第6話

 十分ほど歩いて、『死骸置き場』と思しき場所に着いた。洞窟のような道を進んでいると、突然視界が開けて、広い空間に出たのだった。死臭は今までで一番ひどかった。腐乱臭の奥が甘く饐えていた。グロテスクな臭いだった。ぼくは、外国で風俗に連れていかれた時に嗅いだ、女の脇の下の臭いを思い出した。

『死骸置き場』という名前から、ゴミ処理場のように無秩序に死体が捨てられている光景を想像していたが、違った。棺のような水槽がたくさん並べてあり、そこに赤いドロドロの死体が沈んでいた。多くが水に溶けてしまったのか、赤い身体はだいぶ縮んで見える。水はピンク色に濁っている。

 電灯は他の場所よりも多く、比較的明るい。おかげで、死体の細部を覗くことが出来る。あの時見た死体は赤黒かった。しかし、今は完全なる赤で、それは血を思わせる。まるで、溶けた蝋燭だ。『レイダース』の最後のシーンで、こんな風に顔がドロドロに溶けるのを見たことがある。あれは蠟細工だっただろうか? もしかすると、違ったかもしれない。だいぶ昔に見た映画だから、あまりよく覚えていない。

「ここに、ぼくの顔が本当にあるのか?」

 鼻をつまみながら言ったからか、声が変に聞こえる。

「とりあえず探しましょう」

「死体は整頓されているし・・・・・・なんだか、落ちているようには見えないな」

「おそらく、死体に混ざっているのでしょう」

「死体に?」せき込んで言った。「じゃあ、なんだ。この中を探せってことか?」

「でなきゃ、どうやって探すんですか?」

 影の声は明瞭で、挑発的でさえあった。

「あんたはそのくらい出来るのかもしれない。でもね、ぼくは今朝まで衛生的なアーバン・ライフを送っていたんだ」

 憤慨して、ぼくはそう叫んだ。

 ぼくがそのように激しく怒るのは、めずらしいことではない。しょっちゅう誰かに怒っているような気さえする。誰かに怒るとき、ぼくはどこか客観的だった。あれ、どうしてぼくは怒っているんだろう、といつも思うのだ。が、今は違う。怒っていることに、疑いはなかった。今、ぼくの心は明快だった。まるで青空みたいだ。

「仕方ありませんでしょう・・・・・・だって、トリックスターはここに顔があると言ったんですから」

「だけど・・・・・・」ぼくは死体を見た。

 その時だった。背後で、小さな破裂音が聞こえた。ぼくは驚いて振り返った。そこには水槽があり、中には腹に穴の開いた小さな死体が沈んでいた。腹の中のガスで破裂したのだろう。悪臭がより強くなって、空間に充満した。

「この中を探すのか?」もう一度、ぼくは言った。

「ええ」影は頷いた。

「もしここに顔がなかったら、ぼくはあんたを殺すかもしれないな」

「そうですか?」

「ああ。そんな自分がいるなんて、信じたくないけどな」

「でも、自分のことでしょう?」

「まあ、確かにな。でも、自分でも気付けない本性ってのがあるだろう」

「そうですねえ」影は頷きながら言った。「自分も知らない隠れた本性は、大抵自分以外の誰かに暴かれるものです」

 含みのある言い方だった。どういう意味だろう、とぼくは考えた。黒の切り抜きである、影の顔を見た。しかし、そこには何も浮かんでいない。影はぼくの方を向いていた。ぼくたちは今見つめ合っていた。妙だった。目が無いため、そういう感覚がないのだった。その時ふと、影の絵を描きたい、と思った。好む題材ではないが、それでも美しい何かが描けるかもしれない、という予感があった。

 影の言葉の意味を問いただすようなことはしなかった。そうすることによって、何か箱を開いてしまうのが嫌だった。トリックスターと会ってから、ぼくはすっかり臆病になってしまったみたいだ。

 影が水槽の中を探し始めた。影は何のためらいもなく、死体を掴んだ。赤いどろどろの死体を千切った。すると、水が跳ねた。薄いピンクの水滴が、徐々に地面を濡らしていった。ぼくは覚悟を決めた。

 水槽は、一メートルほどの間隔を空けて設置されている。横に六個、縦に六個で、空間には、合計で三十六個の水槽があった。影は入口の側から探し始めたので、ぼくは対角線に位置する場所から始めた。水槽の中は変に暖かかった。近づくと、臭気は一層強烈になった。そこで、影は何故平気なのか、と不思議に思った。

