンッ!!!!!

地面がさっきよりも大きく揺れました。教会のキッチンにある木製のテーブルが、ギシギシ音をたてました。


さすがに、もう、無視できません。

エプロンを脱ぐことも忘れて、おそるおそる外へでた私の目に映ったのは、悲惨な交通事故の光景でした。


ひっくり返った1台の車。

道路のうえで輝いてる窓ガラスの破片の数々。

そして、仰向けで動かない人。


地獄です。

でも地獄なら、神の救いが必要なはず。


私はエプロン下でネックレスにぶら下がっている十字架をギュッと握り、自分を鼓舞して現場に向かって歩いて行きました。

まずは仰向けで地面に転がっている30代ほどの白人男性が心配です。私は駆け寄り、そして絶望することになりました。


顔が蒼白だったからです。血も泥もついていない白すぎる肌には生気がありません。


近づいて確認してみましたが、やはり、呼吸をしてませんでした。

外から見てる分にはわかりませんが、車から投げ出された衝撃でその男の人の体の中はグチャグチャだったのでしょう。


死。


どうしようもない悲劇がそこにはありました。

私は修道女の癖で弔おうとしそうになり、慌てて首を振りました。


今は緊急事態。目の前に死体があればゆっくり祈ればすむような平和な日常ではありません。


――今死にかけている人がいるかもしれない!。

私は弔いを後回しにして、周囲を観察しました。


そして見つけて「しまった」のです。


車の破片の向こう側で地面に転がる少女の姿を。


「やっと、見つけたね。遅すぎ」

少女はそう言って白髪を手ぐしで整えながら、上半身だけ起き上がりました。


よく見ると、確かに少女の白髪には雨でぬかるんだ土が付着していました。

でも、今、この状況で、髪の見た目を気にするような余裕がどこにあるのでしょうか。


謎の落ち着きを見せる美少女に私は「あ、あのケガはない?」と声をかけ、ここではっきり顔を見ました。


年は12,3歳くらいでした。

不機嫌さが素直に顔にでている所は幼いのですが、目つきの鋭さは子どもらしくありません。

そのアンバランスさが不思議な魅力となり、彼女の顔に目が吸い寄せられていました。


「何ボーっと見てんだよ。動けよ」少女は右手を私の方へ伸ばし、私を罵りました。

「ご、ごめんなさいお嬢さん」私は慌てて彼女の手を引っ張り上げながら謝りました。


圧倒的な存在感からは予想もできない程に彼女の体は軽い物でした。


ちょっと引っ張っただけで彼女の体はもち上がり「シスターさん、ありがと。あと、私の名前はミリアムだからね」とちょこっと頭を下げ、感謝の意を示してくれました。


私は「どういたしまして」すら、言えませんでした。

胸がキュッと締め付けられたような感覚に襲われていたからです。


苦しいけど不快ではない、甘美な痛み。

サウナにでも入っているかのように火照る顔。


今でも信じられません。

でも、確かに、私は恋に堕ちていました。


しかも、「一目ぼれ」で「初恋」で「同性愛」です。


混乱の極値にある私の脳裏に、聖書の一節が浮かびました。


『こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、 同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行なうようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです』

