2章 『生贄』

第13話 催涙雨

 村という共同体の中では、祝言や葬儀はどの家であろうとも、皆で協力して執り行われる。特に葬儀は村八分からも除外されるほど、重要なしきたりだ。


 狭い村ではそうやって手を取り助け合っていくのが当たり前で、そうやって次世代に繋げていった。明里の両親が亡くなったときも、親戚の従姉妹だけではなく、村の女衆が明里の面倒を見ながら、葬式を執り行ってくれた。


 残された明里は従姉妹家族のもとに当初身を寄せていたが、年寄りや赤子のいる八人家族は自らの一家を養うのに手一杯な状態だった。


 葬儀の最中、誰かが言った。

 母ひとり息子ひとり住まう隣家がある。その家の息子と両親を亡くした娘は年の頃も同じ。


「千冬が明里を嫁に貰えば“ちょうどいい”」


 それは直接の言葉でなくとも、村の中では暗黙の決定であった。若い娘がひとりで暮らしているのは揉め事の種である。野盗や野武士の押し込み以外にも、夜這い文化が根強い田舎は明里の身はもちろん、すでに形成された家庭が若い娘によって崩壊するのも憂いた。だが、すでに将来を約束した相手がいるなら、それは規律を破る行為。明里に手を出せば、村八分に該当する。集団で生活する村人からは死刑宣告に等しい罪状。


 村はひとつの共同体。そうしながら、治安や規律を守ってきた。そうしながら、災害や飢饉を乗り越えてきた。


 同調圧力は決して悪いことではない。規律に従わないもの、有事のときに協力しないものを弾き出さなければ、この村、そしてこの國は決して生き残れなかった。生きるために編み出された手段のようなものだ。


 ただ──それに圧し潰されて声を上げられない者が、自分の意志を殺す者がたまに存在するくらいだ。千冬は、それだった。年老いた母の面倒を村に見てもらう代わりに、幼い明里を養う。それが、彼の役割だった。


 だから、千冬が明里の世話を断る選択肢はもとよりなく。両親を亡くした哀れな幼子を拒否するなんて村の目が許さなかった。いずれ二人は祝言をあげると、決まっていた。病を患った老婆や、親を亡くした幼子。集団の中で弱者と呼ばれる存在を救うためにはそれしかなかった。その無言の村からの圧力に気がついていて、明里は見ないふりを続けた。千冬が明里を労る気持ちはほとんど義務のようなもので、それに千冬も納得していた。分かっていて、明里は村の圧力に乗っかり続けていた。千冬の気持ちを殺し続けていた。


 それは今、村人が明里を生贄として扱う仕打ちとなにが違うというのか。明里は千冬から与えられるばかりで、何も返してはいない。千冬は間違いなく、明里に捧げられた“生贄”だった。




 ごぼぼっ、と息が吹き出す。


 嵐で水嵩を増した川は、容赦なく明里を飲み込んだ。何度も流木に身体を打ち付ける。呼吸ができなくなるほどの衝撃。硬い岩肌に当たれば明里の柔な身体なぞ、脆くも崩れ去るだろう。水面に這い出ることすら叶わない。冷たくて、息苦しい。死が迫りくる恐怖。千冬はこんな最期を迎えたのか。明里はぞっとした。千冬の後を追って身投げする勇気など粉微塵になるほどの生への執着。


 いたい。くるしい。こわい。

 だれか、たすけて。


「あかり!」


 うすらと開けた目に映る千冬の顔。躊躇なく川に飛び込んだ幻神は水の抵抗などなにもないように、明里に追いつく。腰に腕を回し、力強く水面に引き上げる。水分を含んで重しになった着物ごと軽々と、問答無用で川辺の砂利の上に横倒しにされる。打ち上げられた魚のように、ぐったりとしていた明里を幻神は揺さぶった。


