第3話

 家を出る前に、少し待っていてくれ、とぼくは言った。これからどこに連れていかれはわからない。しかし、何らかの対策は出来るはずだった。

 然るべきに着替え、ポケットにスマートフォンを入れた。懐中電灯、時計、全てスマートフォンで済んでしまう。そういう時代なのだ、と改めて感じた。

 ウエストポーチを身に着け、そこにモバイルバッテリーを突っ込んだ。他に入れるものは思いつけなかった。食料を入れたところで、食べる口がなかった。

 服を選んでいる際、母親が残して帰ったキャミソールを見つけた。特に柄のない、シンプルなデザインのものだ。ぼくは無意識のうちにキャミソールを手にし、自分の鼻に押し付けた。深く息を吸った。性器は粛々と勃起しだした。

 なんだか、馬鹿みたいだ。恥ずかしくなり、太ももを軽くつねる。性器は大きくなり続ける。勃起。

 その場にいるのはぼくと、ぼくの影だけだった。自慰をする権利くらいあった。でも、しなかった。ぼくは勃起した性器が鎮まるのを、ただ待つことにした。

 時間は性器の高ぶりを和らげた。勃起は情欲と共に、風に吹かれてどこかへ消え去ってしまった。

「準備は済んだのでしょうか・・・・・・」影が言った。

 影はぼくが行ったことの意味を理解していた。声に優しさが溶けていたからわかった。当たり前の話ではあるが、こいつはぼくの心を完璧に理解しているのだ。

「ああ、もう大丈夫」

「そうですか」

「なあ、ぼくは外に出ていいのかな」ぼくは言った。「帽子を深くかぶれば、気付かれはしないかもしれない・・・・・・でも、ちょっと不審すぎやしないかな」

「大丈夫ですよ」

「どうしてそう言えるんだ?」

「そう遠い場所じゃありませんから」

「ふうん」ぼくは帽子を深くかぶった。「そういうもんかな」

「そういうものですよ。大体、すれ違った人の顔なんて、いちいち見ないでしょう?」

「まあ・・・・・・そうだけどさ」

 影は玄関に出て、ドアを開けた。どういう仕組みで開けたのかはわからない。きっと、そういう力があるのだろう。そう解釈するほかない。

 スニーカーを履いて、家を出た。振り返ると、建物はひどく小さく見えた。空が嫌になるほど青かった。そこで、それ以外の色を知らないのかもしれないな、と思った。

 ぼくは影に、いこう、と言った。

 影は何も言わずに敷地を出て、右に曲がった。ぼくは急いで追いかけた。足元を合わせなければいけなかった。影がひとりでに歩いていたら騒がれてしまうに違いない。

 ぼくはなるべく下を向いて歩くことにした。そうすれば、顔に気づかれることはない。もう何年もこの変に住んでいる。目をつむったって歩けるはずだ。

「なんで絵を描き続けるんですか?」だしぬけに、影は言った。

「なんでって?」

「絵でご飯を食べているわけじゃないでしょう?」

「違う、ただの趣味さ」とぼくは否定した。

 ぼくは仕事で絵を描いているわけじゃなかった。美術系の大学に進学したが、結局就職したのは絵となんの関係もないところだった。イラストレーター志望なら道はあったのだろうが、ぼくの専門は水彩画だった。現代では、あまり需要があるとは言えない。だから、爾来、ぼくはただの趣味として絵を描き続けているのだ。

「なら、お金以外の理由があるわけでしょう?」

 ぼくは言葉を詰まらせた。それを誰かに説明するのは、とても難しい事なのだ。

 昔から絵を描くのは好きだった。言葉に出来ること、出来ないこと、なんだって描けるからだ。でも、ぼくが描き続けるのは、それが理由ではないような気がしていた。それだけなら、多分とっくに辞めていただろう、とぼくは考えていたのだった。

「絵は、ぼくがルールだからな」

「ルール?」

「絵の中だと、人を殺せるし、女の服も剥げる」

「だから描くんですか?」

「違うけど・・・・・・」ぼくは首を振った。「でも、大体はそんな感じだと思う」

 影はそれ以上追求したりはしなかった。最初からぼくの答えなどわかっているのだろう。ぼくがそれを言葉にできるかどうか、試しているだけなのだ。

 ふと視界の端に、女の白い足とそれを包む黒のソックスが映った。おそらく高校生だろう、と推測した。ぼくは少し顔を上げた。やはり女は制服を着ていた。

 この時間に学校に向かっているということは、彼女は遅刻をしているのだろう。ぼくはスマートフォンで時間を確認した。もう十時になっていた。

 ぼくは女の足を見ながら歩き続けた。一定のリズムで地面を蹴る足は、ぼくに破壊的なイメージを与えた。全てを蹂躙する足、女の足。

 影が道を左に曲がった。女はそのまま進み続けたので、そこで別れることになった。ぼくは、なんとなく名残惜しく思った。もう少し見ていたかった、と思った。

 周囲に人がいなくなったことを確認して、ぼくは言った。

「あと少しなのかい?」

「ええ、あと少しですよ」

「この通り?」

「ええ、あとは道なりですから」

 ぼくは頭にこの辺の地図を思い浮かべた。しかし、この辺に何か特別なものがあった覚えはない。あるとすれば・・・・・・

「それは・・・・・・まさか、マンホールの中だったりしないよな?」

「さあ」影は笑って言った。「どうでしょう・・・・・・」

「この辺に特別な建物はないよ、あるのは民家と不動産屋くらいだ」

「なら、マンホールなのかもしれませんね」

「待ってくれ」ぼくは叫んだ。「本当にマンホールの中に入るのか?」

「あなたの顔は水に流れたのでしょう?」

「そうだけど・・・・・・」

「なら、マンホールを潜り抜けても、不思議じゃないでしょう?」

「だったら最初からそう言ってくれればよかったんだ」

「そうかもしれませんね」

 腹の立つ言い方だった。これがぼくの影だと思うと、ひどく嫌な気持ちになった。怒鳴りつけてやりたかった。しかし、相手はぼくの影だ。怒鳴りつけても、自分に返ってくるだけだった。

