第4話

 飛び込んだ瞬間、地上の世界が上昇しているように錯覚した。しかし、それはぼくが落ちているだけだ。世界が上昇するわけがないのだ。

 地上の光はすぐに届かなくなった。真っ暗で、空を切る音も聞こえなかった。本当に落ちているのかどうか怪しかった。

 もっとも、足はどこにも着いていなかった。ということは、落ちてはいるのだろう。視覚と聴覚で感じることが出来ない分、実感が薄いだけなのだ。

 随分長いこと落下していた。滞空時間は恐怖なども関係して、実際的な時間よりも長く感じるものなのだろうが、それにしても長かった。本当にアリスみたいだ、と思った。

 下を覗いても、地面は全く見えず、ただ暗闇があるだけだった。ひょっとして、これが永遠に続いたりはしないだろうか、と不安に思った。しかし、終わりは唐突に訪れた。何の前触れもなく、ストン、と着地したのだった。衝撃は全く感じなかった。その場で軽く飛び跳ねた時のようだった。

「着きましたね」影は言った。

 ぼくは影の方を見た。

 完全に人がいない場所にいるからか、影には実体があった。黒い色をした体が、薄暗がりの中ぼんやりと見えた。ぼくはやはり、大して驚かなかった。

「ここが、下水道なのかい?」

「・・・・・・さあ、行きましょう」

 影はぼくの質問を無視して、歩き始めた。

 足元には水気を感じたが、下水が流れているというわけではなかった。地面が濡れているだけだった。微かな臭気が漂っていた。穴を覗き込んだ時に感じたのと、さして変わらない臭いだ。臭いの源泉に近づいたのに、不思議な話だった。

 頭上には電灯があり、青とも紫とも似つかない光を投げかけていた。落下している間は、光の欠片も感じることが出来なかったのに、とぼくは考えた。影は進み続けた。

 空間は常に薄暗く、不気味だった。ホラーゲームの舞台みたいだ、と思った。こういうステージでゾンビを撃ち殺すゲームを、ぼくはやったことがある。

 しばらく進むと、水の流れる音が聞こえた。影はその音がする方に向かった。黙って着いて行くと、やがて少し広い空間に出た。上から見れば、目のような形をした空間だ。数メートル先は、また細い道となっている。

「ここはどこなんだ?」ぼくは尋ねた。

「・・・・・・あと、少しですよ」

 影はやはり、ぼくの質問を無視した。ぼくは少しムッとしたが、気持ちを抑えた。

 右横には浅く水が張られていた。臭いはそこから漂っているらしい。鼻を近づけ、臭いを嗅ぐ。強烈な臭気が身体に取り込まれるのを感じる。死臭だ、とぼくは思った。何かがこの中で死んでいるのだ。

 よく見ると、何か黒い塊が水の中に沈んでいるようだった。そんな影が見えた。目を凝らしていると、やがてそれは水面に浮上した。人の死体のようだった。昔、インターネットの裏サイトで見た水死体に似ていた。体は通常の何倍にも膨れ上がり、肌は赤黒く変色していた。周りを見ると、そこら中に同じ姿かたちをした『死』が浮いていた。冷たい光がその『死』を包み込み、どこかへ運び去ろうとしているようだった。

 死体の一部が欠けていた。腐って、ちぎれてしまったのだろうか、とぼくは考えた。が、すぐにそうではないことに気が付いた。暗い色をした水の中で、小さな影が蠢いていた。ドブネズミだった。彼らが腐肉を食べたのだ。

 急に気持ちが悪くなった。ぼくは死体の浮かぶ水に向かって吐いた。胃液交じりの吐しゃ物が、水面を打つ音がした。ドブネズミが寄り集まった。彼らはぼくの吐しゃ物を、美味そうに食べだした。