「なにをしている! 大丈夫か?」


 名前を呼ばれ、飛びかけていた意識が戻る。途端にむせ返った。


「打掛を脱げ。体温を奪う。俺は身体を温めることはできない」


 飲み込んだ水を吐きながら咳き込む。仰向けの身体をひっくり返し、千冬の幻は明里の背をさすった。何度か水を吐き出し、ようやく呼吸の仕方を思い出す。助け出された安堵と、死の恐怖で手が震える。荒い呼吸を繰り返しながら、目の前の幻を見た。


 同じくずぶ濡れの千冬の幻は、擦り傷ひとつなく、息すら上がっていなかった。


 それが決定的だった。


「ちふゆじゃ、ない」


 喘ぐように涙があふれた。幻神はぴくり、と触れていた手を止めた。かまわず、明里は泣き叫んだ。千冬にこんな芸当はできない。いくら力はあっても川に流された人間を引き上げるなんて人技ではない。


 そもそも、千冬は明里のために川に飛び込む真似はしない。


「あなたは、千冬なんかじゃ、ない」


 分かっていた。千冬の心は別にある。明里に情がないとか嫌悪しているとか、そういうことではない。自分のことを妹のように思ってくれてはいたけど、女としてのものではない。もし、別の娘と夫婦になれと言われれば、恐らく苦もなくそうした。その程度の関係だった。だから、夜な夜な千冬を誘っていたのは明里であり、千冬に触れたかったのも明里だけであった。


 幻神の見せる幻惑は致命的な欠陥があった。千冬本人ではなく、明里が望んだ千冬なのだ。そこにはやはり絶望的なずれがある。幻が自分の思い通りの彼を演じれば演じるほど、自分の妄執を見せつけられる。  


「千冬はあんなこと言わない。神様が聞いて呆れる。全然似てない」

「‥‥俺の幻惑に文句を言った奴はお前が初めてだ。あかり」


 幻神の瞳からは怒気の色は失せていた。とぐろを巻いていた蛇の影も今は鳴りを潜めている。金色に光っていた眼はいつもの深い蒼色に沈み、泣き崩れるばかりの明里を見つめていた。


 村の外れ。祭囃子もここには届かない。静かな川辺に、流れる水の音だけが響いていた。


 ぽつり、と幻神が呟いた。 


「そんなに、ちがうか」


 明里は泣き濡れた顔をあげる。


「そんなに、似ていないか」


 道標を失った迷い子のような、そんな小さな声だった。


「そんなに、この男が好きなのか」 

 ‥‥──。


「そうよ。いっそ、まったく知らない人なら」


 愛せたかもしれないのに。  


 幻の輪郭が一瞬、ぶれた気がした。傷ついたように見えた。初めての表情だった。


「俺に実体はない。まぎれもなく、この姿を望んでいるのはおまえだ」


 何度も聞いた台詞。明里はもはや自嘲の笑みすら浮かんだ。千冬が死んだとき、「千冬も明里の幸せを願っているはずだから」と死者の口を借りた村人の慰めになんと思ったか。生者の都合で勝手に歪めないでほしい、だとか。どの口が言うのか。


 だったら、明里のしていることはなんなのか。神様を使って、千冬の姿を作らせて、望みの台詞を吐かせている自分はいったいなんなのか。千冬が明里を愛していないと分かっていて、その本心に気づいていて、まだ、あの偽りの優しさに縋っている自分勝手さ。死人に対していつまでも幻想を押し付けている浅ましさ。


「もういい。もう充分だから、千冬の姿にならないで。お願い」


 ただ愛し合っていた想い人を忘れられないから、という綺麗な理由なら、どれほどよかっただろう。明里の想いはそんなものではない。打算も依存もすべて綯い交ぜになりながら、それでもまだ千冬に執着している。自分の妄執のカタチが目の前にいるのがつらくて、いつも目をそらしていた。


