第33話 倒影

 どうして、そのカタチをとったのか、もう覚えていない。


 ただ、水の中に投げ込まれたその声があまりにも喧しかったので、その生き物が求める姿をこの身に写したのが、たぶん、始まり。


 この世でもっとも、無垢で純粋な、誰かを求めて泣き叫ぶ声。


 ***


「幻神さま」


 ふ、と千影は目を開いた。


 苔むした岩場から滴り落ちる水を浴びて、身体に生気が満ちる。

 社の裏手に広がる鎮守ちんじゅもり。人の立ち入りを禁じている禁足地きんそくち

 木々の合間、清流に腰まで浸かり、ふう、と白い息を千影は吐いた。


「幻神さま、お着替えを持ってまいりました。まだみそぎをなさいますか?」

「……いや、いい。もう上がる」


 ぼんやりと意識を飛ばしていた千影に、巫女は再度声をかけた。

 ゆるやかな波紋を立て、千影は湧き水のたまり場から出た。黒髪から伝う雫が頬の輪郭を描く。毛先が首に張り付いてうっとおしい。そういえば、ほんの少しだけ、髪が伸びた気がする。


「お身体の具合はいかがでしょうか?」

「うん、少し感覚が開けた。地上はどうしたってけがれがたまるからな。人間の血や死以外にも、動物の死骸や病の不浄が近すぎる」


 肌に張り付いた白衣を脱ぎ、巫女が手ぬぐいで千影の背中をぬぐう。豆や傷だらけの村人とは違い、その肌にきずはひとつもない。肌の炎症すら完治するので、日焼けすら失せ、真っ白な肌を晒していた。けれど、その身の重さは、村に顕現けんげんしたときよりずっと、重量を増していた。


「……村の子が“千影さま”とお呼びになっていました。村に馴染むのは良いことだとは思いますが、明里以外にその名をお許しになるのは」

「別にいみなではない。隠しもしていない。仮にいみなだったとしても、明里があれだけ“千影”、“千影”と呼んでいたら意味もないだろう」


 それはそうですが、と巫女は着替えのひとえを羽織らせた。


「名前というのは在るだけでも充分強いものですが、声に出して呼ぶことで、さらにその存在を確定させるもの。神名の“幻神”ではなく、ただの個人名の“千影”が根付いてしまえば、畏敬や信仰心はさらに落ちてしまいます」


 巫女はすっと千影を見据えた。


「……また、神性が落ちました。今はどれくらいお力は残っているのですか」

「幻術と水鏡はさっぱり。目眩まし程度が精いっぱい。目も耳も、人間の姿ばかり追っていたら、風や空を見通すことも難しくなってしまった。身体なんか重くなりすぎて足音はもう人間と変わらん。せいぜい残っているのは、不死性と身体にきずがつかないことくらいか」


 千影はひとえの帯を結び、その上から露草色の水干に袖を通す。


「まあそれだけ残っていれば、天界に贄を連れて行くのは造作もない。地を離れれば神気も戻る。この村にだって、ちゃんと恩恵の雨を与えられる」


 ふ、と千影はそこで微笑んだ。


「明里が俺を受け入れてくれればの話だが、どうだろう? 期限の年明けまではあとふたつき。それまでに俺のことを好きになってくれるのかな。期待させることばかり言うわりに逃げるし、本当にひどい贄につかまった」


 けれども、神様は嬉しそうだった。初恋をする少年のように、恋が実るのを夢見ていた。


「……もう少し、鎮守の杜で身体を癒されては」

「いや、今日は薪割りを頼まれていてな、冬越しの支度もしなければ。お前がみそぎにと、急に連れ出すから全部放りだして来てしまった。早く戻らねば」


 もの言いたげな巫女を見て、千影は苦笑した。 


「お前は神性が落ちたことを憂うけれど、神性がなくなった分は、『千影』の部分が大きくなっているということだろう?」


 それならうれしい、と千影は笑う。巫女は危うげな顔をした。


「……私もご一緒に村に戻ります。そろそろふきが臨月です。精の付く野菜を宮司から預かったのでお届けに。出産時には私はなにもできませんので」


 ああそうか、と千影は社のほうを見た。社の脇、人目のつきにくい仮小屋──産屋うぶやを一瞥した。


 村中に戻り、巫女と歩く。


 年寄りや中高年は未だに遠慮がちにしていたが、子供や若者衆は「こんにちは」と気軽に声をかける者も増えた。中には「あら、幻神さま、浮気?」と軽口を叩く者までいる。千影が「ばかなこと言うな、俺は明里一筋だ」と平然と返すと、女たちは黄色い声をあげた。