ローマ人への手紙1章26節27節


他にも同性愛を「罪」と定義する文が、聖書には散見されます。


もちろん、今のご時世、同性愛を弾圧すべきだとは思いません。

しかし、私のような神に仕える職の者が同性愛に溺れるなど、論外だと思います。


どうすればいいのか、わかりませんでした。


ミリアムは「シスターさん、何してるの?体が動かなくなったの?」と呆れたように笑い、教会の方へスタスタと歩き始めていました。


私は慌てて、ミリアムを走って追いかけました。「ちょっと。教会に行く気なんですか」


「ううん」ミリアムは首を横に振りました。「教会隣の小屋に行くよ。軽いけがはしてるし。あの小屋に行けば、シスターさんの私物があるし手当してくれるんでしょ?」


「そりゃ、まあ」


「じゃあ、お願いしまーす」


私が一生懸命に手当てすることを確信しているような口ぶりでした。

私は、何と言えばミリアムを止められるかを必死に考えながら、後を追いかけました。


ミリアムを看病したくなかったから、ではありません。

看病したくてしたくて、たまらなかったからです。


ミリアムの少し泥の付着した白髪、折れてしまいそうなほどに細い首筋。

その美しさが目に入るだけで鼓動が速くなっていました。

教会という建物の中で2人きりになってしまったら・・・。


自分がどれほど淫らな行為をしてしまうのか、想像もできません。

自分自身が怖かったのです。


何かミリアムと「私」を止める言い訳に使えるものはないかな、と周囲を見渡していたその時です。


私の視界に、最初に発見した男の死体がチラッと映りました。


痛ましいという感情を思い出すとともに、違和感がふと湧き上がりました。

それは「なんで、あの死体には泥がついていないのに、ミリアムにはついているのだろう?」という疑問です。


よく見ればその時、地面の雨水は乾いていました。車は雨水でスリップしたわけではなく、車から投げ出されても泥はつかないはずなのです。


雨水でスリップしたわけではないなら、なぜ、車はこんなに激しく道から外れたのでしょう?しかも音から考えると2回もコースアウトしているはずなのです。


もっというなら、なぜミリアムは教会のメインの建物には行きたがらないのでしょう?


「ねぇ」私はミリアムを呼び止めました。震える声で。「あなたって車が事故を起こす前から道路に寝転がってたの?」


怖すぎて逆に言葉を取り繕うことができません。

そんな私の捻りがなさすぎる質問に、ミリアムは振り返り「うん。っていうか事故の原因私だし。道路で寝転がっている私に驚いてコースアウトした後に、私をひき殺そうとしてもう1回コースアウトして車が横転したから」と笑顔で答えてくれました。


ママにケーキを買ってもらった子供のような、無邪気なスマイル。


私はやっと気づきました。

ミリアムは悪魔なのだということに。


私は慌ててネックレスの十字架を掲げました。


「なるほど。私を悪魔と解釈したんだね。みんな、それぞれの解釈で私を殺そうとするんだよ。この車を運転していた人もそうだったし。私の母もそうだった。私って、他人を挑発してしまう体質なんだよね。でも私を悪魔と解釈したのはシスターさんが初めて。面白いね」

ミリアムは冷静に喋っていました。納得したように頷いています。


悪魔の言葉に惑わされるな無視しなきゃダメだと思っていたのに気づいたら「聖書を、解釈と言うな」と口を挟んでしまいました。


「解釈でしょ。シスターさんは私に欲情しているのが嫌で、その同性愛嫌悪の理由づけに聖書を引用してるだけ。世界を解釈してるだけ」


「黙って」


「別に恥じることじゃないと思うけどなぁ」

そうぼやいたミリアムは、ちゃんと黙ってくれました。


しかし「悪魔」の罪は黙ったくらいでは消えません。


私は、静かに立っているミリアムに近づくと、持っている十字架を思いっきり彼女の首に振り下ろしました。木でできた十字架の首飾りは折れて、その尖った断面がミリアムの首に刺さりました。


真っ白な肌を一気に赤く染める血。脱力し倒れこむミリアムの体。


やはり私は正しい判断をしていました。


のです。死体を調べてもし人間だったとしても、その場合は「魔女」であり、どちらにしても殺すべき存在だったのです。間違いありません。


『ですから、神に従い、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります』

(ヤコブの手紙4章7節)


ミリアムの死体を見下ろしながら、私は聖書の1節を反芻し、自分自身に向けて言い聞かせました。それからミリアムの死体を引きずり、山奥に埋めたのです。


もちろん20代女性である私の腕力では、死体を山の奥まで持っていくことはできません。死体を埋めることができる深さもたかが知れています。

「いつか警察に見つかるだろう」と思いながらこの村の教会でシスターを続けてきました。


でも、幸いなことに、今のところ死体は見つかっていません。きっと神のご加護があったのでしょう。


あの日から現在まで私は、清らかな心を持つ敬虔なキリスト教徒として生きてくることができました。

悪魔の誘惑から私を守って下さった神様に、今でも感謝しています。

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