 ぼくは何度か咳をした。息を整え、影の方を見た。

「ほら、行きましょう・・・・・・」影は言った。

「ああ」ぼくは頷いた。「ここは、あまり長くいる場所じゃないみたいだ」

「あと少しですから」

「ああ」

「着いてきてください」

 影は歩き出した。ぼくは影に着いていった。

 冷ややかな光を孕んだ空気の中を歩いていると、なんだか不思議な感じがした。歩いていても、進んでいる感覚がないのだ。景色が全く変化しないからだろうか。

 影が前へ前へと進んでいくのが見える。それだけが唯一、ぼくに進んでいるという感覚を与える。

「あと少しって、そもそもどこへ向かっているんだ?」

 答えが返ってくるとも思えなかったが、一応尋ねた。

「足元に気を付けてくださいね、滑りますから」

「あんたは話をはぐらかすのが上手いよ、ほんとに。誇ってもいい」

「・・・・・・あと、少しです」

「わかってるさ」

 影は足を速めた。早く目的の場所に着いた方がいいと判断したのだろう。足元に気を付け付けろ、と言ったのは何だったのか、と思った。しかし、口にはしなかった。

 歩きながら、壁を叩いてみた。壁の材質がどのようなものであるか、確かめてみたかったのだ。しかし、わからなかった。聴いたことのない音が響いたが、それだけだった。

 壁は冷たくなかった。鉄だとか、そういうものの類ではないな、とぼくは判断を下した。コンクリートでもないだろう。確証はないが、そんな気がした。

 道が右に曲がっていた。左側の壁が微妙に、しかし不自然に変色していた。元々は道が割れていたのを、埋めてしまったのだろう、と思った。そういう色の変わり方だった。絵を描いていれば、色の変わり方は嫌でも意識するようになる。ぼくがその微妙な変色に気が付くのは、当たり前のことだった。

「変てこな場所だなあ」

「・・・・・・変ですか?」影はやっとまともな返答をした。

「変だよ」ぼくは言った。「さっきの水死体みたいなやつもそうだけど・・・・・・あれは何なんだ、一体?」

「いずれ分かりますよ」

「丁寧に説明したところで・・・・・・ってことかい?」

「そういうことです」

「ふうん・・・・・・」

 やはりぼくは、曖昧に頷いた。影と一緒にいると、それが癖になりそうだった。

 あ、と影が声を上げた。「あそこですよ」

 奥の右壁に、緑色に光る文字が見えた。『研究室』と書いてある。不気味に明滅しながら、その存在を誇示している。何故住宅街の真下に、そのようなものが存在するのか? ここでは戦時中に兵器開発が行われていた・・・・・・そんな筋書きを思い浮かべてみたが、どうもしっくりこなかった。

「この『研究室』が、目的だったのか?」ぼくは尋ねた。

「ええ」

「ここに、ぼくの顔があるのか?」

「いいえ」影は首を振った。「ここにはありませんよ」

「じゃあ、どうしてここへ?」

「会っていただきたい人がいますから・・・・・・」

「会っていただきたい、なあ」

『研究室』という文字の下にある扉は、とても重厚そうだった。白い両開きの扉だった。影が両手で扉を押し開いた。軋んだ音を立てていた。

 影が颯爽と中に入っていく。ぼくもそれに続いて中に入る。

『研究室』の中は白い光に満ちていた。病院みたいだ、と第一にぼくは思った。消毒液の臭いがした。何か液体の入った袋がいくつも床に置かれていた。アルコール臭は、そこから発せられているのかもしれない。

 何かの実験で用いるような器具が、ガラスの保管庫の中にたくさん収められていた。高校の生物実験室で目にしたことがあるような器具まである。大小様々な形のビーカー、駒込ピペット・・・・・・そういったものだ。

 奥に回転椅子があり、誰かがそこに座っていた。男だった。白衣を着ている。こちらには背を向けているので、年齢などはわからない。髪が短かったので男と断定したが、それも確かなことではない。

「やあ、はじめましてですな」

 男は椅子を回し、こちらを向いて言った。低く、聞き取りにくい声だった。手にはビーカーがあった。黄色い液体が入っている。見たところ、男はそれを飲んでいたみたいだ。

「ええと・・・・・・どうも」とぼくは会釈をした。

 すると、男がいきなり笑い出した。ぼくの態度がどこか滑稽だったのかもしれない、と考えたが、すぐに自分の顔が無いことを思い出した。笑うと、彼の顔に大きな皴が生まれた。それを見て、歳は五十から六十の間くらいだろうか、と予想した。