 村外れまでたどり着き、数軒立ち並ぶ茅葺屋根の中で、ひときわどっしりとした造りの一軒。


「あれ? 千影さま、巫女さまとご一緒だったのですか」


 ふきの家の庭で明里は洗濯物を干していた。お産が近づき、従姉妹の家に足蹴良く通うようになっていた。


みそぎだ。巫女に呼び出されてな。頼まれていた薪割りは家に帰ってすぐする」

「……いえ、それはかまわないですが」

 見慣れない真新しい水干を見て、明里は妙な顔をした。

「……禊って千影さまのお着替えも全部、巫女さまがお手伝いするのですか?」


 巫女は目を瞬かせ、千影と顔を合わせた。反応に困っている二人に明里は俯いた。


「……女衆が、お二人が社の影でこそこそしてるって、言ってきたので」

「……これは考えが及ばず申し訳ありませんでした。ご伴侶の明里を差し置いて、差し出がましいことをいたしました。幻神さまは私の主ですので、ご要望があればお断りできないのです」


 え、と明里は戸惑い、千影は口を挟んだ。


「おい、妙な言い方するな。別にいかがわしいことはしていないぞ、明里」

「べ、別にそんなこと気にしてません。巫女さまにはすごくお世話になっていますし、千影さまは嘘なんてつきませんから。……お節介なことを言う人が多くて困ります」


 言葉とは裏腹に明里は背を向け、洗濯物を入れていた樽を壁に立てかけた。


「……でも、お着替えまで巫女さまに頼まなくても。せっかく夫婦だって認めてもらったのに」


 珍しく明里が拗ねているので、千影は呆気に取られていた。


「‥‥なんだ、明里。焼いたのか?」

「へ!? ……ち、ちがいます」

「面白くはなかったのだろう?」

「‥‥それは、まあ。面白くはないですけど。……巫女さまは美人だし」


 もじもじと俯く明里を見て、千影は嬉しそうに頬を染めた。


「いい傾向だ。どんどん焼いてくれ」

「ち、千影さま、往来でそういうこというの、本当にやめてくださいってば」


「いや、明里ちゃんも人んちの前でイチャイチャするのやめてくれない!? 洗濯物終わったならもう今日は大丈夫だから! 助かりました。ありがとう! そこの色ボケ神様をさっさと連れて帰ってよ」


 と、むっすりと蕗が割り込んできた。千影はじろりと蕗を睨み、


「また邪魔する気か。お前は」

「してませんー! 家でやれって言ってるんですー!」

「家で言おうが明里は逃げる。何も変わらん」

「見せつけられるこっちの身にもなれって言ってるんですよ!?」


 謎の言い合いが始まって、明里があわあわと焦っていると「あ、ちかげさまだ!」と蕗の弟たちが出てきた。竹籠いっぱいの木の実を千影に見せる。「ちかげさま、クヌギの実、拾ってきたよ」「独楽こま、作って」と千影にまとわりつく。ここ最近、蕗の弟たちは千影のもとによく遊びに来ていた。袖を引かれ「どれ、虫食いされてないか、見てやろう」と、千影はさっさと蕗から意識を移して、子供たちから籠を受け取った。その姿を蕗も明里も意外そうに見つめる。


「なんか、意外だけど、妙に懐かれてるわね。幻神さま」

「……それは、私も意外だったかも」


 明里も蕗も顔を見合わせ、肩をすくめて苦笑した。


 巫女からの手土産を蕗に手渡し、身体の具合やお産の段取りをしばらく立ち話したあと、千影と明里、巫女は蕗の家を後にする。


「ちかげさま、またね」

 と、蕗の弟たちも千影に見送った。千影は目を細めて、頭を撫でた。

 その姿を見て、蕗も後ろめたそうに頭を下げる。素直ではないが、彼女なりに以前よりも距離を推し量ろうとしてくれているのは伝わった。


「千影さまって、子供が好きなんですか?」


 帰り道、明里は横に並んだ千影に尋ねる。

 その手には子供たちからもらった、独楽こまのひとつが握られていた。


「好きか嫌いかと言われれば、まあ好きだろう。この國の神々は死の不浄を嫌うもの。逆に言えば子供や赤子は生命の象徴。言祝ことほぐのは当たり前だ」


 まあ、ただ、と千影は振り返り、軒先で独楽こまを見せてもらっている蕗を見た。

 その大きな腹を。


「……出産時だけは、少し違うがな」

「え?」


 お前だって知っているだろ、と千影は首を傾げた。


「この村にも忌屋いみや──産屋うぶやはあるだろ? 月の障りや出産時の娘が隔離される場所。そういう娘は神事にも、村仕事にも参加してはいけない。月の障りも出産も穢れ──不浄のひとつだからだ」


