第34話 真影

 長老ちょうろうの家は、珍しいまが屋造やつくりだった。


 母屋おもやうまやを直角に繋げており、庭も広く、農耕馬のうこうばを飼育している。格式高く風格のある佇まいをしていた。早朝、明里と千影は村の中腹に位置するまがの前に立っていた。


「村のご長老か。まともに話したことはないな。どんな人間なんだ」

「いろいろな取り決めの最終判断は長老が決めていると聞いたことはあります。‥‥私もあんまり会ったことないですけど」


 村の重要な事柄を取り決めている年役としやくと言われる面子は村長はじめ、宮司、長者、そしてこの長老が担っていて、会合もこの家でよく行われている。


「……私と千冬の祝言を決めたのも、長老だったと聞いています」


 そうか、と千影は頷いて、まがに入ろうとすると。


「あ、お待ちください! 幻神さま、明里さん! 間に合った!」

平太へいたさん」


 長者ちょうじゃの息子、ふきの夫だった。息を切らせて、風呂敷を掲げて走ってきた。


にしきさんに聞きまして。先日、蕗がご迷惑をかけたお詫びの品を迷っていたのですが、ちょうどよかった。長老に挨拶するのならこれをどうぞ。僕からとは言わなくていいので渡してください」


 と、風呂敷を渡された。


「お饅頭です。長老は甘いものに目がないので、少しはご機嫌伺いになるかと。つまらないものですが」

「いえ、そんな、ありがとうございます。急に呼び出されるなんて思わなくて助かりました。宗吾そうごたちと騒ぎを起こしたの、そんなにまずかったですかね」


 緊張した面持ちの明里を見て、平太は人の好さそうな笑顔を浮かべた。


「そんなに気負わなくても大丈夫です。若者衆はもうお二人のこと受け入れだしていますけど、上の世代はまだまだ頭が固い人も多いので。体裁上招いただけでしょう。普通にすればいいですよ」

「……普通、ですか」


 明里がいまだに戸惑っていると、簡単ですよ、と平太は笑った。


「結婚のご挨拶、まだ長老にしていなかったですよね?」






 母屋のひとつは座敷になっていて、富士長老ふじちょうろうは片膝を立てて二人を出迎えた。客間があることすら村中では珍しい。千影と明里が藁座わろうざに正座すると、奉公人が茶を出してくれた。

 

「よくおいでなさった。急に呼び立ててすまんかったね。幻神さま、明里」


 しわがれてはいたが、はっきりとした口調だった。村の誰よりも年嵩としかさで身体は骨ばってはいるが、肌は厚く眼光も鋭い。若いころはかなり大柄であるのが窺える、がっしりとした体格をしていた。


 長く生きるのが難しいこの時代に、平均寿命の倍は生きぬいてきた知恵も人生経験も身体能力も。神様とは別の意味で浮世離れしていた。蓄えた白い髭と相まって、風体は仙人といったところか。


「お久しぶりです。ご健在そうで何よりです。あの、長老さま、これを」


 明里が平太にもらった風呂敷を手渡す。一瞬目を見張った長老は、ふん、と鼻を鳴らした。


にしきといい平太へいたといい、若い者はすぐに絆されよって。余計なことを」


 バレバレな上に逆に機嫌を損ねたので、明里は身をすくませた。


「……あの、宗吾そうごと千影さまの騒ぎの件でしたらあの場で治まりました。ご用件とはいったいなんでしょうか」

「宗吾なんてどうだっていい。問題は幻神さま、あなた様が村の者を独断で贔屓しだしたことよ」

「……どういう意味だろうか。俺はただ明里を──仮初めと言えど我が妻を、馬鹿にされたから怒っただけであるが」


 千影は真っ直ぐに答えた。長老はそれよ、と顎をしゃくった。


「あなた様は明里に入れ込まれてしまわれた。もはや、明里の機嫌ひとつで村を滅ぼしかねない。そんな危ない者をのさばらせておくわけにいくまい」

「……千影さまは危なくないです。宗吾のときだって、千影さまは手加減なさっていたと聞きました」


 明里は身を固くした。正直言って、もううんざりな話だった。まだ、そんなことを言われねばならないのか。なにかするたびに文句を言われてしまっては、もはや二人は黙って耐え忍ぶしかなくなる。


「そうはいうがなあ、明里よ」


 表情の硬い二人とは打って変わり、のんびりと髭を撫でた。


「仮初めの夫婦の担保を忘れたのか? 神様の伴侶になるか考える時間が欲しいなどどと、甘っちょろい小娘の戯言を聞いたのは、なにかあったときにおぬしが神殺しできるからじゃぞ。それが今となっては明里自身が災厄の引き金になってしもうては」