「それはできない。贄」


 幻神は悲鳴を上げる明里を見て、視線を下げた。 


「俺は一度写し身の姿とったら、贄のお前が死ぬまで解除できない。鏡に映る本人が消えない限り、写し身も消えない。俺にはどうすることもできない」


 幻神が写しているのは明里の心。鏡は見たくないものを都合よく消してはくれない。事実をありのまま映す。そういうものだ。 


「‥‥ごめんなさい、ごめんなさい」


 意味もなく、明里は懺悔を口にする。自分の気持ちを見ないふりをしていたツケが今目の前にやってきた。ただの自業自得。明里が千冬への想いを整理できていれば、幻神は千冬になることはなかったのだ。


「あなたはなにも悪くない。私が、彼を踏みにじっているだけ」


 自らの責に打ちひしがれる小さな身体を幻神は見つめていた。明里が幻神を千冬として見れば儀式は成立するというのなら、逆に言えば、ここまではっきり拒絶の言葉を出してしまえば、それは失敗を意味する。村を、娘を災厄で潰さねばならない。けれど、何故か幻神はそんな気は起きなかった。


「また泣かせた。どうしたらいい? 口で言ってくれ。もっと正しく、もっと確かに望む姿になってみせるから」


 幻神がしたことは必死に説得することだけだった。まるで、ただの人間のように。無力でなんの意味のない懇願。


「言ってくれ。おまえの望みを」


 あまりにも切実で、真剣なその言葉の滑稽さに明里は笑いがこみあげた。なんて的外れ。幻が模倣すればするほど、彼に近づこうとすればするほど、明里の心は離れるというのに。


 やっぱり、神様は神様だ。どんなに恐ろしくても、人間の醜さには敵わない。こんな純粋で、真っ直ぐなことは言えない。涙があふれて止まらなかった。


「ちふゆに、あいたい」


 寸分違わぬ、彼の幻に叫ぶ。 


「あいたい、あいたい」


 千冬が生きていれば、千冬に会うことができれば仮に義務感からにしろ、夫婦として過ごすうちに新しい関係は生まれたはずだ。情が芽生えて本当の愛が育まれたかもしれない。もしくは、やはり関係は破綻して恋も冷めただろうか。いずれにせよ、結果は出たはずだ。その可能性は永遠に失われた。明里の恋は永遠に宙ぶらりんのまま。まぼろしのように、うやむやのまま。





 ぽろぽろと落ちる涙を幻は眺めている。間違いなくこの娘は千冬を求めているのに、幻神にはその願いを叶えられない。こんなにも、カタチは同じなのに、明里は幻神を見ない。


 幻神はこれまで幾度も相手の求める姿になってきた。美しい女性にょしょうから、美丈夫まで。望む姿を写し取った。誰だって喜んだ。それを「軽薄だ」と笑う人間も神もいたが、幻である自身には愛しく思った。本物が手に入らないなら、幻想に縋って何が悪い。夢見ることは誰だってあるはずだ。幻神の写し身はそういう人間たちのためにある。


 この娘のように、添い遂げられなかった相手になることもあった。それなのに、この娘は自身がこの男になればなるほど、近づけば近づくほどに絶望するのであった。


 偽物に絆されるのは死者に対する冒涜であると、都合よく歪めるのは本物に対する侮辱であると自分を責める。なにがいけないのか幻神には分からない。大なり小なり、他者を都合よく見るのは当たり前のことだ。まして、相手は死者だ。なにもなし得ないなら、生者の糧になるべきだ。前を向き、生きていくためなら利用するべきだ。死者も、幻である自分も。


 だというのに、どうして。どうして明里は神に救いを求めないのか。どうして幻に夢を見てくれないのか。


(‥‥真水のようだ)


 真水のような、純粋な愛情。写し身には決して手に入らない。


 幻神に向けられていた愛は、いつも依り代の誰かを通しての愛だった。それを不服と思ったことはない。この身はまぼろし。いつも、誰かの影だった。でも、こんなふうに、神にも幻にも惑わされない愛を向けられるのは、いったいどんな気持ちなのだろう。


(──なんて、羨ましい)


 幻ははじめて、依り代を妬んだ。 

 パキン、と鏡が割れるような、そんな音が聞こえた気がした。

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