第35話 陰日向

 無条件の愛情を明里はもらったことがない。

 だから焦る、だから戸惑う。同時に、疑問にも思った。


 いったい千影は自分のどこを好きになってくれたんだろう。

 

 明里の愛情はいつも一方的に捧げるばかりで、献身するばかりで、返ってくることは一度もなかった。

 両親には届かなかった。従姉妹の家では邪険にされた。千冬には重荷だった。

 もはや、愛情が返ってくることなんて諦めてすらいた。それなのに。


「明里、俺はお前が、好きだ」


 正直少し怖かった。

 その手が、その声が、その目が、あんまりにもまっすぐな愛情を向けてくるたびに、その理由が実感できなくて。

 千影は嘘はつかない。信じられる。信じたい。でも、もし。

 もし、また義務とか労わりとか優しさだったらどうしよう。

 今度こそ立ち直れなくなってしまいそう。

 千冬と同じくらいあの人も優しいから、見捨てられなかっただけじゃないのか、と。

 卑屈な自分がずっとそう耳打ちしていた。

 

 ──けれど。


 明里は千冬のことが本当に好きだったから。愛することは知っていたから。それだけは千冬が教えてくれたから。


「俺のこと、分かってくれて、ありがとう」


 見つけてもらえること、分かってもらえることの喜びだけは知っていた。

 ──だから千影の気持ちが、すとん、と腑に落ちた。腑に、落ちてしまった。


(ああ、この人は本当に、私のことが好きなんだ)


***


「はぁ‥‥千影さまの顔、また見れなくなっちゃった」

「え!? まだそんなこと言ってるの!?」


 独り言のつもりだったが、ふきが素早くつっこんできた。


長老ちょうろうさまにも正式に認められたんでしょ? だったら、なにも気にすることないじゃない」

「そう、なんだけど」


 長老の家に招かれてから一気に風向きが変わった。誰も千影と明里を恐れたり揶揄する者はいなくなった。そこにいるのが当然として扱われ、村仕事も他の村人と同じように割り振られたし、『千影』の名前を呼ぶ者も増えた。人の輪の中にいる千影はなんだか嬉しそうで、家畜の世話やなわないの仕方など生活に必要な知識を熱心に教わっていた。「今日は清治せいじと釣りに行った」とか「にしきから酒に誘われた」とか夕餉時に逐一報告する姿は微笑ましくもあった。


「もう誰も邪魔しないから、存分にいちゃいちゃしなさいよ。してたけど」


 産着を編みながら、囲炉裏の傍で蕗は辟易していた。お産が迫り、村の産屋うぶやにも数日後には移る予定である。明里も着古した着物を解き、おむつを作る手伝いをしていた。


「うん、でも、私たぶん重いから……千影さま、私のこと嫌にならないかな」

「幻神さまも相当だけど、明里ちゃんも大概だよね。いい加減にしてくれない?」


 うへ、と蕗は口に水飴をつっこまれたような顔をした。


「明里ちゃん、真面目に考えすぎなんじゃないの、あんなに千冬さんのこと引きずってた明里ちゃんに好き好き言ってくる人なら大丈夫でしょ」


 蕗は心底うんざりしていたが、歯に衣着せぬ物言いは逆に安心すら覚えた。


「そうかな」

「そうだよ。千冬さんのことだって、もう整理はついてるんでしょ?」


 明里は俯いた。明里のことを心配していたと、蕗に聞いてから気持ちはだいぶ楽にはなっていた。千冬のことで胸を痛ませることもほとんどなくなった。それは単純に、時間が解決してくれる問題でもあった。


「……うん、最近はあんまり思い出すこともなくなってきたんだ。不思議だね。あんなにつらかったのに」


 日常は忙しなく、生きている者はやっぱり強い。

 千影の姿を見て、千冬と見間違えることは一切なくなっていた。


「もう、千影さまのこと、好きになってもいいのかな」

「いいでしょ──って、とっくに好きじゃなかったの!?」


 え、と明里は目をぱちくりすると、蕗は「自覚なし?」と肩をすくめた。


「明里ちゃんっていい子ちゃんだから、怒るのは好きな人のことばっかりだったじゃない。あんなにめちゃくちゃあたしに怒鳴っといてよく言うよ」

 

 蕗のあきれ果てた言葉で、また腑に落ちる。すとん、と理解する。


 長老の言葉に、よぎった本音がすべて。


「幻神さまを神殺しできるか?」


 ──そんなことするくらいなら、災厄で村を潰したほうがはるかにマシだ。




 明里は足早に蕗の家から帰宅する。

 早く会いたくて、早く伝えたくて。駆け足で畦道あぜみちを行く。

 夕日は落ちきってはいなかったけれど、冬に差し掛かった日の入りは早くて余計急かされる気持ちになった。息が切れて白い吐息が漏れる。たいした距離はないのになんだか遠く感じた。辺りが薄暗闇うすくらやみに覆われる中、ぽっかりと家の灯りが灯っているのが見えて胸の内は温かくなる。