 はっきりと言われ、明里は少し戸惑う。深く考えたこともなかったが、確かに月の障りの際は明里も村の娘も、社の近くの仮小屋に世話になる。


「穢れているから、神事に参加するな、というと、ご不快に思われるかもしれませんが」


 とりなすように、巫女が言った。


「同時にこういう意味もあります。神事や村仕事になんか参加しなくていいから、お休みなさいと。まあつまり、人が言うよりは『神様がそういうなら』仕方ないってやつですね」


 千影も巫女の言葉に頷いた。


「俺たち神々は血や死の不浄が不得手だからな。血と死があふれている場所とは、単純に危ない場所だろう? 病にしろ、戦場にしろ、生者まで危険にさらす可能性がある。だから、穢れであり、不浄。死に関することが不得意な代わりに、生を祝福するのが俺たちの役割であり、信仰のもとになっている」


 葬式を行うのは寺だが、懐妊の祝いは社で行うだろ? と千影は静かに言った。


帯結おびゆい産湯うぶゆ初宮参はつみやまいり、百日祝ももかいわい。赤子にまつわる言祝ことほぎはたくさんあるが、出産という最も生に関わる事柄のみが不浄なのは、なんのためか」


 千影はすっと、蕗を見据えた。つわりも終わり、健康的で元気そうにしているが、案じるような視線を向けた。


「──決まっている。。赤子が内から外に転じる瞬間、一つの身体から二つに切り替わる堺、境界は生と同時に死も近くなる。出産が穢れなのではなく、その時流れる血の量。それが穢れ、不浄。死が近くなるほどの大量の血。母体も赤子も、どちらも命がけ。むやみやたらに手出ししていいものではない。神ですら、な」


 千影は視線を蕗から外し、前を向いた。


「だから、出産は穢れ。──赤い不浄なんだよ」


……

………。


 そんな話をしたせいだろうか、夢を見た。


 水の中に、どぼん、と落ちる音。


 小さな身体と甲高い悲鳴。


 ぼこぼこと、浮かぶ、水の泡。


 


 ふ、と千影は目覚める。明里の家。寝室。夜明け前。──眠っていた。ここのところ、気がついたら眠ることが多くなった。以前なら睡眠も食事も、気休め程度だったが、今は普通に腹が減るし、眠気も出る。単純に神性が落ちて消耗するのだ。それがいいことなのか、悪いことなのか、分からないけれど。


「うぅん……」


 目の前で寝息をもらす娘を見ていたら、どうでもよくなった。隙間風に身を震わせ、人肌を求めて、明里は千影にすり寄る。千影は御衣おんぞを引き寄せて、明里にかけてやる。本当は力いっぱい抱きしめたいところだけれど、また逃げられては困るので、ぐっと我慢する。


 愛されることが不得意な娘は千影が愛の言葉を伝えるたびに慄くけれど、隣に並ぶこと、そばにいることには慣れ始めていた。あどけない、明里の寝顔を見つめる。今日は、その目で自分の何を見つけてくれるのか、その声で何回、名前を呼んでくれるのか。それが楽しみで仕方がない。本当はずっと寝顔を見ていたいけれど、明里の温度は心地よく、眠気に襲われた。うとうとと、幸福なぬくもりに微睡んでいると。


千影ちかげさーん! 起きてる?」


 無遠慮な声がした。眉をひそめて、千影は身を起こした。女衆の頭、背の高い娘、にしきがへらへらと戸口に立っていた。


「……お前に名を呼んでいいなどと、許可した覚えはないが」

「心が狭いな。村の子供がそう呼んでた。かまわないだろ。だいたい若者衆は面白がって何人かそう呼んでるよ? ひとりひとり許可を出すのかい?」


 よく通る朗らか声に、千影は背後の寝間を振り返った。


「……煩い、明里が起きる。静かにしてくれないか」


 千影が顔をしかめると、にしきは笑った。


「あいかわらずの愛妻家ぶりで、いいね。気に入ったよ」

「何の用だ」


 それがさあ、と錦は両の手を千影に合わせた。


「この前、千影さんと宗吾が小競り合いしただろ? うまく村の連中には言いくるめたんだけどさ、やっぱり、だめだった。長老ちょうろうの耳に入っちゃった」


 後ろから寝ぼけた明里が「ちかげさま?」と目をこすって出てくる。千影はほんの少し困惑した顔をした。


「悪いけど。明里と一緒に長老の家に挨拶に行ってくれない? 村一番のおっかない人が、お呼び出しだよ」

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