「ほら」と影は言って、指を前方に向けた。「ここですよ」

 ぼくはその方向を見た。

 それは本当にマンホールだった。影の質の悪い冗談ではなかった。光沢がなく、何度も人に踏みつぶされたことを予感させた。いやに不気味だった。試しに蓋を踏んでみると、こつん・・・・・・とくぐもった音が鳴り、ぼくの不安は高まった。

「本当に、この中へ?」

「ええ」

「それって、社会のルールからはみ出さないか?」

「絵だと思えばいいんですよ」

「絵だって?」ぼくは訊き返した。「どういう意味だ?」

「絵なら、あなたがルールなのでしょう? ここはあなたの絵の世界で、マンホールは外し放題。もちろん、その中に入るのも。・・・・・・どうでしょう?」

「そりゃあ、そう思えば楽だろうけどさ」

「じゃあ、そうすればいいんですよ」

「自分を騙すって、そう簡単なことじゃない」

「じゃあ、甘んじて受け入れるしかありませんね」

「受け入れる?」

「ルールからはみ出すことを」

 もう一度マンホールの蓋を踏みつけた。今度は重々しい音が響いた。踏みどころが先ほどと違ったのかもしれないな、とぼくは考えた。

「それを外してください」と影は言って、蓋を指さした。

 しかし、それはどう見ても重そうで、簡単には外れそうになかった。確か、マンホールを外すためには、専用の取手が必要だったはずだ。もちろん、ぼくはそんなものは持っていない。

「ぼくじゃ、無理だな」と首を振った。「取手か何か、道具が必要だったんだ」

「いいえ、外せますよ。簡単に」

「え?」

「手で掴んで、力強く引っ張れば外れます」

 ぼくは言われた通りにした。手を窪みの部分に入れて、指を引っ掻けた。深く息を吸って、それを思いきり引っ張った。

 大きな音を立てて蓋が外れた。必要以上に力を入れていたため、外れた拍子に後ろに倒れた。尻もちをついた。手にある蓋は、やけに軽かった。

「大丈夫ですか?」影は心配そうに言った。

「うん、でも、やけに軽かったな」

「だから、簡単って言ったでしょう?」

「あんたがそう計らったのか?」

「わたしにそんな力、ありはしませんよ」影は笑った。

 穴を覗くと、そこがとても深いことがわかった。風が通り抜け、ひゅうひゅうと音が鳴る。道端に落ちている石を投げ入れたが、底に当たる音はいくら経っても聞こえなかった。

「まるで不思議の国のアリスだ」

「そんなにメルヘンなものじゃないですよ」

「そりゃあ、そうだろうな」ぼくは頷いた。

 微かに臭気が漂っていた。これが下水なのだろうか、とぼくは考えた。とてもメルヘンとは言い難い臭いだ。この中に入ると思うと、頭が痛くなった。

 梯子はついていなかった。壁はつるりとしているようだった。一体どうやって降りるのか、とぼくは考えた。しかし、なにも思いつけなかった。考えなしにウサギ穴へ飛び込む、少女アリスのことが思い浮かぶだけだった。

「なあ、どうやって降りるんだ?」

「どうやって・・・・・・?」

 影は何のことだか、わかっていないらしい。それがぼくの神経を撫でつけた。

「梯子がなきゃ、降りられないだろ?」

「飛び込めばいいでしょう?」影が不思議そうに言った。

「こんな深い穴に飛び込めば、足が折れるよ」

「折れませんよ」

 ぼくは影を思いきり踏みつけてやった。それほど大きな音は鳴らなかった。代わりにぼくの足が少し痛んだ。影は少しも声を上げなかった。当たり前だ。ぼくは影を踏んだつもりでも、実際に踏まれたのはコンクリートなのだ。

「折れませんよ」もう一度、影は言った。

「・・・・・・そうか」

 それにしても嫌な気分だった。まるで、心の表面を虫が這いまわっているみたいだ。むず痒いが、手が届かない・・・・・・それをいいことに、虫が卵を植え付ける・・・・・・その内殻が破られ、無数の小さな虫がぼくの心の表面で蠢く・・・・・・そんなことを想像した。想像してから、ぼくは後悔した。

「とにかく、飛び込めばいいんだな?」

「ええ」

「飛び込んでも、無事なんだな?」

「ええ」

「なら、仕方がない」とぼくは諦めて言った。

 深く息を吸って吐いた。片足を穴に入れ、ぶらつかせる。やはりその穴は、ひどく深いように感じる。だが、仕方がない。ここに飛び込まなければ、ぼくは顔を取り戻せないらしいのだ。

 決心して、穴の中に飛び込んだ。

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