 あきれ果てたように、長老はため息をついた。


「今のおぬしに、幻神さまを神殺しできるか? できないじゃろ」

「そ、れは」


 とっさに隣を見た。千影は明里と目が合うと、ほんの少しだけ目元を緩ました。隣にいることはもう当たり前で、明里の強張った表情を見て、安心させるように微笑むこの人を殺せるかと言われれば──明里は言葉に詰まった。それだけで担保が意味をなしていないことの証明になってしまった。


「恋情を抱かずとも情は芽生えるもの、それでは担保も何も意味はない。どころか、二人そろって脅しをかけてくるようではの。そんな危険な存在、村中に放置しておけん」


 頬杖をつき、千影を恨めしそうに見た。


「幻神さま、あなた様が大人しく使役されて、村の貯水槽ちょすいそうにでもなってくだされば、どれだけよかったか」

「長老さま!」


 明里が声を震わせ、千影の腕を掴んだ。その目が、金色のジャの目に点滅する。「明里、」と千影が明里を制したが、明里は怒りが治まらなかった。


「あまりにひどいお言葉です。なんで皆寄ってたかって千影さまのことを利用しようとするの。な、なにも悪くない、千影さまはなにもしてないです! 千影さまは神様なのになんで皆敬ってくださらないんですか」


 神様ねえ、と長老はバッサリと言い切った。


「ただそこにいるだけの神様なんぞ、なんの役に立つというのか。厄介事でしかないわ」


 明里は開いた口が塞がらなかった。あんまりにも悔しくて、光る瞳で長老を睨みつける。その姿を長老は平然と眺めていた。


「村長は頼りないし、長者も使えんかった。巫女も宮司も邪魔ばかりしおって。村娘がひとり、化生けしょうに落ちかけているではないか。幻神さま、あなた様のおかげでな。これを危険と言わずして、なんと言おう」


 長老は、す、と千影を上から下まで眺めた。


「──幻神さまよ、今のあなた様は、わしから見れば、村娘をたぶらかす危うい存在にしか見えぬ」


 千影は黙っていた。無表情で、長老の言葉を聞いていた。


「勝手に娘を連れて、勝手に出ていくことはまだいい。──だが、勝手に村中に入り込むのは許さん。数か月間だろうが、数十年間だろうが関係ない。例外は認めん。得体の知れないよそ者を村中に住まわせるのは、儂の目が黒いうちが絶対に許さぬ」


 他國と地続きではないこの島國は、とりわけ内側と外側の意識が根強く、境界を超えるものを厭った。それは村という共同体にも色濃く受け継がれていた。監視し合い、助け合い、結束強くひとつの生き物のように生き抜いてきた。だからこそ、よそ者には厳しい目は向けられる。それが人の皮をかぶった得体の知れない化生であるなら、なおさら。


「‥‥反論はしない。長老殿のおっしゃる通り、俺は地においてはあやかし同然。不安定であやふやな存在だ。それではいつまでたっても信用も得られはすまい」


 千影もまた、長老の視線から目をそらすこともなく、真正面から受け止めていた。確かに挨拶がまだだったな、と千影はぴん、と背筋を正した。


「十二柱がひとり、神名を幻神げんしん、名を千影ちかげ。この村の娘を嫁に迎えたい。婚姻を認めてほしい」


 そうして、袖をひるがえしし、床に両手をついて──深く平伏した。神様が、頭を下げた。


「──明里と共に村に住まうのを、どうか許して頂きたい。挨拶が前後して申し訳なかった」

「……千影さま」


 ふん、と長老は鼻を鳴らした。


「少しは礼儀をわきまえているようじゃ。挨拶くらいせんか。。自分が誰かも示さんで、勝手に住み着いていいわけなかろう。儂も今更どうこういうつもりもない。──ただあなた様は少し特殊であるからな。もうひとつ、見定めさせてもらうぞ」


 おい、と長老は奉公人に呼びつけた。障子戸が開き、食事が運ばれてくる。傍目から見ても豪華な食事を並べられ、酒まで注がれる。奉公人が障子を閉め引き下がると長老は微笑んだ。


「儂からの祝言の祝いがまだであった、食されよ」


 二人の前に置かれる、黒塗りの御膳。

 ずらりと並ぶ、秋のにぎわい。茸に大豆。芋、山ブドウ。あけび。米、汁物。そして。

 ──焼けた炭の匂い。


 千影は一瞬だけ、眉をはねあげた。


 鹿肉、猪肉。肉肉肉。肉の山。


「今年は迷い出る猪や鹿が多くての、食べねば山が荒らされる」


 長老はさあ、と二人を促した。


「お食べなされ。幻神さま。なあに、肉など下賤げせんの者が食べるもの。口に合わねば残してかまわない」


 不殺生ふせっしょうの教えやけがれのため神仏に獣の肉は捧げてはいけないとされている。それがどれほどの禁忌なのか、明里には分からないけれど。

 千影は確かに言っていた。「血の匂いがするから好きではない」と。

 明里が戸惑い、断りの声をあげようとすると。

 