 ちゃんと言葉にできるだろうか。気持ちを伝えたら、千影は喜んでくれるだろうか。


「ああ、明里。おかえり」


 いろいろ考えたけれど、土間でかまどの前にいた千影を見たら、用意していた台詞なんて吹き飛んでしまった。


「早かったな、帰るまでに作ろうと思ったのに間に合わなかった」


 かまどには火が灯されていた。鍋がぐつぐつ音を立てている。台所に立つ姿は物珍しかったので、思わず覗き込んでしまった。


「千影さま? なにしてるんですか?」

「長老殿からいわしをもらったので、つみれ汁にしていた」


 水干の袖をたすき掛けにして、千影は捌いた鰯をすり鉢で潰していた。まな板には魚の血がわずかにほとばしっていた。


「……血、触って大丈夫なんですか?」

「得意ではないが、魚ならそこまででもない。獣の肉を口にしてしまったのなら今更だしな」


 ──今更。その言葉にわずかに引っ掛かりを覚えたが、千影は魚の肉をこね、鍋に落とした。


「それに、お前、肉が好きなことを俺に黙っていただろう」

「え……ま、まあそうですが、肉なんてそんなに滅多に口にできませんし、」


 明里は俯いた。本当に遠慮とかではなくて。


「……ご飯は一緒に食べたほうが美味しいです」

「……そうか」


 千影は葱や大根を細かく切るとざっと鍋に入れた。湯気が立ちこめ、いい匂いがした。


「肉はさすがに食べられないが、これなら食べられる。明里、魚は好きか?」


 こくり、と頷く。千影は「よかった」と顔を綻ばせた。


「なら、一緒に食べよう」


 優しい笑顔に胸の真ん中がぎゅう、と締めつけられて、言葉が出なくなって──明里は勢い余ってその腹に抱き着いた。


「! なんだ、危ないぞ」


 千影が慌てて包丁を置く。無視して顔を埋めた。


「あかり? どうしたんだ? なにかあったのか」

「……」

「また誰かに何か言われたのか? 宗吾そうごにからかわかれたのか? ふきに小言でも言われたか?」


 ぶんぶん、と明里は抱き着いたまま首を振る。

 気遣ってくれる声が切なくて、大事にしてくれる気持ちが嬉しくて、うまく言葉にできない。無言で張り付いている明里に、千影は困ったように頭を撫でた。


「‥‥急にどうしたというのか。そんなに俺のこと恋しかったのか?」


 千影が軽口を叩く。そう言えば明里が驚いて身を離すだろうと思ったのか。

 それすら伝わって、明里はさらに強く、ぎゅ、と力を込めた。千影はその反応に硬直した。


「……明里?」


 腹に押し付けていた顔を上げる。戸惑いに揺れる蒼い瞳とぶつかった瞬間に、千影は息を呑んだ。おそらく明里の顔は真っ赤だったのだろう。明里の顔を見て、千影もまた、伝染したように真っ赤に頬を染めたから。


「──……本当に?」


 千影の心臓が大きく跳ねあがったのが分かって、明里の動悸も速まった。恥ずかしくなってまた胸に顔を埋める。千影の腕がおずおずと明里の背中に回った。明里が抵抗しないのが分かると、力いっぱい胸に押し付けられた。頬がつぶれて痛い。痛いけど嬉しい。落ち着かないのに、もっと触れたくて。隔てるものすべて邪魔に感じて。


「……ちかげ、さま」

「あかり」


 絞り出した声は名前を呼ぶのに精一杯だった。けれど、意図は充分伝わった。

 放置されたままの鍋が、ぶくぶく噴きこぼれだす。


 ああ、鍋が煮立っちゃう。火を止めないと。でもそのために離れることすら惜しい。自分以外に意識を向けられるのも嫌だ。そんな自分勝手な我儘を考えていたら、千影がかまどにフッと一息ふきして、火が落ちた。室内は急速に冷え込んだ。それでもちっとも寒くなかった。どころか、二人の身体は湯だったように熱い。音を立てていた鍋は、しん、と静まり返った。せっかく作ってくれたのに冷めてしまうかも。でも冷めたって、きっと二人なら美味しく食べられる。


「明里、ちゃんと言葉で──」


 熱い手が伸びて、明里の頬に添えられた。引き寄せられるように顔が近づき、明里は目を閉じた。

 吐息が、触れるくらい近づいて。「わたし、千影さまのことが──」唇が重なる寸前で呟いたら。


 唐突に、千影が手を離した。


「……ままならないな、」

「え?」

「間が悪い」


 なに、と声を出そうとした瞬間、じわ、と下腹部が痛んだ。夢から覚めるような痛み。ずきりと、冷や水を浴びせられるような、鈍い重み。──月の障り。


「い、た」

「……本当に申し訳ないが、俺はその血にもおかされてしまう。にしきを呼んでくるから、身体を冷やさず待っていてくれ」


 千影は御衣おんぞを手に取って明里にかぶせると、眉を下げて微笑み、


「惜しかった。今なら本当の妻にできたのに」


 そのまま明里に指一本触れずに出て行った。


 なんで、なんで今なのか、と明里は腹を押さえて悔しくなる。離れてしまった熱が恋しくて、遠ざかる背中が寂しくて、無理にでも縋りつきたくなってしまった。


 一度自覚してしまえばあふれでる──その身をけがしてでも、触れてほしかった。

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