第2話

 これからどうすべきか・・・・・・ぼくは、半時間ほど考えた。しかし、何も考えが浮かばなかった。前例が無かった。顔を失った人がまず行う対策など、どこにも書かれていなかった。

 原因を考えるのは意味がないだろう、と思った。考えたところで、何かがわかるわけでもない。あらゆる論理を飛び越えた話に、原因を見出そうとするのは無駄なことだ。

 なんにせよ、顔は取り返す必要があった。顔がないまま、今まで通りの生活を送ることなど、出来るわけがない。顔が無い人間に、生きる権利など与えられない。

 朝食はいまだ取れていなかった。口を使わずにどうやって物を食べればいいのか、ぼくにはわからなかった。点滴を思いついたが、そんなものが家にあるわけなかった。

 部屋は薄暗かった。閉まったカーテンの隙間からは光が淡く洩れていた。ぼくはカーテンを開いた。光は眩しかった。妙な話だ、と思った。目はないのに、光は眩しいのだ。

 スマートフォンを開き、日付を確認した。*月*日。特に、どうということはないみたいだ。日付には何も関係はなさそうだった。

 光が差し込んだせいで、床にはぼくの影が出来上がった。

「ちんちろりん・たりらりらん・ぷるっぷう・ぺろっぱあ」

「・・・・・・え?」

 奇麗な女の声だった。ぼくは振り返る。しかし、そこには誰もいなかった。

「・・・・・・ここですよ」

「・・・・・・ここ?」

「し・た」

 ぼくは下を見た。そこには、ぼくの足元から切り離された影があった。

 ――喋っていたのは、ぼくの影だったのだ。

 大して驚かなかった。ああ、影か・・・・・・と漠然と思った。ぼくは、顔をなくしたのだ。影がぼくから離れ、さらに喋ったところで、今更驚いたりはしない。その声が女のものだったとしても。

 一歩前進して、影に近づいた。

「ちんちろりん、ってのは何?」

「意味・・・・・・?」影は不思議そうに言った。「意味なんてありませんよ」

「意味が無いのに、どうして言うんだ?」

「あなたの言葉には意味があるのでしょうか?」

「あるさ」

「今のあなたの言葉に、意味はありません」影は少し笑って言った。「あなたの言葉は、今、誰にも届きませんからねえ・・・・・・」

 言葉は届かない・・・・・・それは一体、どういう意味だろう? ぼくがついに言葉さえ失ったと言うことなのか、それとも……

「あなたは今、顔がないんですよ」

「それが、言葉とどう関係するんだ?」

「顔が無い人間・・・・・・バケモノであるあなたの言葉を、真摯に受け止める人間はいないでしょう?」影は、ふふふ、と笑った。「誰にも受け止められなかったら、言葉はその意味を失います」

 ぼくは適当に頷いた。否定はしないが、完全な肯定もしなかった。

 影はそれきり黙った。影に饒舌なイメージはないが、それにしても静かだった。話しかけられない限り、声は出さないのかもしれない、とぼくは考えた。

「あの」ぼくはしゃがんで、影に顔を近づけた。「あんたは、ぼくの顔が無くなった原因を知っているのかい」

 影がぼくの方を見た・・・・・・のだと思う。少なくとも、ぼくにはそう感じられた。

「時間です」影はぼくの質問を無視した。「ほら、いきましょう」

「ちょっとまってくれ」

「なんですか?」

「いきましょうって、一体どこへいくんだ?・・・・・・わけがわからないな」

「顔がなくなったのでしょう?」

「え? ああ・・・・・・」

「取り返すことが出来ることはわかりませんが」影は同情するように言った。「顔が流れた場所に連れて行っては、あげられます」

「連れていく? 流れた場所に、あんたが?」

「わたしは、その場所を知っています」

 ぼくは、ひどい臭いの水が流れる、暗い下水道を思い浮かべた。あまり行きたい場所だとは思えない。心が僅かばかり重くなった。

「・・・・・・そこにいけば、顔は戻るのか?」

「それはわからない、と言ったでしょう?」

「・・・・・・そうか」深いため息が出た。「だけど、戻るかもしれないわけだよな」

「それは、もちろん」

 再びため息が出た。ぼくの意識はほの暗く、光は遠くにあった。どうしてぼくは影と会話なんてしているのだろう。そう思うと、ひどく嫌な気持ちになった。ぼくはもう人間じゃないのかもしれない。そんな考えが冷たい汗のように身体を覆った。

「あなたは今、人間ではありません」影ははっきりと言った。「どんどんあなたは人間じゃなくなっていきます。顔、影・・・・・・あなたの人間の崩壊は進んでいきます」

「そうか」

 ぼくは短く言った。何を言われても心には響かなかった。人間の崩壊は、ぼくの内側でも既に始まっているのかもしれない。でなければ、こんなにも全てを受け入れたりはしないだろう。

「あのさ」ぼくは声をかけた。

 影は痙攣するみたくピクリと動いた。影はこわばった声で言った。

「・・・・・・なんですか?」

「あの時コールセンターで電話に出たのは、あんただったりしないか?」

 影の奇麗な声は、あの時の女と同じものだった。それで気が付いた。あの時顔を失ったと言えば、相談に乗ってくれたのだろうか、と考えた。

「あなたがそう思ったのなら、そうなのかもしれません」

「・・・・・・それは肯定と取ってもいいんだろう?」

 影はおかしそうに笑った。声にはなってなかったが、影の肩が動いたからわかった。顔が見えない分、心の流動が身体の動きによく表れているのだ。

「急ぎましょう」影はぼくを急かした。「こうしている間にも、あなたは・・・・・・」

「時間はあまりないのか?」

「・・・・・・ありません」影は首を振った。

「そうか・・・・・・なら、仕方がないな」

「ええ・・・・・・」影は静かに言った。そして、腕を伸ばして、「じゃあ、いきましょう」

「ああ」ぼくは頷いた。

 今度はしっかりと頷いた。自分でもそれをはっきりと感じとることが出来た。その様子を見てか、影は小さく微笑んだ。・・・・・・そんな風に感じた。

 結局どこにいくのかはわかっていなかった。ぼくの顔が流れた場所だということはわかる。しかし、それだけだ。ぼくは下水道を思い浮かべたが、もしかするともっと別の場所なのかもしれないのだ。

「具体的な場所を聞いていなかったな」

「いけばわかります」

「それは答えになってないよ」

「あなたは顔を失いますよ・・・・・・そう言って、昨日のあなたは納得しましたか?」

「え?」ぼくは声を上げた。「それは、まあ・・・・・・」

「そういうことです。丁寧に説明したところで、自分の目で見たことが無い限り、人間はそれを認めないんです・・・・・・」影は、そうでしょう、と首を傾けた。「もちろん、あなたも含めて」

「はあ・・・・・・」ぼくは言った。

 情けないぼくの声は、部屋の乾いた空気に溶けて消えた。

 ついてきてください、影はそう言ってドアに向かって進んだ。声は硬く、自信にあふれていた。とても確かな物言いだった。ぼくには出来ないだろう。

 ぼくは影の後をついていった。

 その時ふと、この家にはもう戻れないかもしれない、と思った。その考えはぼくの心を掴んで離さなかった。心に小さく痛みを感じた。

 影は静かに振り向いて、突き刺すようにぼくのことを見た。

 視線は死者の首筋のように冷たかった。帰れると思っていたのか、とでも言いたげな目だった。おれは罰せられているのだろうか、と思った。

 ぼくは今、世紀の犯罪者にでもなった気分だった。

  

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