「──有り難く頂戴する」


 千影は右手で箸を掴み、左手で箸下を支えたあと、右手を後方に滑らせた。

 儀式のような丁寧な箸さばきで箸を手に持ち、真っ先に肉の器に手を伸ばした。


 肉を一切れを掴み、ゆっくりと、口に運ぶ。

 

 黙々と噛み、飲み下す。


 そのさまをつぶさに長老は見ていた。


「……うん、美味いな。この土地の肉は」


 その横顔は、無表情。まるで石のように、微動だにしない。

 傍から見れば、違いは分からない。分からないけど──明里には分かる。


 ──ああ、これは、本当に好きじゃないんだ。


「あ、の! 長老さま!!」


 明里は唐突に大声を出した。びくりと千影が目を瞬かせる。


「わ、わたし、実はお肉が大好きなので!」


 千影の手から問答無用で皿を奪い取った。


「これだけじゃ足りません! 千影さま、私にください!」


 そのまま、自分の御膳に全部盛る。千影は眉をひそめ、


「いや、これは長老殿が俺のことを試して、」

「千影さま、私のこと好きなんですよね? なら、私のお願いを聞いてください!」


 明里は自分の口に肉をつっこんだ。呆気に取られて、ぽかんと千影は明里を見つめる。なにか言いたげだったが完全に無視して、ひたすら山盛りの肉を食べ続けた。長老の試しとやらはよく分からないけれど、千影を害するものなんて、さっさと腹に収めてしまえばいい。

 

「──……ふ、」


 そのうち、千影が肩を震わせて笑いだし、


「……聞いた通りなのだが、いいだろうか? 俺はこの娘が可愛くて仕方がないので、望みをすべて叶えてしまいたくなるんだ」


 長老も咳払いをして、


「……まあ、そうだな。神の世も、人の世も、どこの世も。妻に頭が上がらないのは同じ。儂にも身に覚えはある」


 言いたい放題言われて真っ赤になる明里を見て、長老は皺だらけの目を細めた。


「これにてあなた様は正式な村の者じゃ。なにか困りごとがあれば気軽に言うがよい。必ず手を貸す。村の者たちにも今後一切余計なことはさせないと誓おう。明里を、この村の娘をどうかよろしくお願いいたしまする。──千影殿ちかげどの





***


「だ、大丈夫ですか? 千影さま」


 まがの敷居を出た瞬間に、千影はよろめいた。袖で口元を隠して気分が悪そうにしている。青ざめて血色も悪い。肉の一切れを口にしただけで、これほどとは。


「俺からすれば毒のようなもの。本当に難儀な。人間の真似ごとをするというのは」

「ご、ごめんなさい、千影さま、私がもっと早く言えば……」


 いや、と千影は力なく笑った。


「神殺しの担保が意味をなさない以上、俺の力を削いでおくのは当然だろうな。あるかないかも分からない恩恵をあてにするより、災厄を封じる。懸命な判断だ。長老殿は正しいよ」


 ああ、また落ちた、と千影はぽつりと呟いたが、明里にはその意味は分からなかった。ふらつく千影の肩を明里は支える。その額には汗すら浮かんでいた。けれど、千影はなぜか満足そうだった。


「それでも、嬉しい。神様だから贄を、伴侶を、無条件で与えられるよりずっと、俺自身として村に認めてもらえるのは、嬉しい」

「千影さま……」

「お前の伴侶だと、認めてもらえるのは、嬉しいな」


 明里は喉から何かせりあがってきそうで、声が出せなくなってきてしまった。この人はまだ明里に好きだと言ってくれるのか。そんな価値が自分にあるなんて、到底思えなかった。


 明里が、ぎゅう、とその肩に顔を埋めると。


「明里、ありがとう」


 唐突に礼を言われた。何のことか一瞬分からなかったが、すぐに思い至り、溢れそうな涙を呑み込んだ。


「……いえ、傍から見たら私お肉を横取りしただけですので……お肉が好きなのも本当ですし」


 たいして役に立っていないのでは、と焦る明里を見て、千影は苦笑した。


「そうじゃなくて」


 千影は瞳を潤まして、本当に嬉しそうに、明里に微笑んだ。


「気づいてくれて」

「……ちかげ、さま」


「俺のこと、分かってくれて、ありがとう」

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