 ぼくは影と同じように、まず死体を解体した。腕と思われる部位を抜き、足と思われる部位を抜いた。手と足は、何の抵抗もなく抜けた。バラバラになった手足を床に捨てると、死体の背中や、脇に顔が紛れていないかを調べた。小さく、軽くなった死体が、くるくると水の中で回転する。まるで踊っているみたいだ、とぼくは思った。

 その水槽にないと分かると、隣の水槽に移った。水の中をざっと観察する。腕を抜き、足を抜く。その後軽くなった死体を回転させながら、水に顔が紛れていないかを確認する。その繰り返しだ。観察、解体、確認、リフレイン、リフレイン。手は死体を覆う赤い粘液で、ぬるぬるとしていた。顔を手に近づけると、死体と同じ臭いがした。

「あったか?」ぼくは少し大きめの声で言った。

「ありませんね」

「こっちもまだだ」ぼくはため息をついた。「すでに最悪の気分なんだけどな」

 ぼくはその時、三つの水槽を確認し終えていた。影は四つだった。先はまだ長かった。こんな倫理的に咎められるようなことを、あと何回も繰り返さないといけないのか、と思った。そして心が重くなった。

「あんたはどうして平気なんだ?」

「はい?」

「死体をこねくりまわして、気分が悪くならないのか?」

「慣れですよ」影は吐き捨てた。「どんなことも、それが日常になった時点で、輝きや淀みを失うんです。そうなると、それはただの事実に過ぎません。それがたとえ、どんなに異常なことでも、です」

「これが日常なのか?」ぼくは訊いた。

「トリックスターに言われて、よく袋詰めしていますから」

 その時ぼくは、『研究室』にあった無数の袋と、その中に入っていた臓物の様なものを思い出した。今の今まで存在を忘れていたが、あれはこの死体だったのだ。トリックスターは死体を集めていたのだ! そんなことをする理由は、ぼくにはわからない。しかし、死体を集めているのは、紛れもない事実に思えた。

 再び水槽の死体を解体する作業に戻った。永遠に近い時間に感じた。いつまで経っても、作業は終わらなかった。途中で、水槽が増えているんじゃないか、と思った。もちろん、そんなことが起こるわけはなかった。水槽を二つ調べ終わると影に、見つかったか、と訊いた。そのたびに影は声を落として、いいえ、と返した。

 時間は誰にでも平等だと考えられているが、それは違う、と思った。時間は嘘をつくことがある。ほんの一瞬の時でも、それを無限に感じさせることが時間には出来るのだ。形を持たない時間を前に、ぼくは無力だった。そしてその無力感が、死体の暖かさや臭気と共に、ぼくを憂鬱にさせた。

 影は相変わらず淡々と作業を続けた。そこに感情が無いように、死体を触り続けるのだ。影は慣れているから、と言った。でも、ぼくが影の立場だった時、あのようにしていられる自信はなかった。死体は死体だった。それは変わらないはずだった。

 足元にネズミがいた。ユメネズミかと思ったが、違った。また別のネズミのようだった。

「コトバネズミです」背後で影は言った。

「コトバネズミ?」

「トリックスターはそう呼びます」

「へえ、言葉のようにありふれているからか?」ぼくは言った。

 すると、足元にいたコトバネズミはドロドロに溶けだした。熱湯を浴びせられた氷のように、徐々に小さくなっていった。やがて、コトバネズミは跡形もなく消えた。あとには黒のねばついた液体だけが残った。

「間違った解釈をされると、溶けて死ぬから、コトバネズミなんです」

 少しして影はそう言った。夢はありふれていて、言葉は間違った解釈によって殺される。よくもまあ、こんなに皮肉な体質のネズミが出来上がったものだ、とぼくは思った。

 見渡すと、空間の端の方に黒いシミのようなものが、幾つも出来上がっていた。潜んでいたコトバネズミが一斉に溶けだしたのだろう、とぼくは考えた。そんなものが存在したことには気付けなかったが、ネズミなどそういうものだ。

 水槽はぼくと影の分を合わせて、あと六個だった。その中のどれかに、ぼくの顔が混ざっているはずだった。もしそこになかったら、というようなことを、考えたりはしなかった。そんなことをするのは無意味だと、ぼくにはわかっていた。

 手前の水槽に、手を入れた。絶対に見逃すまい、と神経を研ぎ澄ませた。死体の熱が、より強く感じられた。死体の手足をもぐ時、慣れたと思った。気持ち的には、ビュッフェでズワイガニの足食べるときと、大して変わらなかったのだ。その時ぼくは初めて、人間の崩壊というものを自覚した。自分のイノセントを、失えば二度と取り戻せないそのイノセントを、ぼくは手放してしまったような気がした。

