第5話

 影はさらに奥へと進んでいった。景色は相変わらず変わらない。壁があり、冷たい光があり、微かな臭気がある。それだけを感じ取りながら、歩き続ける。

 道は複雑に曲線を描いていた。適当に道を作っても、こうはならない。おそらく意識して複雑に作っているのだろう、とぼくは考えた。

「『死骸置き場』は、遠いのか?」

「いいえ、そんなには」影は首を振った。

「暗いと感覚が狂うから、実は遠いかもしれんぜ」

「そうですね・・・・・・」

 途中で、壁にぽっかりと空いた穴に入った。ぼくの背丈ほどの穴で、潰れた女性器みたいな形をしていた。穴に体を押し込んだ時、ぼくは変な高揚を感じた。

 頭を天井にぶつけないために、少し屈まなければいけなかった。ぼくは、学生時代に行った火災訓練を思い出した。バニラ味の煙・・・・・・ハンカチ・・・・・・姿勢は低く・・・・・・。

「何をしているんだろうな、ぼくたちは」

「何って、それは・・・・・・」

 影はそう言ってから、押し黙った。

「どうした?」

「いいえ、何も」影は首を振った。

「ふうん」とぼくは言って、後ろを向いた。穴の入り口は、随分遠くに見えた。

 沈黙が続いた。それも、重々しい沈黙だった。急に空気が厚ぼったく感じられて、気まずかった。

 その沈黙を突き破るために、ぼくは話題を提示した。

「テオドール・ジェリコーは知ってるか?」

「テオドール・ジェリコー?」影は言った。

「うん、昔のフランスの画家のさ・・・・・・」

「あまり、知りませんねえ・・・・・・」

「とにかく、そういう画家がいたわけだ」

「それがどうしたんですか?」

 当然の質問を、影は投げかける。ぼくは腕を組んで唸る。

「さっきの死体が、彼の絵に似ていると思ってさ」

「死体を描く画家だったんですか?」訝しげに、影は言った。

「いいや」ぼくは腕を振って否定した。「そうじゃない。ただ、死の描き方とか、グロテスクな演出が、なんだか似ていると思ったんだな・・・・・・そういうのって、わからないか?」

 そうですねえ、と言いながら影は首を傾げた。あまりピンと来ないらしい。ぼくの影なのに、どうして絵に理解がないのだろう・・・・・・

 話している内に、絵に対する未練が込み上げてきた。大学を卒業してからずっと封じ込めてきた思いが、心の底で沸騰していた。絵で食べていきたい、と昔のぼくは考えていた。好きな絵を描き、その絵を好きだと思ってくれる人に買ってもらいたかった。しかし、やがてそれが荒唐無稽な夢想であることに気が付いた。ぼくの絵を好きだという人間など、周りにはいなかった。理想の対岸には現実があると、よく人は言うが、実際その通りだった。それを痛いほど知った。ぼくはいつも現実側にいた。理想は遠くの対岸にあり、その間には大きな川が流れているのだ。

 一般受けを狙って描くという方法はあった。事実、そうやって一般受けを狙って信念を捨てた知り合いを、今までに何人も見てきた。その度に、おれはこうはなるまい、と思ったものだ。ぼくが本当に描きたいのは、血と性が交わる淫靡で残酷な絵だった。人に見せれば嫌な顔をされる、そんな絵だ。それが芸術のはずだった。

「大丈夫ですか?」

 影はぼくの顔を覗き込んでいた。そこで我に戻った。おれは何をしているんだろう、とぼくは考えた。こんな風に悩むなんて、おれらしくない。だいたい、そんなの全く無意味なことじゃないか・・・・・・

「ああ、大丈夫」ぼくは頬を自分で叩いた。「ちょっと考え事をしていただけさ」

「そうですか」と影は短く言った。

 穴をくぐりぬけると、暗闇が先ほどよりも濃密になった。入り口が女性器の形をしていたからか、子宮に回帰したような気持ちになった。足首あたりまで水が張られている。それがぼくに、羊水を思わせる。子宮だ、ここは子宮なんだよ、ぼくは言った。影は何も言わず、ただ小さく頷いた。