 すみませんね、緊張しているみたいだから、おかしかったんです、と男は謝った。

「ぼくの顔を見て、おかしいと思ったわけではなく?」

「顔なんてみんな失くすもんですから」

「そうは思わないけど・・・・・・」

「まあ、君にはわからんでしょうな。実際、本当に顔を失くす人間が珍しい」

「何を言っているか、さっぱりだ」ぼくは言った。

「確かで不確かな生を、確かに不確かにまっとうしていれば、自分がわからなくなることもありましょう。それが、顔を失くすということです」

「哲学だ」とぼくは鼻で笑った。

「しかしこの様子じゃ、こいつは、僕が誰だかを説明しなかったわけですな」

 影の方を見ながら男が言った。

「はい、何も説明しませんでした」

「それはひどい話だ」男は笑った。

「全くです」ぼくは同意した。

「でも、着いてきたわけですな。ならいい、ならいい。大事なのはたどり着くことですからねえ・・・・・・」

 もう一度、男が笑った。よく笑う人間だ。この男は笑うこと以外で、感情を表現出来ないのかもしれない、と半ば本気で思った。

「誰かの顔がここに流れてきたのを、昨日みました。つまりあれは、君の顔だったわけですな?」

「昨日?」ぼくは叫んだ。「ぼくが顔を失くしたのは今朝だ、昨日じゃない」

「ここの時間の流れ方が、君のいた場所と同じだなんて、思わんでくださいや」

「何?」

「君にとっては今朝でも、僕たちにとっては昨日だったんですな」

 男の言うことは、ぼくにはさっぱり理解できなかった。彼の常識とぼくの常識の間には、何か明確な齟齬があるようだ。歪みと表現したっていい。

「とにかく、今頃君の顔は、『死骸置き場』にあるんじゃないかな」

「『死骸置き場』・・・・・・何ですか、それは?」

「途中で、黒ずんだ人間の死体のようなものを、見ませんでしたかな?」

「見ました」

「あれがさらに『欠如』すると、『死骸置き場』に送られるんですや。君が見たのは、第三段階の死骸でね。まあ、何を言っているか、君にはわからないだろうが・・・・・・」

 その通りだった。ぼくは、彼が何を言っているのか、よくわからなかった。説明を全くしないSF小説みたいだ、と思った。

 男が立ち上がった。床に置かれていた袋を一つ手に取った。縛られていた部分を解き、中身を取り出した。男の手には、赤い、人間の臓物のようなものが握られていた。

「なんですか、それは?」

「いずれわかりますや」

 男はにやりと笑って言った。影の話のはぐらかし方は、この男由来なのかもしれない。

 男は壁と手にある物体を交互に見ていた。

 壁には、何かの設計図が張られていた。ラグビーボールに、尾びれを付けたようなものが描かれている。無知なぼくでもわかる。おそらく、何らかの兵器の設計図だった。

「とにかく、そこに行ってみるといいです」男は言った。「探すのは大変だろうが・・・・・・場所は君が案内をしてあげてくれ」

「はい」影は頷いた。

「君、名前は?」男はぼくに訊いた。

 ぼくは自分の名前を無機的に唱えた。

「僕はTです」男はぼくに握手を求めた。「よろしくたのみますよ」

「トリックスターというのが、本来の名前なんですよ」

 影が耳元で、そのように補足した。トリックスター・・・・・・ペテン師・・・・・・秩序の破壊者・・・・・・そのようなイメージが、ぼくの頭の中を巡回した。もしかして、おれは今騙されているのかもしれない、とぼくは考えた。

「よろしく、T」ぼくはトリックスターの手を握った。「でも、もう会うことは、ないかもしれないな」

「そうですかい?」

「顔を取り戻したら、すぐに帰る。ここは、なんだか不気味だ」

「みんな最初は、そうやって言うんですよ・・・・・・」

 トリックスターはそう言って、臓物のような物体を袋に戻した。手には桃色の粘液がべっとりと付着していた。ぼくは、思わず顔をしかめそうになった。彼はその粘液を白衣で拭った。白衣が薄いピンクに汚れた。ふふん、と彼は鼻歌を口ずさんだ。

 トリックスターが放った言葉が気がかりだった。みんな、とは何だ? 最初は、とは何だ? ・・・・・・わけがわからなかった。ここに来たことのある人間が、ぼく以外にも存在するということなのだろうか?

「さあ、行きましょう」影はぼくに向かって言った。

「ああ」ぼくは頷いた。

 影は扉を開き、外に出た。ぼくは一瞬立ち止まり、部屋の中を見渡した。そして、気が付いた。床に散乱した袋には、小さな文字で何かが書かれていた。手に取れば読めるのだろうが、遠目では無理だ。

 あまりジロジロと見すぎるのも良くないと思い、部屋を出た。扉が閉まるとき、思ったよりも大きな音が鳴って驚いた。

 おれは何に怯えているんだろう、とぼくは思った。

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