 その時、影が、あっと声を上げた。ぼくは驚いて振り返り、見つかったのか、と訊いた。影は何も言わなかった。影は水槽の中の水を見ていた。ぼくは影に近づき、同じように水槽の中を覗いた。

「あ」同じように、ぼくは声を上げた。

 そこには顔が浮いていた。仮面のような形状をした顔が、ピンク色の水面を気持ちよさそうに泳いでいた。それは、紛れもなくぼくの顔だった。見間違うはずはない。自分の顔がわからない人間なんて、存在しない。

「本当に、あったんだ」ぼくは呟いた。

「ええ」影は言った。「見つかってよかったですね」

「トリックスターは嘘をついていなかったんだ」

「彼は嘘なんてついたことがありませんよ」

「ただの一度も?」

「ええ」影は微笑んだ。

 ぼくは影の言葉を信じることにした。実際顔はあったのだから、彼をペテン師扱いするのはフェアなことじゃないだろう、と思った。彼が胡散臭いのは本当だとして、とりあえず話していたのは真実だった。それが大事だった。

 ぼくは水面に浮いた自分の顔を、優しくすくった。


 顔を手ですくった時、何かが指の間をすり抜けるような感覚があった。卵白を手で掴んだ時に似ていた。嫌な予感がした。無罪を勝ち取れるだろう、と言われていたのに、急激に死刑の流れに変わり出したような、そんな漠然とした死の予感だった。

 親指の付け根辺りに、目があった。目だけがあった。手のひらの真ん中に鼻があった。鼻だけがあった。そこで、顔が手のひらで崩れたんだ、と思った。

「どういうことだ?」ぼくの声は震えていた。

「はい?」

「ぼくの顔はどこにいったんだ」

「さあ」影は首を傾げた。「そこにあったじゃないですか、あなたの顔は?」

 ぼくの心をみたしていた光が、急速に縮んでいくのを感じた。心の中で物質化した光が、重々しい暗闇に潰されていくのだ。ぼくは目をつむり、光を見出そうとした。しかし、無駄だった。光の粒は一つも残っていなかった。

「今、希望が『欠如』しました」

「『欠如』だって?」ぼくはハッとして言った。

「はい」

「人間の崩壊は進んでいくと、言ったでしょう?」

「どうして顔は消えたんだ」

「さあ」影は笑っているように見えた。

 ぼくはポケットに入れていたスマートフォンを取り出した。そしてカメラを開き、内カメラにして、自分の顔を写した。ぼくは足から崩れ落ちそうになった。卵のようだったぼくの顔はほのかに黒く、まるでペスト患者みたいだった。

 こいつらは最初から騙す気だったんだ、とぼくは思った。ぼくは最初に見た死体、今見た死体、そして『研究室』で見た臓物の様なものを思い出した。決して遠くない未来に、ぼくもあのようになるのだ・・・・・・。

 急に意識が混濁し始めた。体が熱くなった。あらゆる音がくぐもった音に聞こえた。ぼくは一体誰だっただろうか、と思った。

 しかしわからなかった。・・・・・・顔を失い、名前を失い、今度は何を失えばいいのだ?

 その時ふと、こう思った。なんてことはないじゃないか、と。ぼくは黒ずんだ自分の肌を、手でそっと撫でてみた。感触があった。ぼくの手は冷たかった。

 ぼくは影が立っていた方向を見た。しかし、影はもういなかった。代わりに、一匹のネズミがいた。小さな目が、ぼくを見つめていた。こいつは人間の違いなんてわからないのだろう。顔があろうと、なかろうと。名前があろうと、なかろうと。

 手を差し出すと、寄ってきた。ぼくは手のひらに乗ったネズミを、握りつぶした。ネズミは簡単に潰れた。豆腐のようだった。赤黒い血が、指の間から落ちた。

 しかし、何も感じることが出来なかった。ぼくの心はもう乖離してしまったのだ、と考えた。それならば、仕方がない。ぼくのせいではないのだ。


 やがて、灰色の光がぼくをみたした。その中でぼくが考えていたのは、母のことでも、ぼくを襲った不条理のことでもなかった。絵のことだった。今のぼくを描けば、一体どんな絵が出来上がるだろう。悪くない絵が出来上がるはずだ、とぼくは考えた。

 素晴らしく残酷で、美しい絵が描けるに違いない。そんなぼくは今、幸せに違いなかった。

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青豆 @Aomame1Q84

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