 先ほどと同じ死臭が鼻を突いた。子宮に包まれる夢想の浮遊感が、急激に冷めていくのを感じた。生を内包する子宮のイメージは、空間を漂う死の予感に消し去られた。

「臭いがわかるでしょう? だいぶ近づいている証拠です」

「さっきよりも、ひどそうだ」

「ええ、あそこのは『欠如』が進んでいますから」

「『欠如』ってのがなんなのか、よくわからないんだけどな」

「いずれ――」

「いずれわかる、だろ?」ぼくは影の言葉を遮った。「もう聞き飽きたな、それは」

 影は息を吸うように笑った。笑い声が反響する。笑いだけが空間に残る。まるでチェシャ猫みたいだ、と思った。この場所は、やっぱりどこかアリス的なのだ。

 やがて笑い声が消えた。結局影は何も説明せず、再び歩き始めた。

 奥へ進むたびに、臭いがきつくなった。息を浅く吸うようになる。それを意識しすぎて、酸欠になりかける。頭がぼおっとして、倒れそうになった。

 靴は濡れ、水が靴下まで浸透していた。しかし、穴を抜けたあたりから、濡れることは甘受していた。足が冷たいが、それは仕方のない事だ。顔は取り戻さなければいけないのだ。

 足元に何かげっ歯類の動物がいた。ドブネズミではなかった。きっと別の種類のネズミだろう。黒い毛が濡れて光っている。踏みつぶそうとすると、素早く逃げられてしまった。壁に空いた小さな穴に入り込み、出てこなくなった。

「ユメネズミですよ」影が言った。

「ユメネズミ?」

「トリックスター博士は、そう呼びます」

「どうして、夢なんだ?」

「さあ・・・・・・夢のようにありふれた存在だからですかねえ」

「ありふれている?」

「ええ、ありふれています。夢は退屈です。それを、理想とかそんな言葉に置き換える人も出来ますが、他人から見たら、ただの夢です。そんな高尚なものじゃありません」

「皮肉だな」とぼくは笑った。

 影は、そうかもしれません、と言った。それは笑っているようにも見える。

 突然影が腰を落とした。水の中に手を突っ込んだ。ぼくは影に、何をしているんだ、と叫んだ。影は水の中で手をまさぐっていた。

「ほら」と影は言って水から手を抜いた。その手には大きなゲージがあった。「ネズミ捕りですよ」

「なんだ・・・・・・」とぼくは安堵した。

 ネズミ捕りの中には、先程よりも大きなユメネズミが捕らえられていた。豆のように小さな目がきょろきょろと左右に動く。自分の状況を理解していないのかもしれない。

 ギィギギギギギギ・・・・・・と鳴き声を上げた。ユメネズミという名からは想像もつかないような鳴き声だった。まるで夏に野原から聞こえてくる、けたたましい虫の声みたいだ。

「うるさいな」

「仕方ありませんよ」影は言った。

 影からゲージを受け取り、大きく振ってみた。中でネズミが宙に浮き、それから底に叩きつけられる。ネズミは黙ったままだ。

 ぼくは影にゲージを返した。影はそれを慎重に元の場所へ戻した。それを見て、ネズミは溺れたりしないのだろうか、とぼくは考えた。

「行こう」と今度はぼくから声をかけた。

 影が何か言葉を発したが、ネズミの鳴き声にかき消された。鳴き声が残響となって、鼓膜を震わしたが、やがてそれも水の中に沈んでいくように消えた。

「今、なんて?」

「大したことは言ってませんよ」

「それはぼくが判断するさ」

「あなたはくだらないと、判断するでしょう」

「そうか」とぼくは短く言った。「なら、仕方がないな」

 いつの間にか、「仕方がない」がぼくの口癖になっていた。良くない傾向だが、こんな状況では仕方のないことだ。それは、ぼくのせいではないのだ。

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